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第2話 再会

「……そんな状態で何処へ行くつもりだ?」


 暗闇の中、出来る限り気配を消して裏口から表へ出たホセは、呆れたような声に足を止めた。

 星明かりの下、美しいヴァルキューレがそこにいる。


「……以前、お忍びで街へ出られた殿下を追って、フェルナンド様と城下に行くことがありました。その時、互いを見失ったら落ち合う場所を決めていて……。どの街でも中央広場と水場はある場所が変わらないから、と」


「で、敵の総大将が、わざわざお前を見舞いにそこに来ているとでも言うのか?」


 山の中にも自分の配下を伏せてあるから不可能だし、そんな曖昧な昔の約束が何になる、と言うような視線をシシィは向けてくる。

 だが、ホセは首を横に振る。


「確信はありません。ただ……万一、ということもあるので……。それに……」


 あの方が変わられていないのならば、自分の旗印を見ればもしかして、と言うホセにシシィは笑った。


「肩を貸そう。その傷で一人で水場まで行くのは無謀だ。……中央には仲間が展開してるからな。来るとしたらたぶんそっちだろう」


 言いながらシシィはホセの右腕を取り、自らの肩に回した。


 所々に篝火が焚かれている。

 次第に闇に目が慣れてくる。

 立ち並ぶ家々は何処か寂しげに凍り付いているように見えた。

 この村のそこここに、確実に人々の生活が根付いていた。

 ほんの、ついさっきまで。

 けれど今となっては平和な日常は消えて無くなり、山間の小さな村は即席の砦となりつつある。

 本来の姿を知るホセにとっては、この上なく耐え難いことだった。

 しかもその原因を作ったのは……。


「次の角を、左で間違いないんだな?」


 そんな思考を遮る、シシィの歯切れのいい声が石畳に響く。

 一番山間に近い、水を引き込むのに相当苦労したであろう高台の水場。

 闇に紛れてならもしかして。

 そんなかすかな期待……いや、願望を抱いて、ホセはうなずいた。

 半ば諦めたように付き合うシシィの顔が、だが水場に続く真っ直ぐな道に差し掛かった時に急に凍り付いた。

 そこには、人影があった。

 すっぽりとマントを身にまとい、気配を消して。

 正面からぶつかれば勝てる自信はない。

 この人と互角に戦えるのは、今自分に身を預けている人物が万全の体調でいるときくらいだろう。

 シシィは正直に思った。


「フェルナンド様……」


 耳元で聞こえる掠れたホセの声に、シシィは思わず両者を見比べる。

 しかし、仮にも楽園の騎士が防衛線を張っているにもかかわらず、敵の総大将の侵入を許してしまうとは。

 思わず唇を噛むシシィに、暗闇に佇む人は、ゆっくりと振り向き、そして笑った。


「やはり主戦力は傭兵隊か。……お前が先頭に立つなら後先を考えず真っ先に斬り込んで来るはずだからな。旗だけとは妙だと思っていたが……」


 その声は、かつて共にラベナでカルロスに使えていた頃と全く変わらなかった。

 違ってしまったのは両者の置かれた立場……。


「お前の言いたいことは解っている。だが、こうしなければ殿下は玉座に付くことはない。何故なら殿下は、父王陛下とは異なる意味でフエナシエラの呪縛に囚われているからだ」


「あの噂ですか? 殿下はカルロス四世陛下のお子ではなく、ロドルフォ殿下の……」


「カルロス四世陛下はご自身ではなく、ロドルフォ殿下こそが玉座に相応しいと思っておられた。その思いからロドルフォ殿下のお子を引き取られた」


 けれど、カルロスはロドルフォの元に送られたカルロス四世の実子こそ王位に着くべきだと思われたのさ。

 闇の中でそう言うフェルナンドが、どんな表情をしているのかわからない。

 けれど、『神聖王国の呪い』を聞かされたシシィは、悪寒を感じられずにはいられなかった。

 一歩間違えれば彼女も似た境遇にあったのだから。

 そのシシィを現実に引き戻したのは、ホセの声だった。


「……殿下の御為に汚名を全て被られると仰るのですか? それではあまりにも……」


「アラゴンの血は既に腐りきっている。父上あいつは曲がった忠誠心からヒューゴと計り、ロドルフォ殿下を弑し奉った。その上外交のために姉上をカプア卿に押しつけ、さらに自らの欲望を満たすために……」


