『なあ、教えてくれ。正義ってなんだ。正義の味方って……一体何なんだ』
大柄な男が、大粒の涙を流しながら問いかけてくる。血に濡れた刀を握り締めたまま瑠衣――否、桃太郎と呼ばれた少年はただ呆然と立ち尽くした。
男の腕には、まだ年若い少年が抱かれている。その胸は切り裂かれ、腕はほとんど千切れかけた有様だった。それをやったのは他でもない、自分自身だ。自分が――桃太郎が、彼の息子をたった今斬り殺したのである。それが、正義であると信じてしまったがゆえに。
『俺達は、悪なのか。ただ生きていただけで、こんな風に皆殺しにされなければいけないほどの罪だったというのか。ただ少し、普通の者達と違う見た目であったというだけではないか。それがどうして?どうしてこのような目に遭わされなければいけない?愛するものを理不尽に奪われないといけないんだ、なあ……教えてくれよ、桃太郎とやら!』
後の日本で伝えられている桃太郎には様々なパターンがある。しかし子供達に伝え聞かされる御伽噺として主流なのは、『川を流れてきた大きな桃の中から男の子が生まれ、その子が悪い鬼を退治しに鬼ヶ島に向かう』というものだろう。だが実際は――そんな単純な物語では断じてない。しかし、大きく筋が違うというわけでもない。
桃太郎は、元々は名のある仙人の子であった。
桃というものは、古代の中国などでは不老長寿の妙薬として知れた果物であったという。その世界でも同様に、桃とは仙人だけが食べられる特別な食べ物であり、不老長寿の象徴とも言うべき存在であった。桃太郎はある高名な仙人の息子であり、修行中の道士として高い高い山の上で日々鍛錬を行う身であったのである。
ある時、桃太郎は道士から仙人に昇格するべく試験を受けることとなる。
その試験の内容が、人間界に送り込まれ、悪者を退治するというものであったのだ。桃太郎は師匠にして父親の仙人の手によって赤子の姿に変えられ、仙人の象徴である桃の中に封じられて川に流されたのである。ちなみに日本の桃太郎は『川を流れてきた桃を食べたおじいさんとおばあさんが若返って子供ができた』のが原典であるとされているが、不思議なことに後に改変された『桃の中から産まれた桃太郎』の方が本来の物語に近かったというのだから興味深い話だ。
しかし伝えられた物語と違うところは――桃太郎を見つけたおじいさんとおばあさんが、心の底から善人というわけではなかったということである。
彼らは、桃が仙人の象徴であり、そこから産まれた子供が仙人の子であるということに薄々気がついていた。成長すればさぞ強い力を持った仙人になるに違いない。きっと近隣の町で、否国で一番の英雄に育つことだろう。彼らはそんな打算もあって、血も繋がらぬ得体の知れぬ子供を育てることを決意したのである。それはいずれ、仙人の力の恩恵に自分達もあやかれる筈と確信していたからに他ならない。
桃太郎は彼らの思惑通り、大きく強く成長した。
そして桃太郎が十五の年になったところで――彼らは、かねてより考えていた“鬼退治”を息子に任せることを決意したのである。
『港町から海をまっすぐ南へ下ると、岩ばかりで出来た鬼ヶ島というところに辿り着く。そこには体が大きくて力も強い、二本の角が生えた恐ろしい鬼達が住んでいるんだ。彼らは港町の人々から金銀財宝を奪い、時折襲ってきては苦しめ続けているんだよ』
彼らの小癪なところは――その言葉の半分は真実であったということだろうか。
『桃太郎。お前、みんなを助ける正義の味方に……英雄になってみないかい?大丈夫、お前ならきっと鬼を退治できるとも』
確かに、鬼ヶ島には“鬼”と呼ばれる人々が住んでいた。赤ら顔に二本の角、普通の人々よりも大きな体。なるほど、文字通りの鬼。恐ろしい外見の彼らこそ、きっと師匠が言った“倒すべき悪者”に違いない。桃太郎は鬼退治をすると即決したのである。
だが、少し考えればおかしいことなど、この時点でもわかったはずなのだ。
鬼達は岩ばかりで草木も殆ど存在しない鬼ヶ島なんぞに住んでいるのか。時折港町を襲うというのなら、港町の人々を追い出して魚も草木も豊富な町に住み着けばそれでいいのではないか。
だが、その時の桃太郎は、心優しいおじいさんとおばあさんが嘘をつくはずがないと信じ込み。そして、港町の人々の証言だけを聞いて、丁寧な事実確認などしなかったのである。彼らは被害者であり、圧倒的で一方的な加害者として鬼がいる。なるほど、そう信じて思い込んでしまえば、これほどまでに楽なことはなかったことだろう。
桃太郎の呼びかけに、港町の男達も共闘を誓ってくれた。桃太郎は彼らという即席の軍隊を率いて鬼ヶ島に乗り込み、鬼退治を敢行したのである。
