「待って!」
凛音は手を伸ばす。ビルの屋上から、今まさに飛び立とうとする緑色を纏った少年に――その少年が抱えている後輩に。
「待って……待ってくれ!何がなんだかさっぱりわからない!どうして加賀美君が攫われなくちゃいけない!?桃太郎って何?ピーターパンって!?」
混乱し、ただ喚くしかない凛音に向けて――ピーターパンと名乗った少年は瑠衣を軽々と抱えたまま、冷たい眼差しを向けてくるばかり。欲しい答えはくれない。くれる気配もない。まるで、部外者は黙っていろと言わんばかり。
「悪いが、俺から説明できることは何もない」
月を背に、緑色に光る眼だけが爛々と輝いている。困惑する凛音に、彼はにべもなく言い放つ。
「真実が知りたければ、追いかけてくるといい。……あんたに、その資格があるというのなら」
「待て!」
届かない。届かない。――今の自分では、何も。
「加賀美君!加賀美君――!!」
そして、凛音は。自分の叫ぶ声で、目を覚ました。
「!?」
勢い良く体を起こしすぎたせいで、腰がぎしりと嫌な音を立てる。痛い、といいかけたところで別の場所から刺激がきた。頭痛だ。頭がガンガンする。それがいつもの二日酔いだ、とどうにか理解するのと、此処が己の自室であると思い出すのは同時だった。
どうやら自分は、ベッドで寝ていたらしい。だが、よくよく見れば昨日と同じシャツにカーディガン、紺色のパンツ姿だ。着替えた様子がない。シャワーを浴びたかどうかも怪しい――というより、昨夜の記憶の肝心なところがすっぽりと抜け落ちている状態だった。このワンルームに、どうやって帰ってきたのかさっぱり覚えていない。酔っ払って帰った日には珍しいことでもないといえばそうなのだけど。
――え、え?夢……?どこからどこまで、夢?
慌てて枕元のスマホを探し、時刻を確認する。既に午前十一時を回っていた。一体どれだけ長い時間眠っていたのだろうか。幸い、今日は土曜日で休みである。それがわかっていたから、二日酔い覚悟で飲み屋をハシゴしたのだ。本当に、付き合わせてしまった瑠衣には申し訳ないと思う。
そう、瑠衣。
そうだ、彼は――彼は無事、なのだろうか。あのよくわからない夢は、夢なのか現実なのか。残念ながら酔っ払っていたせいで、自分で自分の記憶も信用できない有様である。
とりあえず電話をかけよう、と思って脱力した。自分と彼の関係は、あくまで同じ会社の先輩と後輩。営業課と営業補佐課なので連携することこそ多いものの、実際同じ課の所属でさえない。会社以外で、コンタクトを取る手段など持っていようはずがなかった。下手に個人の連絡先を聞こうものなら、セクハラ扱いされかねないご時世である。
ゆえに、確認しようがない。
自分が見たものが嘘なのか真実なのか、あるいは酔っ払って幻覚を見たのかどうかさえ。
「夢ではありませんよ」
「え」
そして。ここまで来てようやく――凛音は、部屋にもうひとり人間がいたことに気付くのである。
その人物は化粧台の前の椅子に座り、パタン、と文庫本をこれみよがしに閉じたところだった。
紺色がかった黒髪に、眼鏡。年は中学生から高校生といったところだろうか。さほど背の高くない、どこかほっそりとした端正な顔立ちの少年がそこに佇んでいる。ああ、これが異世界ファンタジーだとかラブコメだとかなら、それこそ少女漫画展開を期待して頬を染めてしまうところだが――問題は。
「ちょ……だ、誰、君!?」
その少年に、全く面識がないということ。
そして何より、此処が異世界でも漫画の世界でもない現実であるということだ。
「気付くの遅すぎやしませんか……まったく」
彼は心底呆れたようにこちらに向き直り、大きく息を吐いた。
「勝手に女性の一人暮らしの部屋に入ったのは申し訳ないと思っていますが、事情が事情でしたから。……むしろ感謝して頂きたいところです。道端で気絶していた貴女を自宅まで送り届け、ベッドに寝かせて差し上げたのは僕なんですから」
「え、え……そうなの?私、道で寝てた?」
「力の影響を受けたというのもあるんでしょうけど、まあ半分はお酒の飲み過ぎなんでしょうね。今、貴女凄いアルコール臭いですよ。シャワーを浴びてくることを、心の底からお薦めしますね」
なんだろう。この短いやり取りだけで、彼の性格が随分と知れた気がする。親切なのかもしれないがなんとまあ、口が達者で生意気というか、慇懃無礼というか。助けて貰ったっぽい立場であるので、多少ムカっときてもこちらは何も言えないのだけれど。
