目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第9話 戦闘

 女侯の軍隊がアプルを目前に引き返したころ、アルタでは戦端が開かれようとしていた。

 笛を吹くような高い鏑矢の音が、森の中に響く。

 それと同時に、堰を切ったかのように見事なまでに統率された騎士団が、村を目指して雪崩れ込んでくる。

 その最前列に掲げられているのはアラゴン侯子、フェルナンドの旗。

 即ちフエナシエラの海色に十字と王冠と盾と剣、そしてフェルナンド個人を示す金色の鷲。

 旗が示す通り、鷲が獲物を狩るような鋭さで、彼の軍は山間に貼り付くちっぽけな村、アルタに向けて森の中を駆け抜ける。

 その道には何も障害となる物が無いにも関わらず、先頭の一人が前触れもなく突然落馬した。

 後方に続く者達の足は、何事かと僅かに突入の速度が鈍る。

 そうするうちにも二人、三人と、やはり何の前触れもなく落馬する。

 良く見るとその首や身体には、僅かな甲冑の継ぎ目を突いて矢が突き刺さっている。


「気を付けろ! この木の上のどこかに敵が潜んでいるぞ。盾を……」


 剣を手にしたベアトリスが叫ぶ。

 一瞬、突入が止まった。

 そのタイミングを計るかのように、木々の間から鬨の声が上がる。

 不揃いの防具を身にまとい、これまた剣や戦斧といった様々な武器を手にした人々が両脇から飛び出してきた。

 完全に不意をつかれ、一瞬馬脚が乱れる。


「ひるむな! 烏合の衆だ! 進め!」


 鋭い戦女神の声に討たれたかのように、軍団は陣形を立て直す。

 そして襲いかかってくる村人に僅かにためらった後、ベアトリスは己の剣を振り下ろした。

 赤い飛沫が視界を染める。

 元々は同じ国の民の断末魔の叫びに、流石の彼女も思わず顔を背けた。

 既に覚悟を決めたつもりではあったが、いざ現実を目の当たりにすると決意が揺らぐ。

 だが、全ては剣を捧げた主の……フェルナンドの、そして何より主が信じるあの方の為……。

 そう思い直して、ベアトリスはふたたび剣を振り下ろす。

 そうこうするうち、次々に自分の周囲でも血煙が上がる。

 何かが違う。

 どこか狂っている。

 それは理解できるのだが、歩みを止めることは許されない。

 返り血を浴びながら、ベアトリスは素早く自分を取り巻く木々に視線を巡らす。

 一刻も早く、パロマ侯カルロスが玉座につく妨げとなる王子を手中に収めなければ。

 そうすれば、無駄に何の縁もゆかりもない人命が失われずに済む。

 その瞬間、彼女の脇を矢が通り過ぎる。

 いや、正確に言えばすんでの所で避けたのだ。

 慌ててベアトリスは、それが飛んできた方向に目を向ける。

 木々の葉が生い茂る中、それに紛れるように組み上げられた物見の櫓。

 そこに弓を構える人影が見える。


「そこか!」


 叫ぶと同時に再び矢が彼女をかすめる。

 ベアトリスの頬に一筋、赤い物が浮き上がる。

 戦女神は脇に付き従う従者から長槍を受け取り、狙いを定めてその方向に投げつけた。

 その間にも、ばたばたと彼女の周りでは敵や味方が倒れていく。

 早く……早くこの地獄から逃れたい。

 あの方のご心痛を取り除きたい。

 果たして、あの槍は当たったのか……。


      ※


「意外と手間取っているな……」


 山の上に置かれた本陣から戦場を見下ろしながら、フェルナンドはつぶやいた。

 だが、地の利は相手にあるのだから、当然と言えば当然だ。

 何より狭い谷間で左右から挟撃されれば、小回りの利かない騎馬隊は不利になる。

 おもむろにフェルナンドは剣を取る。

 瞬間、脇に控える参謀の表情が強張った。


「い……如何なさいました?」


「出る。馬を……」


「なりません! この様な戦とも呼べぬ下賤な物に、御自らご出馬なさるなど……」


「責任は、俺自身がとるべきだろう」


 言いかけたフェルナンドは、山の斜面の一点に視線を奪われた。

 そこに存在を主張していたのは、伝え聞く戦乙女……ヴァルキューレの旗。

 そして、もう一つ……。


      ※


 死亡者が増えていく。

 刻々と時が過ぎていくにつれ、転がり込んでくる伝令の報告は血生臭いものになっていく。


「……で、フェダルは?」


 辛うじて戻ってくる者達の言葉は全て同じである。

 未だご無事、と。

 だが防御陣の崩壊は時間の問題である。

 長老は騎士の顔でつぶやいた。


「……御覚悟は、宜しいか?」


 その問いかけに、一同は頷く。

 では、と各々が武器を手にしたとき、悲鳴のような絶叫が表から聞こえてきた。


「街道から……街道から軍団が入ってきます!」


 色を失う長老は、慌てて外へ飛び出す。

