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第3話 別れ

 アルタを出るときから、バルは殆ど馬上にいた。

 休む間も惜しんでの旅である

 もう何時、ぶっ続けで馬の背に揺られているのかさえ朧気になっていた。

 時折、冷たい氷混じりの雨が頬を打ったこともあった。

 舌を噛まぬよう布でもくわえていたほうが良いと忠告をしてくれたのは、シシィだったか騎手だったか、それとも自らの命も省みずやって来たホセだったのか。

 それさえも思い出せなくなっていた頃、見覚えのある巨大な門が、目の前に現れた。


「開門! アルタからの帰還者である! 開門せられたし!」


 騎手の鋭い声に呼応するように、プロイスハイムの城壁を堀と隔てている跳ね橋が降ろされ、重い音を立てて鉄の扉が開かれる。

 元々皇帝が避暑のために使うこの夏の宮殿にいる兵員は、バルが飛び出したときよりも遥かに少なくなっていた。

 恐らく、大多数は女帝と共に帝都であるヴェメへと戻っているのだろう。

 そして、本来ならカルロスを始めとするフエナシエラの騎士達も、共に移るはずだった。

 しかし、城に残っているのは殆どがフエナシエラの騎士達だった。

 もしかしたら、もう……。

 自分で思い描いた最悪の予想に、バルは自分と騎手とを繋ぎ止めていた命綱を着るのももどかしく、馬から飛び降りる。


「待っていた、こっちだ!」


 城内から飛び出してきてバルを迎えたのは、オルランドだった。

 バルが事の次第を聞くよりも早く、彼はその手を取り走り出した。


「な……まだ……」


 戸惑いながらも尋ねるバルに、オルランドは振り向きもせずに答えた。


「君は本当についている。医者は昨日がヤマじゃないかと言っていたんだ」


 幸い、殿下には辛うじて息がある。

 まだお言葉が聞けるかもしれない。

 早口で言うオルランドの後ろ姿を見つめながら、バルは後悔した。

 何も告げず、一人勝手に村に戻ってしまったことを。

 けれど、あの状況……由緒有る家臣団に囲まれ、サヴォに陥とされた王都ラベナを奪還する兵を挙げようとしていたその時に、自分のようなどこの誰ともしれない人間がこんな所にいては不協和音になると、彼なりに考えた結果だった。