「えっと……ごめん。ありがと……」
どうにかそれだけを絞り出す。きつい物言いだが、言われている言葉の大半は正論だ。酔っ払って道で寝ているなんて情けないにもほどがあるし、シャワーも浴びずに眠りなんてなんともまあ不潔なことか。――二日酔いするほど飲んだ夜と朝は大抵こんなものなので、毎回反省が生かされていないと言われてしまえばそれまでだけども。
――仮にも子供の前で、私ゃなんちゅー醜態晒しとんだ……。
段々と恥ずかしくなってくる。相手がイケメンだとか、そういう以前の問題だ。何で彼が自分の自宅を知っていたんだとか、あの場所から家まで結構離れていたはずだとか、そういうことはとりあえず置いておくことにする。多分、そのうち説明があるのだろう。むしろ下手に現実に地に足つけて考えると混乱しそうだ。
「先に二つばかり言っておきます……岸田凛音さん」
彼も彼で、凛音がフリーズしていることは察したのだろう。細かな釈明を要求するでもなく、端的に言葉を紡いだ。
「貴女が昨夜見たものは事実です。僕の名前は
***
丁寧な口調ながら、ストレートにきつい物言いをする少年、涼貴。凛音の見立て通り、現在高校一年生だという。眼鏡をかけているせいと、華奢な体格もあっていかにも文系の優等生といった風情だ。その堂々として真面目そうな態度もあるのかもしれないが。
「……色々訊きたいことは、あるんだけど。とりあえず」
客人と呼ぶべき存在かも怪しいが、これも礼儀と丸テーブルを組み立ててお茶を出すことにする。女の一人暮らしの部屋というものは、客人を招かない限り存外汚いものだ。ベッドの下にはエロ本――の代わりに趣味の同人誌やらヲタグッズやらが結構投げ込まれているし、カップ麺を食べながらパソコンをしてあっちこっち零すなんてこともやらかしてはいる。
勿論、真面目に綺麗にしている社会人の女も世の中にはいるのだろうが、彼氏もいなけりゃオタ仲間くらいしか部屋に招くこともしないとなれば、掃除を怠り気味になるのも無理ないことだろう。こんなことになるくらいなら、もうちょっと綺麗にしておけばよかった――なんてことを考えても、完全に後の祭りである。
「……私が昨日見たものは、実際夢ではない、ってことであってるんだよ……ね?加賀美君は……」
「加賀美瑠衣さんは、ピーターパンに誘拐されました。紛れもない事実です。まあ、酔ってらっしゃったようなので、夢でも見たのではないかと思われるのもわからないではないですが」
「うう……」
ほんとそれ、と項垂れるしかない。非現実的で、信じがたい出来事であったのは事実だが。それでも自分の目で確かに目撃した事件である。酔っ払ってさえいなければ、もう少し信憑性もあったのに――そう思ってしまうのは確かなことだ。ああ、酒癖の悪さは本当にどうにかならないものなのか。
「ピーターパンってあれだよね?あの有名な……ネバーランドの、大人にならないっていう少年。アニメにもなったアレ」
確認もこめて、尋ねることにする。
「御伽噺、でしょ。えっと原作はイギリスの小説とかそんなんだったと思うけど」
「御伽噺ですね。……ですが、御伽噺というのは全て、どこかに元ネタがあるものなんですよ。むしろ多くの物語は、物語として産まれた時点でそこに“本当の原点”となる世界があるんです」
「どういうこと?」
「ピーターパン、桃太郎、シンデレラ……それらの御伽噺は全て、現実に存在した人物に出来事、ということ。勿論この世界ではなく、いわば異世界の出来事と言えばいいでしょうか。それらを夢を通して、あるいは口伝で聞いた者達が小説などに書き起こし、物語としてこの世界に広めたのです……多くの脚色と改変を交えた上で」
「え……」
ついていけてない。きっと凛音の顔にはそんな気持ちが大書きになっていたことだろう。グリム童話や昔話として伝えられたそれらが、どこかの異世界の現実だったと?そんなことを言われても、にわかに信じがたいとしか言いようがない。
そう。現実に、目の前に“ピーターパン”が現れたのを見てさえいなければ。
「信じられなくても、信じていただくしかないんですよ」
そんな凛音に、極めて真剣な眼差しで涼貴は告げた。
「既に僕も、貴女も……彼も。みんな事件の当事者なのですから」