暗い――暗い場所だ。気持ちまで落ちる、沈む、登ることができなくなる。
いや、正確には暗い、ではなく黒い、なのだろうか。本当の闇ならば自分の存在もわからなくなるはずなのだから。掲げた手は、見れる。自分の足も、わかる。他の者達の姿も見えるし、己は此処にいる。いなくなっていない――消えていない。自分は、自分。そしてシンデレラではなく、今を生きる“瀬良涼貴”であるはずだ。
――そう、だから。……震えたりするんじゃない……!!
此処は、あの時の闇ではないはずだ。それなのに、涼貴の中の“シンデレラ”がトラウマを思い出して悲鳴を上げている。何度闇の中で、許してください、ごめんなさいを繰り返したことだろう。些細なことであの継母は自分を閉じ込めた。小さな体をぎゅうぎゅうに押し込めてやっと入れるだけの箱に入れ、反省するまでそこから出るなと何度も叱った。そのたびに世界は闇に閉ざされて、いつここから出ることが許されるかもわからぬ恐怖に怯えて過ごすことになったのである。
ああ、時には全裸で投げ込まれることもあった。あの世界のあの時代、暖房なんて便利なものはない。家の中であっても、温かいのは暖炉が点っている居間だけだ。そこから遠く離れた倉庫などは真冬になれば本当に寒くて、ガチガチと歯の根があわなくなることも少なくなかったのである。当然、凍傷を負ったり、激しい体調不良に陥ることもあった。そしてシンデレラがそういう状態になって高熱を出し、ミスをするたびまた叱責を受けて閉じ込められる――その繰り返しである。
そして、継母が死んで王子の后という名の性奴隷になることになった後もそう。普段はまともな服を着て温かいベッドで寝ることも許されていたが、王子の機嫌が悪ければ必ずといっていいほど折檻を受けて閉じ込められたものである。そういう時は裸なのは当たり前で。もっと言えば手を上から釣られた状態で放置されたり、酷いと逆さ吊りで何時間もほっとかれたこともあったのではなかろうか。
自分が苦しむと、皆が喜ぶ。それが面白ければ面白いほど、責め苦はどんどん長くなる一方である。
学んだところでどうしようもなかった。痛みや苦しみを我慢して乗り越えていけるには、あまりにはシンデレラは幼く――それだけの強さを育てるだけの時間も用意されていなかったのだから。
――怖がるな。恐るな。あれはもう、全部過去のことだ。もう継母も王子もいない、だから、だから……!
「涼貴」
ふっ、と。震えが止まった。彼女の声と共に、握りしめていた手に触れるものがあったからだ。
「大丈夫だ。……どんな闇に見えても、怖くても。これは、切り裂くことのできる闇だ」
どうして、そんなにも強いのだろう。彼女の、凛音の言葉とともに、凍りついていた手からゆっくりと血が通っていく。
見ればそこに、彼女がいた。真っ暗に見えても、黒く塗りつぶされた不気味な空間でも――凛音がそこにいて、その向こうには同じ志を共にする仲間達もそばにいた。
当たり前すぎるほど当たり前のことを、今更強く実感する。独りではない、と。
「お前はもう、虐げられるばっかりで、震えていた女の子じゃない。気に食わない運命なら、殴り飛ばしてやろうぜ。私達、みんなで一緒にさ」
相変わらず、カッコつけたセリフだというのに。聞く者が聞けばクサいどころではないはずなのに。今はそんな凛音の言葉が、何よりも温かくてたまらないのだ。
そうだ。未来を見る――見つける。守りたいものを守るために此処にいる。自分を今日まで育ててくれた家族を、友達を、居間目の前にいるこの人を。
「ええ。……ありがとうございます」
震えは止まっていた。涼貴はしっかりとその手を握り返し、そして再び視線を正面へと投げるのである。
黒く塗りつぶされた、闇かと紛う空間。しかし互の姿は確かに見える。同時にもう一つ、奇妙なものも。