 しかし、よかれと思って取った行動が、何故かこの混乱の元凶になっている。

 どうしてそんなことになってしまったのか、当のバル本人にも理解できなかった。


「……フェルナンド殿は、アルタに来たんだろ?」


 固い声でオルランドが言う。

 ようやく彼は走るのをやめていた。

 何が何だか解らないままここに引きずり込まれたバルは、やっと大きく息をついた。


「村が駄目になるかと思った。いきなり山から大軍が雪崩れ込んできて……。シシィ達が来てくれなければ、今頃廃墟になっていたと思う」


「そこまで持ちこたえられたのは奇跡だな。仮にもフエナシエラ一の実働部隊を足止めしていたんだから……やっぱり……」


 そこで不意にオルランドは言葉を切る。

 何と続けようとしたのかバルは尋ねたが、オルランドは答えなかった。

 口を開く代わりに、オルランドは回廊の突き当たりにある扉の前に立つ。


「答えは、殿下が教えてくださる……さあ」


 オルランドが手をかけると、重々しい扉は音もなく開いた。

 そこは、太陽の光が優しくさしこむ、白く明るい部屋だった。

 部屋の中央には天蓋付きのベッドが置かれ、その周囲をこの地にたどり着いた全てのフエナシエラの重臣達が固めている。

 そして、彼らの視線の先には、微動だにしないカルロスが横たわっていた。

 部屋を包み込む張りつめた空気に、バルは戸口から動けなくなった。

 やはりどう考えてみても、一介の村人である自分が、フエナシエラの最後の望みである世継ぎの王子の臨終の瞬間に立ち会うなど、相応しくない。

 そう思い立ち尽くすバルの背を押したのは、扉を開いたオルランドだった。

 よろめきながら寝台に歩み寄ることとなったバル。

 予想外に重臣達は自然と道をあけた。

 そして、気が付いたときには、バルは寝台のすぐ脇……カルロスの枕元に立っていた。

 改めて見つめると、常に穏やかな微笑みを絶やさなかったその顔は紙のように白く、かなりやつれてしまったようだった。

 変わり果てたその様子に何も言うことが出来ず呆然とするバルの様子を察したのか、反対側に控えていたルーベル伯が僅かに腰をかがめ、カルロスの耳元に二、三言葉をかけた。

 それに応じるかのように夢から覚めたカルロスは、『フエナシエラの海の色』と言われる青い瞳を、戸惑うばかりのバルに向けた。


「……ごめん……俺は……あの……」


 自分の行動を弁明しようとするバルに、カルロスはいつもと変わらぬ微笑を向ける。

 そして、消え入りそうな声で言った。


「……いいよ……私は、ずっと君を捜していたんだ……バル……いや……バルトロメオ……」


 突然投げかけられた、今までまったく耳にしたことのない名前に、周囲を取り囲む人々の視線は訳も分からず呼び戻された一介の村人に向けられた。


「どうして……俺の本当の名前を……? 俺は一度も……」


 重苦しい空気の中、そう呼ばれた張本人は寝台の上に横たわるフエナシエラ『最後の嫡流』に向かい、驚きながらもやっとの事で口にする。

 そう、初めてアルタ近くの森で出会ったとき、彼は主従に向かいただ『バル』と名乗った。

 そして事の成り行きでこのプロイスハイムに入って来たときもまた、主従は先にたどり着いた人々にそのように紹介し、短くも簡潔なその名前で呼ばれていた。

 しかし、この白く明るい死の床で、カルロスは自らの恩人を『バルトロメオ』と呼んだ。

 当の本人が嫌う長ったらしい本名で。

 だが、一番驚いていたのは、居並ぶ重臣達ではなく、名を呼ばれた本人だったろう。

 それきり、言葉なく立ちつくすバルに、カルロスは再び優しく穏やかな微笑みを浮かべて見せた。

 が、その僅かな動作も、確実にカルロスの生気を奪って行くらしい。

 荒い息の下でカルロスは、申し訳なさそうに部屋の片隅にいるエドワルドを呼ぶように視線を向けた。

 父であるプロイスハイム公に伴われ近寄ってきたエドワルドからは、別れ際のあの尊大さを感じることはできなかった。 


「どうぞ、お受け取りください。自分にこれを持つ資格はございません」


 自分に向けて差し出された剣と、それまでの虚勢を失い、しかられた子どものようにしゅんとしているエドワルド。

 そして再び寝台に横たわるカルロスに視線を巡らせてから、バルはようやく戸惑ったように言った。


「資格って……俺は一介の田舎者の村人だから、それ相応の人に持って貰おうと思って……」


「貴方は、ただの村人ではない。それを御存知の筈でしょう?」


 穏やかなプロイスハイム公ゲオルグの言葉に反論することができず、バルはうなだれるばかりだった。

 追い打ちをかけるように、カルロスが消え入りそうな声で告げた。


「フエナシエラの……立太子の時……ある誓いをたてるんだ。剣を……己の大切なもの……を、護る以外の目的……では……決してそれを……抜かない、と……」


 バルの顔から、目に見えて血の気が失せた。

『大切な物を護るとき以外は抜くな』。

 それは顔も知らない父親が腹心の部下に託した『遺言』の内容そのままだったからだ。

 最早、口を開くのも苦しげなカルロスに替わり、ルーベル伯がバルに向かって言った。


「とにかく、その剣を受け取られよ。そして、よくよく見てみると良い」


 その言葉に促され、気が進まないながらも改めて剣を受け取り、バルは初めてそれを注意深く見つめた。