 言いながらフェルナンドは何かを空中に投げた。

 注意深く近寄り、拾い上げた金色の小さな容器を手にしたシシィは、一瞥しただけでフェルナンドを強く睨み付けた。


「使ったのは俺じゃない。公明正大で、文武両道に優れた偉大なる『父上』だ」


 訳も分からずシシィからそれを手渡されたホセは、蓋を開けると同時に嘔吐感を感じて口許を抑えた。

 この匂いには覚えがある。

 あの豪奢な牢獄で常に焚かれていた、甘く苦い香り……。


「巧妙な媚薬さ。かがされ続けると正気を失う」


「何故……ならば何故、こんな……殿下がお心を痛めるようなことを?」


「決まっているだろう。陛下の真の嫡子を葬り去り、殿下を何の心配もなく玉座にお迎えするためだ。ついでに腐りきったアラゴンの血を入れ替えるためさ」


 三人の間に、言葉はなかった。

 石で作られた水路の上を、水が流れ落ちる音だけが響く。


「……既に役目を終えた者が何時までも表舞台に立っているのは醜いだけだ。だから、俺がその淀みを消し去る」


 その方がこの国の……カルロス殿下のためだ、と、フェルナンドは言う。

 確かに、そうなのかもしれない。

 アラゴンの名は、玉座につけなかった王族が叛意を持たぬように国王のそばに置いておく為の物だと、かつてこの人は言ったことがある。 

 強大な力が中枢に向けられぬよう、鈴をつけているような物だと。


「そもそも父上あいつには、母上との婚約が決まる前に懇意にしていた女性がいた。それを、子までなしていながら『プロイスヴェメとの同盟』の為だけに、捨てたような人だ」


 それでようやく合点がいったのだろう。

 苦しい息の下、ホセはつぶやく。


「では……ベアトリス様は、師匠様のご令嬢では……」 


 言葉を発するたび、ホセの脇腹の傷の紅い染みはその面積を増していく。

 これ以上は危険だ。

 そうシシィは判断したが、当人が動こうとしない。


「ああ、俺の腹違いの姉上だ。母親は市井の東方系の人だったらしい。だからお前を拾ってきたんだろう。失った人の面影を見いだして……」


 迷惑な話だな、とフェルナンドは自虐的に笑った。

 何処までが本心で、どこからが演技なのか。

 長年身近にいたホセだったが、それを理解できぬほど今の彼は衰弱していた。

 不思議な光彩を放つその瞳も、いつもの力を失っている。

 一刻も早くこの場を離れなければ。

 危険を察したシシィは、話を終わらせるべく口を挟む。


「ご託はいい。だからといって、自分の家の落とし前をつけるために、今まで何人の人間が死んでいると思っているんだ? そっちの方が余程……」


「腐っている、と仰りたいのでしょう、セシリア殿下。それは重々承知の上です」


 捨てたはずの名で呼ばれたシシィは激高して、フェルナンドに殴りかかるのではないかとでも思わせるほどに鋭く睨み付けた。

 辛うじてそれを堪えたのは、彼女に手負い黒豹が、身を委ねているからだった。


「安心しろ。フエナシエラとアラゴンの汚点は、俺が全てあの世へ持っていく。後はお前が大将軍として殿下に……新たなる陛下にお仕えすればいい」


 それで過去の遺物はすっかり姿を消す。

 そう笑うフェルナンドに、震える声でホセは言った。


「では……今貴方に命を預けている方々は……ベアトリス様達は、どうしろと仰るのですか? 確かに神聖王国は既にその本来の形を失っているのかもしれません。歪んだ『血の呪縛』に捕らわれているのでしょう。ですが、それを払拭するためとは言っても、その犠牲は……」


