乾いた音が周囲に異様に鳴り響いたその瞬間、ユミの目に飛び込んできたのは全く別の風景だった。
「何……。これ……」
そこは完全に森だった。住宅街ではない。他の人間の気配もない森だ。
周りには木々が生い茂り、砂利の敷かれた細い道に自分はいる。虫の声や、風で木々が揺れる音も聞こえる。
そして、目の前にいるのはやはりアヤメではなかった。全くの別人がそこには立っていた。
ずっとあった酷い頭痛も無くなったという事は、この瞬間に自分にかけられた幻術が解かれたと解釈して良いだろう。
ユミは混乱と恐怖で狂ったように脈打つ心臓をなだめながらも、冷静に目の前に立つ人物を観察する。
その人物は、身長180センチメートル以上あるだろう長身の体格の良い男だった。少し長めの黒髪の上部を結びオールバックにした髪型に、一部赤色のメッシュが入っている。一重の瞼に赤い瞳。右目下に泣きぼくろがある。
服装は全体的に黒い。黒いシャツに黒い羽織、黒い袴。そして、素足に1本歯の下駄を履いていた。手足の爪も黒く塗られていた。
「よぉ。はじめまして、ユミちゃん。俺ぁ、最強の幻術師、ザンゾーだ。よろしくなぁ?」
全くもって、よろしくする気は無い。
ユミは男を睨みつけた。
一体ここはどこだろうか、随分遠くまで歩かされている。そんなに時間が経ったとは思えないが、幻術にかけられていた以上時間感覚は当てにならないだろう。ユミは時刻を確認するため、ポケットに入っているスマートフォンを取り出そうと手を伸ばした。
しかし。
「……ない」
「かははっ! 当たり前だろぉ! ユミちゃんのスマホはコンビニの裏口に捨ててきたわ!」
ポケットに入れていたはずのスマートフォンは無かった。これでは、正確な時間も場所も確認する術は無い。何でもいい、何か手掛かりを得るためにユミは周囲を観察する。薄暗い森ではあるが、空の様子からまだ昼間だ。経過していても2時間やそこら辺だろうとあたりをつける。
だが、コンビニがあった場所から2時間程度歩いた距離の森なんてあっただろうかと不安になる。周辺の地図にそれらしいものが有った記憶が無いのが気がかりだ。思っている以上に遠くまで来てしまった可能性も否めない。
ただ一方で幸いなことに、自分がいる道は一本道であるため、帰り道の方向だけは分かる。この男をどうにかして帰る事を目指したいところだ。
となれば、この状況を打開するにはやはり、この男を殺すしかない。
ユミはチェーンソーをしっかりと構え、対峙する。
「良い殺気だぁね。だが、諦めろ。俺ぁ強い」
「そんなの関係ない」
ユミは一気にザンゾーと名乗った男との距離を詰めチェーンソーを振り上げる。しかし、案の定チェーンソーは空を切った。
「何これ。気持ち悪い」
絶対に捉えたはずなのに捉えることが出来なかった。どうやって避けられたのかが全く分からない。ただただこの感覚が気持ち悪いと感じる。
「元気だぁね。いくらでも斬りかかって来な」
何かトリックがあるのかもしれない。相手は幻術を使う幻術師なのだから、この違和感にはそれなりの理由があるはずだ。それが分からないまま、我武者羅に斬りかかったところで体力を消耗するだけ。危険だ。
「なんで切れないの?」
「そりゃぁ、俺が強いからだろぉ」
「そういうの要らない」
「……」
聞いてもやはり教えてはくれないか……。
よく喋りそうな人間だなと見えたので、もしかしたらベラベラとネタを喋ってくれるかなと考えたが、当然の事ながらトリックは明かしてはくれなかった。
「ケチ」
「いやいやぁ、ケチはぁ無いだろぉ。お兄さんだぁってそんな事ぁ言われたら傷ついちまう」
分からないならば試行するしかない。ユミは何度か切り込んだ。しかし、やはり何度やっても捉えられない。目で見えている姿に対して、ちゃんと気配もそこにあるのに、一切当たらないのだ。
要するに実際にはそこに居ないのだろう。別のものを見させられている上、気配として実際の場所と異なる位置を認識させられている可能性が高い。では一体、本体はどこだろうか。全く分からない。これでは対象を殺すことが出来ない。
「もう終わりかぁ?」
「どこにいるの?」
「言うわきゃぁ、ねぇだろ」
「やっぱりケチ」
声もこの目の前に捕える姿から発生しているのだ。一体どんな仕組みなのだろう。悔しいが今の自分にはどうやっても理解できない類の話なのだろうなと感じた。
そうなると、今ここで自分にはこの男を殺す術がない。であればどうするべきか。自分がいなくなったことはアヤメが気がついてくれるだろう。きっと探してくれるに違いない。助けが来るまで時間を稼いで足掻くのはありかもしれない。
だが、それは悪手な気がしてならない。というのも、ザンゾーという男は一切攻撃してこないのだ。力差があるなら尚更、さっさと自分を殺すなり気絶させるなり出来るはずなのにやってこない。ただ、ニヤニヤと笑いながら会話をしてくる。
どちらかと言うと時間を稼いでいるのはザンゾーの方では……?