 けれど、どう見てもそれはただの古ぼけた剣にしかバルには見えなかった。


「……気がつかなんだか? 所々に王家の色と紋章が残っているじゃろう?」


 その言葉に、バルは初めて気が付いた。

 僅かに鞘に残っている海の青をした瑠璃の破片と、束にあしらわれた雄々しい獅子に。


「先王陛下におかれては長らくお子に恵まれなかった。それを憂慮されたロドルフォ殿下が、生まれたばかりのお子を後嗣にと……。」


 その間もバルは剣を握りしめ立ち尽くしている。

 信じられない、とでも言うようにカルロスとルーベル伯を交互に見やるバル。

 静かなルーベル伯の言葉は、更に続いた。


「だが皮肉にもその直後、王妃様はご懐妊された。陛下は、ロドルフォ殿下のお子を次の王位に付けるため、御自らの手でご実子を手にかけようとされた」


 だが、気付いたロドルフォ殿下が咄嗟にそれを止められ、陛下の嫡子を引き取られたのだと締めくくった。


「私は……先の陛下の子ではなくて、ロドルフォ殿下の子……。でも、私は……玉座には……自分ではなくて……陛下のお子……つまり君こそが……」


 荒い息の下、ルーベル伯の言葉を受け継ぎ途切れ途切れに言うカルロス。

 バルは殆ど泣きそうになりながら叫んだ。


「知らない! 俺は確かに、バルトロメオなんて舌を噛みそうなご大層な名前だけど、山村育ちの粗野な村人だ!」


 久しぶりに手にした剣は、その重さ以上にバルの上にのしかかってくる。

 その時、カルロスは震える手で枕元に置かれていた封書を取り、バルに向けて差し出した。

 ためらいながらもバルがそれを受け取ると、カルロスは告げた。

 アルタでお世話になっていた時に、女侯から戴いたものだ、と。

 それを聞き、慌てて返そうとするバルに、ルーベル伯は首を横に振り中を見るように促した。

 仕方なしにそれを開くと、中には二通の手紙が入っている。


「一通は……女侯ご自身が知る限りのことを……書いてくださった物で……、ホセにも……見せてる。もう一通が……ロドルフォ殿下が……」


 その後の言葉は、バルのお耳には入っていなかった。

 恐る恐るそれを広げると、食い入るようにバルは二通の手紙を見つめた。

 最初の一通は達筆な女候の文字が、フエナシエラとサヴォの間で交わされた血生臭い過去の事件を淡々と語っていた。

 当時サヴォの一貴族の位に甘んじていたヒューゴが、アラゴン侯フェリペと共にロドルフォを抹殺した、と言う事実を。

 今まで自分が生きてきた世界とは余りにもかけ離れた事態を理解しかねて、めまいを感じその場に倒れそうになるバルを、背後にいたオルランドが慌てて支えた。

 一通り読み終えると、バルはもう一通をまじまじと見つめる。


「それが君宛の……私の本当の父……からの……」


 ロドルフォ殿下が生前女侯に託されていたものらしい、とカルロスは告げた。

 途切れそうな意識を、カルロスは必至に繋いでいるようだった。

 全てを……聖なる玉座と言われるフエナシエラ王家の事実を、その正統なる継承者たるバルに全て伝えるまでは目を閉じることはできない。

 そんなすさまじい思念である。

 その怨念にも似た強い意志に急かされるように、バルはもう一通を注意深く開いた。

 そこに記されていたのは、書いたその人の穏やかな人柄を感じさせる優しげな文字だった。

 文面を目で追うバルの表情が、次第に真剣味を帯びてくる。

 繰り返し繰り返し、バル……バルトロメオに対して、王位から遠ざけてしまったことを謝罪する言葉と、この豊かとは言えないが穏やかな時が流れるアルタの村で、願わくば静かに暮らせるように祈る、と記されている。

 そして、もし万が一、フエナシエラがサヴォの攻撃を受け、『正統なる継承者』が助けを求めて訪れた時には、一家臣として自分の替わりに尽力して欲しい、と。

 しかし、これだけの証拠を突きつけられてもバルはまだ何かの間違いだと信じたかった。

 偶然が重なっているだけだ。

 そう言おうとしたとき、ルーベル伯が重々しく告げた。


「バルトロメオ殿、貴殿の額には刀傷があるだろう?」


 思わずバルは、自らの額に巻いている布に手をかける。

 生まれたとき……物心が付いた頃から刻まれていた身に覚えのない傷跡。

 常に布で覆い隠しているため、誰にも知られているはずのない傷。

 青ざめるバルに、ルーベル伯は更に続けた。


「それこそが、貴殿の証。先王陛下が貴殿を手にかけようとされた時に刻まれた傷だ」


「そん……な……俺は……」


 けれど、最早事態は偶然の域を超えているのは明らかだった。

 全ては必然だったのだ。

 プロイスハイムを目指すはずだったカルロスが、わざわざ遠回りをしてまであえて国境のアルタまでやって来たのことも、一介の村人であるバルを引き留めようとしたことも……。


「……本当に申し訳……無いと思って……る。何も……関係無いはずの……君を、巻き込んで……でも……」


 その瞬間、カルロスは今まで以上に穏やかで優しげな微笑みを浮かべていた。


「……君に会えて……よかった。……君でよか……」


 一同は、一斉にカルロスを顧みる。

 だが、その続きを聞くことは、ついにできなかった……。

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