その時何が起きたのか、バルには理解できなかった。
ただ、櫓が組まれた木のすぐ脇に、こちらに向けて投げられた長槍が突き刺さっているのだけは見ることが出来た。
しばらくして、眼下を村に進む軍団の足並みが急に乱れた。
そして、それこそ転がるように元来た道を逃げ帰っていく。
唖然としてその一部始終を見つめていたバル。
その彼の耳に、村とのつなぎを取っていた少年の声が飛び込んできた。
「バル! 早くお館へ戻って! 援軍が来ているよ!」
信じられない、と言うようにバルはかえりみる。
自分は何も言わずにあそこを出てきたのだから、まさか『彼ら』が来るはずがない。
けれど……。
「あの騎士様が、大軍を連れてきてくれたんだ!」
しかし。
櫓を降りながらも、バルはまだ信じられずにいた。
村の人々が知っている騎士と言えば、あの主従とアプルの女侯しかいない。
だが女侯は敵対するサヴォの人であるし、今やフェナシエラ復興の旗印であるカルロスが、わざわざ危険を冒して来るはずもない。
そしてホセも、あの傷がまだ癒えていないはずだ。
期待と不安。
そして何も言わずプロイスヴェメを出たという後ろめたさを感じながら、バルは本陣となっている自分の家へと走った。
※
中央の広場には、傭兵隊と思しき不揃いの甲冑で身を固めた一団が各々の武器を整えている。
そしてそこにそびえる聖堂の塔には『楽園の騎士団』の旗と、先程まで戦っていた騎士達が持っていたのとよく似た旗が誇らしげに翻っていた。
そして丘の上にある家の前には、数台の馬車が停まっており、戸口では紛れもないヴァルキューレことシシィが、こちらに向かって手を振っているのが見える。
「良くやった。初陣で、生き残れたお前は、もう立派な戦士だ」
息を切らせるバルの肩を、隻眼の戦乙女はたどたどしいフェナシエラ語でそう言いながら叩き祝福する。
それでもまだ夢でも見ているかのようなバルを、シシィは室内に引き込んだ。
部屋の中には長老達、そして長椅子には僅かに青ざめた黒髪の騎士の姿があった。
「おい、何でこんな所へ……? あんたは、カルロスを……」
「バル、お願いがあります。一刻も早く、プロイスハイムに戻ってください」
脇腹の傷が響くのか、すぐにホセは眉根を寄せる。
慌てて駆け寄るバルには、何でそんなことを言われるのか解らない。
「一体、何があったんだ? 第一、あんたや金髪の兄さんがいれば、俺なんかいなくても大丈夫だろ? どこの誰とも知れない俺は、いても邪魔になるだけだろ?」
そのバルの瞳を、ホセの東の国特有の不思議な光彩を放つ瞳が捉える。
ただごとではないことが起きた。
バルがそう確信したとき、それを裏付けるようにホセが口を開いた。
「……殿下が、倒れました。うわごとで、貴方を呼んでいます。急がないと、いや、もしかしたらもう……」
思いもかけないその言葉に、バルは呆然として立ちつくす。
「でも……なんで……? あんなに良くなったじゃないか」
「ここに落ち延びる途中に負ったあの矢傷が原因のようで……詳細はまだ解らないのですが……」
「……俺のせいだ……」
ぽつりと、バルは呟く。
同時に青い瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「俺が適当に手当しないで、ちゃんと長老か医者に見せてれば……」
「……ですが、あの状況では仕方ないでしょう、フェダル。私がもし同じ立場だったら、貴方と同じようにしたでしょう」
かつて『父』の忠臣だった長老が歩み寄り、その背後から静かに声をかける。
だが、バルは首を横に振った。
「……ごめん……。俺は結局……カルロスや、あんたを見捨てた……」
「まだ……まだ解りません。だから一刻も早くプロイスハイムに向かってください。シシィの配下の方が、送り届けてくださるそうです」
「でも……でも、村が……」
「私とシシィとで、貴方の代わりに護ります。ですから……」
「けど……」
強情なバルに向かい、ホセは目を伏せる。
そして、寂しげに笑いながら静かな口調で告げた。
「この戦は、私が決着を付けなければならない物です。それに、どちらにしてもこの傷では、私は早馬には乗れません」
不安げに振り返るバルに、長老は優しくうなずいた。
「こちらは我々に任せて……。一刻も早く殿下の元へ……」
早く来い、とでも言うようにシシィが戸口で手招きをしているのが見える。
しばしためらったった後、バルはホセの肩に手をかけてから立ち上がった。
「必ず……必ず後から来てくれ。頼む」
解りました、と頷くホセに後ろ髪を引かれる思いでバルは踵を返す。
扉が閉じられ、バルの姿が見えなくなると同時に、ホセはそれまで辛うじて堪えていた傷の痛みに目を閉じ、身体を横たえる。
再び傷の場所は赤く染まっていた。
「黒豹殿、どうかお休みください。自分の村は、自分たちの手で……」
「この戦を起こしたのは、私の兄です……家名の汚点は、同じ名を持つ者が……」
あまりにも強い意志を持つ言葉にいたたまれなくなって、長老は目を閉じ頭を揺らす。
「解りました。が、くれぐれも前戦には出られませんよう……」
荒い息の下でホセは笑いながらわずかにうなずいた。
※
慌ただしくその日は終わろうとしていた。
夕日に染まる山々の稜線を背に、バルは自ら決別を決心したカルロスの元へ……プロイスハイムに戻ろうとしている。
「かなり飛ばしますから、決して口を開かないよう。……出来れば何か布でも噛んでいた方が宜しいでしょう」
同じようなことを、確かあの時……サヴォの追っ手から逃れた時にホセから言われたような気がする。
騎手に頷いてからバルは振り落とされないようしがみつく腕に力を込めた。
それを確認した騎手は、馬の腹を蹴る。
二人を乗せた騎影は、夕闇の中へ消えていった。