アルタ村をめぐる戦はさらに膠着状態に陥っていた。
前方を固めるアルタの村は『楽園の騎士団』という最大の援軍を得て、その戦意はますますとどまるところを知らない。
一方のフェルナンドの軍はといえば、思いもかけない不意打ちと、もっとも相手にしたくなかった敵の新手、そしてなれぬ土地での戦を強いられて動くに動けない状態だった。
「いかがなさいますか?」
珍しく不安げな表情で訪ねてくるベアトリスに、フェルナンドは曖昧な笑みを浮かべて返すだけだった。
全てがなるようにしかならない、と。
「しかしそれでは、将来の災いとなる芽を摘むことができなくなります」
「血筋は確かでも、果たして本人が知っているのかすら怪しい。それならいっそ長期戦に持ち込んで、自滅するのを待っても良い」
「しかし、それでは……」
「騎士にあるまじき戦法か? 確かにそうだが……」
フェルナンドの心中にあるのはただ一つ。
自らが幼い頃から使えていたカルロスが、新たなるフエナシエラの王として即位することである。
それがかなうのであれば、自分がどんな汚名を着せられてもかまわない。
だがその本心を告げても、彼の配下の者たちの中には、未だフェルナンドの即位を希望する者たちもいることも確かである。
「……敵の動きがどうも鈍いな」
ふと、フェルナンドはつぶやいた。
何故か、とでも言うように見返してくるベアトリスに、彼は笑って言った。
「地の利は相手にある。夜襲をかけるのはこちらではない。むしろ向こうの方だ。にもかかわらず動こうとはしない」
あの負けん気の強い『ヴァルキューレ』であればそれぐらいのことは仕掛けてくるだろう。
そう言うフェルナンドに、ベアトリスは頷くことしかできなかった。
確かにあの人ならば、そして翻っている旗印通り『黒豹』がいるのであれば、全く可能性がないわけではない。
「何か……何かあったのでしょうか?」
もしかしたら、目指すその人はもう落ち延びているのではないか。
だとしたら何故。
しかし落ち延びるとしても、フエナシエラ国内は既にイノサンとフェルナンドの手中にあるといっても良い。
だとしたら目指す先はただ一つ。そしてその先にいるのはただ一人。
そしてシシィのあの言葉……。
「申し上げます!」
静けさをかき消す伝令の声にベアトリスは現実に引き戻された。
「何事か?」
慌てて振り向く彼女に、伝令はうわずった声で答えた。
「山脈に……山脈に点々と狼煙がともっております!」
「プロイスハイムからか? それともエルナシオンからか?」
「それが……双方からです!」
「な……」
ベアトリスは思わずフェルナンドをかえりみた。
果たして彼女が剣を捧げたその人からは、表情を読みとることができなかった。
「殿下が……まさか……」
その口から漏れた言葉は、ベアトリスの頭部を打った。
もっとも起きて欲しくないことが、起きてしまった。
これで正当に玉座を手中にできるのはただ一人。
その人物を、フェルナンドは討とうとしている……。
「フェルナンド様……」
かすれたベアトリスの声を、新たな伝令が遮った。
「申し上げます! 女侯殿の軍が、国境を越えました!」
差し出された文をフェルナンドは無表情のまま受け取る。
すい、と目を通してから興味を失ったかのようにそれをベアトリスに渡した。
「どうやら我々は本物の逆賊になったらしい」
それはエルナシオンにいるサヴォ王女カトリーヌの名に記された正式な書状である。
すなわち、父王ヒューゴ五世及びそれに組みするフェルナンドを討つべしとの宣戦布告書であった。
「それでいい……全てが正しい道へと戻ろうとしている……」
だが、それを受け止めたフェルナンドの声には、どこか安堵にも似た感情が入っているのを、ベアトリスは聞き逃さなかった。
「フェルナンド様……いかがなさいます? これでは……」
アルタと女侯の挟み撃ちになる、そう告げるベアトリスにフェルナンドは笑みさえ浮かべながら言った。
「夜陰に紛れてここを離れる。一刻も早くヒューゴ陛下と合流しなければな……」
※