ユミはそこで何か嫌な予感がした。
ここにいてはいけない。
逃げなければ。
ユミは咄嗟にザンゾーに背を向けて、来た道の方向へ足を踏み出す。
自分は足は早い方だ。全力で走れば撒けるはずっ!
「うぐっ」
「だめだろぉ。そっちは」
「なん……で……」
撒けるはずだったのに……。
何故か背後にいるはずのザンゾーが目の前にいた。
ユミは顔面からザンゾーの胸部に思いっきりぶつかった。同時にチェーンソーを持つ右手の手首はザンゾーに強く握られ、全く動かすことが出来ない。また、ユミの左肩にザンゾーの右手が置かれている。こちらも物凄い力で全く動けない。
「逃げるのはぁ、だめだ。もっと俺と話そうか」
「……」
本当にこのザンゾーという男は自分で言う程には強いようだ。幻術を使うだけでは無いのだろう。また、相手が幻術使いであれば、長時間の接触は危険すぎる。五感のどこから嵌められるか分からない。肩と右手首への力だって相手を威圧するには十分だ。声も話も危険すぎる。
「タバコ臭い人とは話したくない!」
ユミは右足に力を入れ蹴りあげる。肩と腕を掴まれているという事は、今現在進行形でザンゾーの実態が目の前に確実にいるのだ。チェーンソーは使えなくても攻撃はいくらでも出来る。
「え……」
しかし直後、ユミは困惑した。蹴りあげようとしたはずの右足が動かない。特に何も押さえつけられていないのに。
「どうして……」
ガクンとユミの左膝がいきなり落ちた。右足にも力が入らずユミは膝から崩れる。
「おぅおぅ。大丈夫かぁ?」
ザンゾーは楽しそうにニヤニヤと笑っている。
「この状態でチェーンソーを離さねぇのは、立派だぁね」
その場でへたり込むユミの右手から、ザンゾーは無理矢理チェーンソーを引き剥がし、木々の中にチェーンソーを投げ込んでしまった。
気が付けば、なんだか呼吸もキツい。上手く酸素を取り込めていないような気分だ。次第に浅くなる呼吸と、激しい動悸。これはなんだ。絶対におかしい。これも幻術なのか?
「ユミちゃん。もう、楽になっちまえよ」
ザンゾーはユミの右手を掴みあげたまましゃがみ、へたり込むユミと視線を合わせた。幻術使いと視線を合わせるのは良くない。ユミは咄嗟にそっぽを向いた。
「これはなぁ、幻術じゃねぇ。毒ガスだ。ユミちゃん毒にも耐性あんのかぁ? 全然効かねぇから失敗したかと思ったわ。完全無臭の毒を用意するのも大変でさぁ」
成程。だからずっと攻撃を仕掛けずに会話をし、時間稼ぎをしていたということだ。毒がユミの体に完全に回るのをじっくりこの男は待っていたのだ。自分は先に解毒剤でも飲んでいて元気なんだろう。腹立たしい。
段々と体の自由が奪われてく。力がどんどん入らなくなり、瞼が重くなる。ユミはそれでも抵抗する。ここで意識を手放せば確実に終わりだ。
「もう諦めろ」
ザンゾーの冷たい声が聞こえると同時に、ユミはザンゾーに首を掴まれ、強制的に視線を合わせられた。これは絶対ダメなやつだ。ザンゾーの赤い瞳が視界に入った瞬間、ガツンと頭に激しい衝撃が走る。
「クソ……」
直後、抵抗する間もなくユミは完全に気を失った。