闇の中、巨大な赤い鋼の扉が浮かび上がっているのだ。まるでこちらにおいで、と誰かが誘っているかのように。
「さっき聞こえた声の主。……あの人物が、僕らを此処に呼んだということでしょうか」
「多分。こもってたせいで、男か女かはよくわかんなかったけど」
同じく扉に目を向け、凛音が告げる。
「こんなに早く仕掛けてくるのは予想外だったけど、まあいんじゃないかな。こっちから捜す手間が省けたってことで。……この先に魔王ってヤツがいるんだろうさ。なんていうかもう、ここまでゲームのお約束踏んでるとむしろ笑えてくるレベルというか」
「なるほど、では姿もそのテンプレートかもしれません。角が生えていて体が大きくて、マントでもかぶってるんですよきっと」
「でもって顔は、ものすごい鬼みたいな怖いヤツか、超絶美形かのどっちかなんッスねきっと」
話に加わってきたのは瑠衣だ。こんなかんじ、と両手で角のジェスチャーをしている。どうやら、彼の方は怪我もほぼほぼ回復したらしい。同時に、心の方も。何があったかわからないが、金太郎との戦いではだいぶ精神的に参っていた様子だから心配していたのだ。
彼のことは、自分も凛音の話でしか知らないけれど。ただ漠然と、凛音が助けたいと思うような親しい後輩が悪い奴なはずがないなとは思っていたのである。実際、人あたりも悪くない、爽やかな青年であるようだ。この戦いが終わったら、全員ともっと話をしてみようかと思う。
友達が今までいなかったわけではなかったが、元より生真面目でおとなしい性格の涼貴は圧倒的にその数が少ない。同じ目的を共にした者達となら、今までとは違うものを分かち合えるようになるかもしれなかった。
そう、生きて帰ることができたら、きっといくらでもできるだろう。
「最近の女子の流行がずっとわからないと思ってたんだ」
ふん、と鼻を鳴らして莉緒が言う。まだ傷は残っているようだが、歩けないほどではないようだ。
「何で異世界に転生したら、出会うキャラ出会うキャラみんな都合よく美形なんだ。むしろみんなイケメンすぎて顔の区別がつかないレベルだぞ。あと謎の洗脳魔法でも使ってるのか、なんで出会い頭に惚れまくってくる奴ばっかりなんだ」
「そういうお約束にツッコんではだめよ、莉緒。女の子はいくつになってもそういう夢が見たいものなんだもの。学校のクラスの子達もきっとそうなのよ」
くすくすと笑うリーナ。そう、こんな軽口も、冗談を言うのも、誰かの気持ちを和ませようとするのも。
きっとできる。生きて帰ることができれば。守るべきものを、守ることができたなら。そんな当たり前を守るために、自分達は今ここにいるのだ。
「イケメンは何人いてもいいじゃないか!ギャルゲーで美少女が何人いてもいいのと同じだ。なんなら私がお薦めのBLゲーを布教してやるぞ!」
そして、まとめるように拳を突き上げて宣言する凛音。えー、と周囲の苦笑とドン引いた声をよそに、彼女は先陣切って歩き出す。
「そのためにも。……行こう!」
そして、全員が再び異説転装する。扉に手をかけ、いざ決戦の地で。
怖くても、恐ろしくても、どんな恐ろしい魔王が待っていても――きっと大丈夫だと信じるのだ。自分達はもう、誰も独りきりで戦っているわけではないのだから。
「!」
凛音が手をかけた途端、重い音と共に扉は自動で開いていく。その先に出現したのは、真っ黒な闇の中に浮かぶ玉座のようなもの。赤と金で装飾された豪奢な椅子は、まさに“魔王の玉座”と呼ぶに相応しいものであるに違いない。
問題は。そこに座っていたのが、巨漢で角の生えた魔王などではなかったということ。
「ああ、やっと来たか。最後の思い出話は終わったか?」
ゆっくりと立ち上がり、そこから踏み出した“魔王”は――幼い少女の姿をしていた。それも、とても見覚えのある。
「……赤ずきん?」
