ちょっと待て、と思う。思ったが、凛音の体はツッコミよりも先に――そう反射的に、涼貴から距離を取っていた。これでも一応、短期間でころころ変えているとはいえ、様々なスポーツや格闘技の類を齧ってきてはいるのである。
「ちょ、ちょ、待って、待てってば!」
彼が言いたいことはわかる。少年漫画などでもありがちな展開だ、ピンチに呼応して眠っている力が目覚めて主人公がヒーローに!なんてことは。
だが自分は、特別な世界で生きてきた特殊な人間でもなんでもない。突然よくわからない御伽噺の存在に襲撃されて、それを目撃したせいでよくわからん話を聞かされる羽目になった普通の女だ。しかもそろそろ若いとは言えない年である。まだ一応ギリギリ二十代ではあるけども、そろそろお姫様を夢見るような年齢でもないというか、それを口にしたら痛いくらいのお年頃。それがどうして、いきなり美少年に魔法っぽい力で襲われる展開になるのか。
――いやこれが襲撃カッコ物理じゃなくて襲撃カッコエッチ展開な方向だったら役得だったかもしれないけど……って何考えてんだ私は!私の年でこのコに手を出したら犯罪だから!!
自分で考えた想像に自分でツッコミを入れる凛音。そんな凛音の気持ちをよそに、ほう、とまるで感嘆したように息を吐く涼貴である。
「まだ覚醒していないのに、反射的に飛び退くなんて。多少は場馴れしてらっしゃるのでしょうか?そういえば、サッカーとか剣道とか、いろいろやられたことがあるんでしたっけね」
「すっごいな、そんなとこまで調べたのか……ってそうじゃなくて!マジで私、これから襲われるの?ねえ?物理で?」
「はい、物理で。というかそれ以外に何かあるんですか?」
無いですねハイ!と思いつつ身構えるだけ身構える。テンパりこそしたものの、想像したよりは体が落ち着いていた。どうせこの異空間で逃げられるはずもない、と悟っただけなのかもしれないけれど。
とりあえず、マジでおねショタ展開なんぞ想像もしてなさそうな彼を見て、そっち方面でからかうのは全力でよそうと心に誓う凛音である。――自分がこの状況を生き抜けたなら、の話だが。
「僕だって好き好んでこういうことをしてるんじゃないですよ。でも、時間がないんです。……僕達しか、戦える者はいないんですから。実際僕も……ある人が救ってくれたおかげで、今の力に目覚めたようなものですから」
一瞬、涼貴の眼が切なげに細められる。まるで胸に刺さったままの刺に触れたような、その痛みを思い出したかのような表情で。
「さあ、行きますよ……“
本当に、夢でも見ているのだろうか――自分は。彼が地面を蹴って高く飛び上がった瞬間、その体が光に包まれる。水色の、神聖だと一目で分かるような美しい光。そして彼が再び地面に着地した時には、彼の“転装”は完了していた。
そこに立っていたのは眼鏡をかけた黒髪の男子高校生ではなく――やや青さを増した長い髪を靡かせ、水色のドレスのようなものを纏った、美しい少女。いうなれば、アニメでよく出てくる“魔法少女”と言われた時、真っ先に思い浮かびそうな姿だとでも言えばいいだろうか。凛と背筋を伸ばして立てば、水色のキラキラしたミニスカートから覗く太ももの白さが非常に眩しい。さらに豊満な胸元とくれば――凛音が絶句するのも無理からぬことではあるだろう。
どう見ても、今。少年が少女に変身してしまったのだから。
「へ、変身したあ!?ていうか女体化したあ!?」
「その言い方やめてくれます!?僕だって好きでこんなカッコしてるわけじゃないんですから!」
やや高くなった声で顔を赤くしつつ、律儀にツッコミ返してくる涼貴。よく見ればそのやや鋭い目つきや涼しげな顔立ちには、元の彼の面影がしっかりと残っている。どうやら見た目が変わったからといって、人格が入れ替わったりしたわけではないらしい。
「物語の力を全開にすると、元の物語を反映した姿に変わってしまうんです。この状態じゃないと全力で戦えないから仕方ないんですよ!……僕が前世が女性で、シンデレラだったせいでこんなことになってるだけです。ちなみに、普通に逆バージョンとかもありえるんですからね?か弱い女の子がムキムキのオッサンとかオオカミとかになっちゃうこともあるんですから、そのたびにドン引いたりしてたらキリないんですからねわかります!?」
「わ、わかります。わかりましたんで落ち着いてくださいー……!」
よほど凛音の言い方が癪に触ったのか、あるいはよっぽど恥ずかしいのか、早口でまくし立ててくる涼貴である。確かに、年頃の男の子が魔法少女みたいな姿になってしまうのは普通に抵抗があるだろう。いっそまるで違う顔立ちになれたならともかく、見る者が見ればきっちり涼貴だとわかってしまう程度の変身である。
そして同時に思った。――もしや前世とやらが恐らく同性であろう自分は、かなりラッキーな方だったのではなかろうか、と。
「さて、コメディやってる暇はないので。さくっと始めてしまいましょうか」
そして残念ながら、このままの流れで色々終わりにしてしまいましょう、とはならないらしい。やっぱり来るのね、と凛音は顔を引きつらせる。彼――今は彼女?涼貴が背中に背負った水色の弓を構え、そこに矢を番えてきたからだ。
弓矢が武器なのか、と思って首をひねる凛音。確かさっき、彼は“自分は魔法と補助専門だ”みたいなことを言っていなかっただろうか。それが、魔法の杖やステッキではなく、弓矢での攻撃で来るのか?
