朝日の眩しさで、ユミは目が覚めた。ぼんやりとする脳味噌は途端に痛みだす。これは幻術の後遺症だ。この痛みで嫌でも理解させられる。昨日の夜の事は現実なのだと。ザンゾーが夜中に挨拶に来た事、それは夢ではなくて現実だと。
憂鬱だ。何もしたくない。だが、今日は朝からアヤメと次の仕事の打ち合わせをbarで行うことになっている。ずっと寝ている訳にはいかない。
目覚ましが鳴る前に起きてしまったため、少し時間に余裕がある。ユミはゆっくりと朝ごはんの仕度をした。コーヒーメーカーで入れたコーヒーを飲み、脳を活性化させる。それでも心が晴れる事は無い。
朝ごはんを食べ、身だしなみを整えた。鏡に映る自分は酷い顔をしている。どうしようもないなと思う。いつものようにネックレス、指輪、腕時計を付ける。胸が締め付けられる思いだ。苦しいなと感じる。それでも、ユミは約束の時間になると、barへと向かった。
***
barに入ると、テーブル席で資料を読み込むアヤメと、奥の席でカサネを膝に乗せて読書するシュンレイの姿があった。
「ユミちゃんおはよー! って、え……? ユミちゃんどうしたの!?」
アヤメは慌ててユミの元へ駆け寄ってきた。
「酷い顔してる。何かあった?」
アヤメは不安げな表情でユミの顔を覗き込む。そして、ユミを抱きしめ背中をさすってくれた。
その瞬間ユミの中で感情が溢れて止まらなくなってしまった。
「アヤメ……さん……」
声が震える。
アヤメの顔を見た途端に、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。涙は止まることなくどんどん流れ出す。アヤメはそんなユミを見て驚きながらも何も言わずに強く抱き締めた。
「アヤメさん。私……、置いてかれちゃいました……」
ユミは涙を拭う。拭っても拭っても止まらない涙をどうすればいいのか分からない。
「やはり彼は置いていきましたカ……」
「シュンレイどういう事……?」
「ザンゾーは昨日付でしばらくここを離れることになりましタ。六色家の内部抗争でス」
「え……。そんな……」
「ザンゾーにはユミさんを連れて行ってもいいと許可は出しましたガ、やはり置いていきましたネ」
シュンレイは淡々と話す。アヤメはその話を聞き、より一層強くユミを抱き締めた。
「あいつはしぶといから大丈夫。大丈夫だよ」
アヤメの優しい声だ。
「可愛いユミちゃんを泣かせるなんて、なんて酷いやつなんだ。帰ってきたらボコボコにしてやらないとね!」
ひとしきりアヤメに抱きしめられたまま泣くと、少し気持ちが落ち着いた。アヤメはずっと大丈夫だと声をかけ続けてくれた。
いつから自分はこんなに弱くなってしまったのだろうか。たかが、人が1人、半年間居なくなる位でこんなに大泣きして。情けないにも程がある。
「落ち着いた?」
「はい。すみません。ありがとうございます」
「良いんだよ。そりゃ大事な人が危ない所へ行くってなったら、心配で気が気じゃなくなるよ。大事な人が出来るってそういう事だよ」
大事だからこそ、こんなに心が抉られるという事なんだろう。
どうでも良くないから、こんなに涙が出るのだろう。
「大丈夫。ね?」
「はい」
アヤメの優しい声は、不安で潰されそうなユミの心を癒して支えてくれる。アヤメの笑顔に安心する。アヤメはユミにとって本当に心の支えだ。
今の自分に出来る事は信じて待つことだけ。それ以外に出来ることなどない。気持ちを切り替えなければ。泣いたところで何も状況は変わらない。
ユミは深呼吸をする。思いっきり泣いたことで溢れていた感情を少し整理出来た気がする。
「アヤメさん。もう大丈夫です」
ユミは微笑みながら言う。
「うん。ユミちゃんは強いね」
アヤメもニッコリと笑ってくれた。
ユミはアヤメが座っていたテーブルの向かいの席に座り、自分のノートを広げる。資料は事前に読み込んできている。アヤメとの連携の手順等を決めるための打ち合わせだ。しっかりと気持ちを切り替えて、ノートに必要事項を書き記していく。