暗闇の中から、声がする。
もう聞くことすらできないはずの声が、バルを呼んでいる。
手をさしのべようとしても、もうその人には届かない。
ほんの僅かな時間を過ごした、かけがえのない従兄弟。
重い石棺の中に安置されているカルロスの顔は、あの穏やかな笑みを浮かべているのだろう。
最後の最後まで、己の信念のために生きてきたカルロス。
そしてそれに付き従うホセを始めとする屈強の騎士達。
彼らの力を借りたとしても、ラベナの人々は自分を認めてくれるだろうか。
いや、それ以前にカルロス配下の騎士達は、自分をフエナシエラの旗印として認めてくれるだろうか。
ふと、バルの脳裏にアルタ村の情景が浮かぶ。
戦が始まる前の、穏やかな日々が流れていたあの村が。
どこの村でも、それがいきなり踏みにじられたのだろう。
己のまったく知らないところで起きた、国同士のごたごたで。
バルはあの時、アルタの村を護りたいと心底思った。自分を育ててくれたあの村を。
このままここで泣き崩れていても、バルは彼らを護ることができない。
ではどうすれば良いのか。
傍らの剣には、堅く封印が施されている。
護るべき者が現れるまで抜くなと、『父』の遺言で聞いた、王家の宝剣。
この剣をロドルフォ……フェダルに託したのは一体誰だったのだろう。
ロドルフォとカルロス四世の父、カルロス三世か。
それとも自らは玉座にふさわしくないと思っていたカルロス四世か。
そんなことはもうどうでも良かった。
今剣を抜くことができるのはバル……カルロス四世の実子バルトロメオ以外、いないのである。
不意に、暗闇の中から声がしたような気がした。
あの穏やかなカルロスの声が。
――迷うなんてバルらしくない。バルにも護りたい人がいるんだろう?――
護りたい。
アルタ村だけではなく、サヴォに恭順を余儀なくされて、苦しんでいるだろう人々を。
それが、カルロスの最後の願い。
自分以外、果たすことのできない宿命。
真新しい石棺に、改めてバルは歩み寄る。
「もうすでに、玉座は血にまみれてしまっているかもしれない。でも俺達一般人には関係ない。ただ……ただ、平穏な日々が続くよう祈って、毎日が流れる日を望んでるんだ」
そのためには、『王』が必要だ。
自ら盾となり、国民を外国の脅威から守り抜く強い王者が。
「俺の思いは、あんたほど立派じゃないかもしれない。でも、俺もこれ以上、戦で人が死ぬのをみていたくない……」
カルロスが望まなかった道を選択したのかもしれない。
けれどバルの決意は揺らがなかった。
「必ず……必ずあんたを、ラベナで迎えるから……」
※
フエナシエラとサヴォの国境で一騒動起きている頃、プロイスヴェメの夏の都であるプロイスハイムで、ある『儀式』が行われようとしていた。
その部屋の中には、ちりぢりになったフエナシエラの重臣たちがいる。
その見つめる上座にはフエナシエラの王家に伝わる宝剣を手にしたプロイスヴェメ皇帝、マルガレーテ・フォン・モナートヴェメの姿があった。
彼らはある人物が来るのを待っていた。
扉が音もなく開く。
そこには甲冑に身を固めたバルがいた。
衆人の視線が集まる中、一歩一歩、上座に向かって歩んでいく。
女帝と『フエナシエラの象徴』に向かって。
その足は、女帝の目前でついに止まった。
「プロイスヴェメ皇帝の名において、バルトロメオ・デ・フエナシエラを正当な神聖王国の嫡流たることを支持する」
言って、女帝は手にしていた剣を目の前の青年に手渡した。
それを受け取ったバルは、神妙な面もちでしばし見つめ、ややためらった後それを鞘から引き抜いた。施されていた封印がはじけて落ちる。
「フェダル……ロドルフォ殿下は大切な物を護る時にのみこれを抜けと告げた……。今がその時だ……」
居並ぶ歴戦の猛者達に向けて、バルは言った。
白刃が閃く。
「この雪が溶け次第、俺達はラベナへと向かう。フエナシエラの民を護るために……。何よりカルロスが護ろうとした者たちを護るために……。そんな俺の我が儘に、着いてきてくれるか……?」
歓声が、室内を支配した……。