そして、鬼のリーダーを追い詰めたところで――真実を知ってしまったのだ。自分達が今まさに虐殺しつつある鬼達が――本当はただ、異形の姿で産まれただけの、普通の人間であったという事実を。
『俺達は、確かにおっかねえ姿をしているかもしれねえ。肌は赤みがかってるし、体も大きい。こんな角まで生えてやがる。けどな……けど本当はそれだけなんだよ』
彼らは生まれつき角が生えるという病を患っただけの、ただの人間で。ただ人より体が少し大きいという体質を持っていた、それだけのことだったのである。港町を奪わなかったのは、彼らが優しい心の持ち主だったから。自分達を不毛な土地である鬼ヶ島に追いやった人々を憎みきれずにいたから。
金銀財宝は、彼らが不毛の土地を発掘し、開拓してやっと手にしたものだった。最初から、彼らの宝であったのである。それなのに、彼らが持っている宝の噂を聞きつけた港町の人々とおじいさんとおばあさんが、それを奪うために物語をでっちあげたのだ。
全ては、彼らの宝物を奪って、私腹を肥やすために。
そして、自分達にとっては生理的に受け付けない――気持ち悪い異形の存在を、大義名分をもってして駆逐するために。
『お前らの正義は、俺達にとっては悪だ。悪魔そのものだ……!』
両親を守ろうとし、勇敢に桃太郎に立ち向かって斬り捨てられた息子の亡骸を抱きしめて。男は血を吐くような声で、叫んだ。このような理不尽が果たして本当にまかり通っていいものなのか、と。
『鬼はお前らの方だ。お前なんか英雄じゃねえ……英雄であるものかよ……!』
桃太郎は、ただ。
己が何も知らず犯してしまった罪の重さに――呆然と膝をつく他なかったのである。鬼だと信じていた、無辜の人々の血に塗れて。その血を吸った刀を握って。鬼を退治したぞと、喜ぶ人々の歓声を絶望の心で聞きながらただ――ただ。
――英雄だなんだと祭り上げられて、人々からは感謝された。でも俺はもう……自分を、正義の味方だなんて信じることはできなくなっていたんだ。
悪者はいた。
けれどそれは――人間の中に潜む鬼そのものであったのだ。
今更それに気づいても、もう遅い。己にはもう、仙人になる資格などない。
打ちひしがれて、最後は海に飛び込んで自ら命を絶った桃太郎。悲しいかな、物語の肝心なところは、まるで現代の子供達に伝わることなどなかったのだけれど。
***
「う……」
体が、鉛のように重い。ゆっくりと浮上する意識を感じながら瑠衣は、“ああ本当に最悪だ”と心の底から思った。
また、同じ夢を見たらしい。目覚めてしまってから一体何度同じ人生を繰り返し、同じ絶望の海に沈んだことだろう。もう今の自分は桃太郎ではないのに――夢を見るたび、お前の前世は大罪人なのだと思い知らされるのである。
自ら命を絶って死んだとて、失われた尊いものが帰ってくるわけではない。
あんなものは自己満足だとわかっていた。本当に悔やんでいるのならばどうして、生きて彼らのために出来ることを探さなかったのだろう。残る人生を、正しく贖いのために使おうとしなかったのか。喜びに湧く人々を窘めることも叱ることもせず、ただ打ちひしがれただけで。
――もう、嫌だ。やめてくれ。俺は、桃太郎なんかじゃない。普通の、ただの会社員の……加賀美瑠衣だ。それだけなんだから。
目覚めてしまったのは、小学生の時。だから瑠衣は――いくら背が伸びても、大人として成長しても、けして誰かと争わないように努めたのである。戦うことは、恐怖でしかなかった。自分の中に眠る力が、新たに誰かを傷つけてしまうことが怖くてたまらなかったからだ。
人は、物事の一面しか知ることができない。
もし怒りのまま争った相手が、桃太郎の鬼と同じ存在だったなら。罪なき者であったとしたら。この世界でも、同じことを繰り返してしまわない保証が、一体何処にあるというのだろうか。
――頼むから、もう俺を呼ばないで。俺を、普通でいさせてくれ……頼むから。
それなのに。運命は待ってくれる気配などない。
頬に触れる枕の感触も、毛布の感覚も、鼻腔に感じる臭いも――此処が己の自室や見知った場所ではないとわかってしまうから、尚更に。
「いつまで狸寝入りをしているつもりなんだ、お前」
そして、瞼を持ち上げることさえ拒否している瑠衣の鼓膜を揺さぶる、少年の声。
「起きているのはわかっている。いい加減現実逃避はやめろ……加賀美瑠衣。いや、桃太郎」
ああ、現実はどこまで残酷なのだろう。
ただ平穏に生きたいだけの、そんなささやかな願いさえ叶えてくれないだなんて。