そう、赤いずきんをかぶり、ひだスカートをふわふわと揺らし、茶色の編み込みブーツでこつこつと床を叩きながら歩いてくる小学生くらいの少女は。誰がどう見ても、あの“狼と赤ずきん”の主人公、“赤ずきんちゃん”そのものであったのだ。
ただ舌っ足らずな声に対し、口調があまりにも合致していないというだけで。
「いかにも。オレが、赤ずきんだ。そして君たちが魔王と呼ぶ存在でもある」
まあるく、ふくふくとした頬と大きな眼を歪め、いかにも楽しそうに笑う娘。とても可愛らしい少女であるはずなのに、その表情はどこか邪悪で狂気を感じるものである。喋り方からして、中の人間は男性だろうか。
「色々考えたが、こういう展開もまた一興だと思ってな。最後に派手な、狂乱の祭で締めくくるのも悪くないと思って、君たちを招待させてもらった」
「どういうことですか」
「もうオレの目的は分かっているんだろう、シンデレラ。一寸法師がいい具合に喋ってくれたようだし、金太郎や白雪姫もほどよくお喋りだったはずだ。まあ、わざと奴らに情報を与えてくれそうな連中をお前達には差し向けたわけだが」
まるで、全てシナリオ通りだったと言わんばかり。両手を大きく広げて、赤ずきんは大袈裟なまでに語る、語る。
「物語に、起承転結は不可欠だ。特にどんでん返しがあればあるほど、読者を楽しませ喜ばせることができるものであろう?だから、それを演出してみようと思ったまで。……魔王と、オレが自らそう名乗って奴らに教えたのもつまりそういうこと。オレはシナリオライターであればよく、主人公である必要はなかった。……主人公は勇者で、ラスボスは魔王。昔からそう相場が決まっているだろう?誰もが勝利を確信し、ハッピーエンドを導くと疑わぬ勇者の存在が必要だったわけだ」
そのほっそりとした指が、まっすぐに涼貴を、瑠衣を、リーナを、莉緒を――そして凛音を指差す。
「お前達は素晴らしい。望んだ通り仲間を集めて、オレが差し向けた刺客を次々と撃破してくれた。いやいや、君たち全員があっさりと負けて軍門に下ってくれたらどうしようかと思っていたんだ。それでは主人公が主人公足りえない。努力と友情で勝利と掴む勇者……今時の流行とは少し違うかもしれないが、やはり大衆には今も昔もそういう勇者が受けるはずだと思ってね。魔女もきっとそのはずだ、と」
「なるほど?……そうしてまさに“勇者が魔王に勝ってハッピーエンドになるだろう”と予想させたところで……全てをひっくり返すわけか。お前一人の力で」
「まさに、その通り」
ニヤリ、と莉緒の言葉に嗤う赤ずきん。
「勝利を約束された筈の勇者達が、なすすべなく魔王に蹂躙され、スプラッタも真っ青なひき肉になる。そして、魔王が創りだす新たな……選ばれた者が選ばれた力を自由に使える、新たな混沌の世界が産まれるというわけだ。最高のどんでん返しだろう?特に……残酷な物語を好むかの魔女は必ず気に入ってくれるはずだ。オレは人間として初めて、自ら新たなる物語を献上する魔女の使徒となる……!」
酔いしれるその眼には、既に正気の色はない。何が彼女を、そこまでの狂気に駆り立てたのか。そして何故そうまでして魔女に愛されたいと願うのか。残念ながら、涼貴にはそれ以上のことを予想する術はなかった。
むしろ尋ねたところで無駄なのだろう。愛されるためならば、一体誰を巻き込んでも誰を傷つけても構わない。それが魔王という存在だ。なんといっても、彼女は諸悪の根源。今までの物語達のように、洗脳されていたわけでもないのだから。
「そんなことさせないさ」
凛音が一歩前に進み出る。
「御託はいい。さっさとかかってこいよ、イカレ女!」
「実に威勢がいい。そうでなくては盛り上がらない」
ああ、今。最後の戦いが始まる。
「始めよう……オレが作る最高の物語、“ルナティック・パーティ”のクライマックスを!」