「“
しかし、そんなことを考えていられたのはこの時までだった。彼が撃ってきたのは凛音ではなく――自分達の斜め上の空であったのだから。
どこに向けて、と思った矢先。凛音の頭上に飛んだ矢が弾け、いくつもの煌く雨となって降り注いだのである。これはヤバすぎる、と思った時には凛音は後ろに飛んでいた。次の瞬間、凛音が先ほどまで立っていた位置に、鋭い硝子の破片のようなものがざくざくと大量に降り注いでくる。
「う、うっそお?」
ちょっと待て、と何度目になるかもわからぬツッコミを入れた。今のをまともに食らっていたら、全身がズタズタに引き裂けていたのではなかろうか。覚醒させるためとかなんとか言っていたが、いくらなんでも冗談が過ぎる攻撃である。
「命の危機を感じていただく、と言ったでしょう?申し訳ありませんが、多少は痛い目を見て頂かないと覚醒に繋がらないのです。荒療治なのは重々承知していますがね」
まあ、それでも褒めておきますよ、と上から目線の涼貴。
「今のをよく避けましたね。とっさの対応力は流石です。普段からそこそこ体を鍛えている人間の動きですね。文系の僕とは大違いです」
「そりゃ週一でジム行って鍛えるのが趣味だから……っていやいやそういう問題じゃないし!本気で殺す気なの!?」
「殺されたくなかったら頑張って反撃するなりなんなりしてくださいってことです」
「んな無茶苦茶なあ!」
反撃しろと言われても、どうすればいいというのだ。こっちは武器も何もない素手である。普通のOL――に比べればそこそこ格闘能力はあるのかもしれないが(脱いだらソコソコすごい、くらいの筋肉は多分あるので)だからってあんなファンタジックな魔法を使ってくる相手に対処する手段などあるはずもないのである。
具体的にどうにかしたいと思ったら、接近して一本背負いでもなんでもかますしかないのだろうが――あんな魔法を飛ばしてくる相手に、距離など詰められるものだろうか。いかにも華奢な美少女、の見た目の相手を殴りづらいという心理的問題もある。というかそもそも、殴ってこの戦いを終わらせる、が果たしてアンサーとして正しいのかどうか。
「どんどん行きますよ、休んでる暇なんかありませんからね!」
そして考える余裕は、与えてくれないらしい。再び彼が弓を引き絞るのを見て、凛音はげっと声を上げる。本当に当たったらどうする気なのか。回復魔法を持っているならそう言って欲しいが――ああ、でもそういう慢心を与えないために、いきなり攻撃を仕掛けてきているのかもしれない。
「“
今度は真正面から矢を撃ってきた。それは凛音に届く直前で分裂し、まるで散弾銃のような勢いでこっちに向かってくる。
――嘘だろ嘘だろ嘘だろー!?
ぎりぎりのところで身を屈めたものの、ぴりっと耳にあたりに熱が走った。痛みを感じで右耳を触れば、たらりと伝う雫が。どうやら耳のあたりを矢が掠めたらしい。
今はカスリ傷で済んだが、恐らくこんなミラクルはそうそう続かない。一刻も早く、対処法を考えなければ。
――ああもう、悩んでる暇ないし!シンデレラだから硝子で攻撃してくるとか安直すぎ!とか現実逃避してる場合でもないし!
腹を括るしかない。このままではタコ殴りだ。凛音は財布を突っ込んであるミニバッグの紐をぎゅっと握り締める。
隙を作るならば、こちらも賭けに出るしかない。もし本当にこれが彼の言う“物語ゆえの運命”とやらならば――ここで何ともならないなら、きっとこれから先生き残ることなどできないのだろうから。
「くっそ……やればいいんだろ、やれば!」
そして凛音は、地面を蹴った。自分に出来る、唯一無二の手段を信じて。