ユミはアヤメと相談をしながら、次の仕事の戦略を立てる。最近ではユミが戦略の基本を練り、アヤメにアドバイスをもらって仕上げていくスタンスだ。大抵はパターン化が出来ており、難しいと思う部分は殆ど無い。アヤメの手直しも殆ど無くなる位には精度が上がっている。
「ユミちゃん、本当に成長したね。もう何も心配ないかも」
アヤメはそう言ってニコッと笑った。その言葉にユミは嬉しさと同時に寂しさも感じる。
やはり、独り立ちを意識してしまう。もっと甘えていたいという我儘は本当にそろそろ終わりにしなければならないのだろうなと感じる。きっとアヤメも感じているのだろう。アヤメの笑顔の中に少し寂しさが見えた気がした。
と、そこへ。
「ゆみちゃ……」
「んー。ユミちゃんだよー」
何故かカサネがユミの近くに来て抱っこを求めていた。ユミはカサネを抱き上げ膝に乗せる。シュンレイの方を確認するが全く気にしている様子は無い。変わらず読書をしている。カサネの好きなようにさせているということだろう。
ユミはカサネを抱きしめる。温かくて柔らかい。ぽっかり空いてしまった胸の隙間を埋めるようだ。癒されていくのを感じる。
腕におさまるカサネはへにゃっと笑った。ユミもそれにつられて微笑む。本当に優しい気持ちになれる。言葉なんて無くても温かい物が沢山伝わってくる。
と、突然カシャっと音がした。びっくりして顔を上げると、アヤメがスマートフォンをこちらに向けていた。
「可愛いが溢れてたから撮っちゃった!」
アヤメはいたずらっぽく笑う。
「カサネは本当にユミちゃんの事好きだよねー。他の人には絶対甘えないし見向きもしないんだよー? さすがにフクジュには慣れたみたいだけど、甘えたりはしないみたい。あぁ、よく私もシュンレイも仕事の時はフクジュにカサネを見てもらってるからさ」
膝の上にいるカサネに目をやると、ユミを見上げてずっとへにゃっと笑っている。まさにちっちゃいアヤメだ。可愛い。
「ユミちゃんの近くは居心地が良いのかなー。何となく分かるけど。ユミちゃんから、ほんわかした何かが出てる気がするんだよね。子供とかそういうの感じて集まってきそう。私も引き寄せられてる気がするけど」
「その感覚は正しいと思いまス」
「え? そうなの?」
「えぇ。ユミさんは律鳴家(リツメイケ)の血が入ってますかラ。ほんの僅かではあるとは思いますガ、人柄が周囲の空気に伝搬するのでしょウ。声の届く範囲には多少影響があると考えられまス」
「成程ねー。だから私も最初に会った時からユミちゃん好きになっちゃったのかなー? こりゃぁ、ザンゾー心配するだろうな……。むしろザンゾーは気がついてたからあれだけ独占欲丸出しにしてた可能性もあるか……」
アヤメはそう言って苦笑する。どうやら母の血縁の影響らしい。人柄が声に乗って外周に伝わってしまうようだ。悪い物が出ているわけではなさそうなので良かったとは思う。
「ゆみちゃ。しゅき」
「うん。私もカサネちゃん好きだよー」
アヤメにそっくりだ。好きだとはっきり伝えてくるところも、上目遣いな所も。可愛いを完全に武器にして襲ってくるのだから末恐ろしい。心臓が持たない。
ユミは鼻歌を歌い横揺れする。心が落ち着くような鼻歌を奏でる。カサネは微笑んでいるので、この旋律もお気に召したようである。正面に座るアヤメも目を閉じて揺れている。我ながら良いメロディーができた気がする。
「んー。何だか最近のイライラが浄化されていくよー。ユミちゃんの鼻歌は最強だねー。冷静に物事を考えられそうな気がする」
「えへへ。それは良かったです」
実家の事で大変なアヤメの助けに少しでもなるならとても嬉しい。ここの所はずっと思い詰めているような雰囲気だ。ユミが出来る事は何も無いが、少しでもアヤメの気持ちが楽になるならとそんな気持ちを込めて歌う。せめて今この時ぐらいは癒されて欲しいなと、ユミは思うのだった。