「確かに、お前の言うことは、正しいのかもしれない。俺がやろうとしていることはこの上もなく馬鹿なことなのかもしれない。だがこうしなければ、俺は殿下に己の忠誠を示すことは出来なかった」


 わずかに視線を逸らしながらフェルナンドは答えた。両者のやりとりを見つめていたシシィは、この時初めてフェルナンドに人の『感情』を感じた。

 それは『ためらい』。 

 何かがおかしい。

 何かが歪んでいる。

 そう知りつつも、声を上げることが出来なかった歴代の重臣や王族達の思いを、フェルナンドは全て押し流そうというのだ。

 己の命をもって。

 けれど……。


「残念ながら、貴方の願いを聞き入れることは出来ません」


 唐突に、ホセが切り出した。

 こちらを見つめるフェルナンドは、僅かに目を細めたようだった。

 それを理解してか、ホセはやや語気を荒らげて繰り返した。


「貴方の願いを聞き入れることは、出来ないんです!」


「……どう言うことだ?」


 まさか、と言いかけるフェルナンドに、ホセは力無く首を左右に振った。


「今、殿下は生死の境をさまよっておられます……。いや、もしかしたら、もう……」


「どう言うことだ!」


 繰り返すフェルナンドに、ホセはその顔を正面から見つめながら言った。


「プロイスハイムに逃れる途中、殿下は矢傷を負われました。バルが、手当をしてくれましたが……」


「……バル……?」


 その名前に、フェルナンドの表情はやや強張った。

 だが、ホセは、肝心なことをなかなか切り出そうとはしない。

 その思い切りの無さに苛立ちを感じながら、シシィは怒鳴りつけるように言った。


「遅効性の毒だ! 口では散々良いことを言っていながら、実際にやっていることはどうだ? あの人の良い王子様をためらいもなく最も残酷な方法で殺そうとしたのは、あんたの部下じゃないのか?」


 激高するシシィをホセは慌てて押さえ込もうとするが、それだけの力は最早彼には残っていなかった。

 半ばそのホセを引きずるように、シシィは大きく一歩、フェルナンドに向けて踏み出した。

 それこそ胸ぐらをつかまんくらいの勢いだった。


「あの権力者にしておくには勿体ない王子様は、玉座など見ていなかった。ただフエナシエラの……玉座を心の支えとする人間達のことを誰よりも考えていた! そして、何よりあんたを……あんたを信じていたのに……」


 シシィの隻眼から、涙がこぼれ落ちていた。

 もはや自分に身を預けているホセは心中には無かった。

 ホセもろとも石畳に膝をつき、激しく首を横に振る。


「あんたの直属がやったんじゃない、と言いたいんだろ? 一緒のことだ! あんたが手引きしたサヴォの兵が射ったんだ。あんたが……!」


「ならば、一人残されたフエナシエラの嫡流が玉座に付くため、力を尽くすだけだ」


 冷たい声だった。

 ホセは未だ泣きじゃくっているシシィと、身動きだにしない義兄の姿を代わる代わる見つめている。


「もし殿下がロドルフォ殿下のお子を、と願うのであれば、俺はそのまま逆賊として死ぬ。未だ殿下がその存在を知らず、俺に玉座を託すというならば、おめでたいヒューゴを葬るだけだ」


 まったく感情のない声だった。

 その冷たい声で、俺はフエナシエラの呪いを断ち切るだけだ、と言い残し踵を返す。

 その姿を無言で見つめている両者に、フェルナンドは振り向き言った。


「……お前も隅には置けないな。宮廷内では武芸以外に興味を示さないでいたのが……」


 それが傍らにいるシシィをさしていることを、薄れ行く意識の中ホセは理解した。

 慌てて弁明しようとする彼の視界はだが、次第に暗くなる。

 自分を呼ぶシシィの声が遠くなっていく中、去りゆくフェルナンドの顔は、昔と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべているように、ホセには思えた。

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