 その視線の先にひるがえっている物は他でもなく……。


      ※


 かすかに村の方に、軍勢と思しき人だかりが見える。

 まさか国内の諸侯達にも村は手を回していたのか、との考えがベアトリスの脳裏をよぎった。

 何故ならその旗の色は、紛れもなくフエナシエラの海の色をしていたのだから。

 だが、その旗に描かれた紋章がはっきりするに連れ、彼女は自らの目を疑った。

 その旗は、彼女が剣を捧げたアラゴン侯の旗。

 十字に王冠と盾と剣。

 だが、残る最後の個人を示す紋様は、フェルナンドの金色の鷲ではなくて……。


「黒豹旗……弟君が!」


 信じられない。

 第一、あれ程の手傷を負っているホセが、遥か彼方のプロイスハイムからこんなに早く来られるはずがない。


「こけ脅しだ! 踏みとどまれ!」


 だが、『アラゴンの黒豹』の恐ろしさをもっとも知る者達が、その命令を実行できるはずがない。

 ベアトリスは思わず唇を噛んだ。


     ※


「狼煙を上げろ。一端退かせる」


 一言言うと、フェルナンドは陣幕へと下がっていった。慌てて参謀は走り出す。

 ……泥沼の戦いは、一応の結末を迎えようとしていた。


     ※


 損害は、予想以上だった。

 慣れぬ山間地での戦闘で、しかも地の利は敵にある。

 加えて素人が闇雲に剣や槍を振り回して突入してくるのだ。

 己の武器を降ろすことをためらった者がいたのも確かだった。

 何より、ベアトリスがその一人であり、皮肉にもあの『黒豹旗』の突然の乱入による混乱と撤退命令にほっとした、というのが彼女の本音だった。

 けれど、『戦』を指揮する者としては失格である。

 青ざめた顔で戻ってきた彼女を、だがフェルナンドは労いの言葉で迎えた。


「……辛い戦をさせてしまったな。申し訳なく思う。取りあえず皆の武装を解き、一端休ませろ」


「しかし……! しかしすぐに奴らを叩くなりしておかねば、取り返しの付かないことになります! どうか……」


 きっと顔を上げるベアトリスに、フェルナンドは笑った。


「この戦は長丁場になる。二度とエルナシオン……いや、ラベナにも戻れないかもしれない。我々はすでに、かごの中に追い込まれた状態だからな」


 出来るだけ消耗は避けたい。

 そう言うフェルナンドに噛みついたのは、愚かな参謀だった。


「何を仰いますか! ここは一度アプルまで戻り、装備を調えるなり……」


「恐らく今頃は、国境に女侯の軍が展開しているだろう。どちらに進むにも一戦は免れない」


 さらりと、フェルナンドは言う。

 そのあまりのさりげなさに、ベアトリスでさえ事の重大さを理解するのに僅かな時間を要した。

 もちろん参謀は言うに及ばない。


「今までは、我々がフエナシエラの本流であり、大儀は我々にあった。だが、サヴォの大儀はあくまであのヒューゴが主張しているだけのことだ。そもそもあの御仁は嫡男ではなく、玉座に付く正統な理由は無いのだからな」


 ここまで説明してやっているのに、まだ解らないのか、というような皮肉を含んだ笑みがフェルナンドの顔に浮かんでいる。

 そう。

 サヴォの王位は、ヒューゴ五世が自分の兄であるフランソワ三世を力で廃し、病弱なその子アンリ王子を保護という名の軟禁状態に置くことによって、無理矢理手に入れた者である。

 それ自体は、フエナシエラ以外の国では別段珍しい事ではない。

 むしろそう言うことが起こらないフエナシエラこそが希な存在であり、だからこそ『神聖王国』などというご大層な異名を与えられているのだ。

 けれど、今まで沈黙を守っていたあのアプル女侯がなぜこの時期になって。

 そう問いかけるようにベアトリスはフェルナンドを見つめる。

 ようやくその段になって、流石の参謀も何が起きつつあるのか理解したようだった。


「しかし……何を根拠に女侯殿がヒューゴ陛下に歯向かうような事を……動くと仰られるのです?」


「今エルナシオンにいる、玉爾に触れることが許される王の代理人は、カトリーヌ殿下のみだ。殿下は元々アンリ殿の許嫁……。それ以上口に出すのは野暮以外の何物でもない」


 幸い、王女を止めることが出来る国王以外の唯一の存在である女侯はアプルにあり、元々ヒューゴの即位をあまり快く思っておられないようだからな。

 そう言いながらフェルナンドは再び笑う。


「しかし……カトリーヌ殿下は、ヒューゴ陛下が正式にその婚約を破棄し、フェルナンド様へと……」


「口約束で人の心が動かせるとでも思っているのか?」


 人の心を動かすことが出来るのは信頼と人徳、そして恐怖。

 ヒューゴ五世は、その中ではもっとももろい『恐怖』によって簒奪を行った。

 事が起きればどちらに転ぶかは当然といえば当然だろう。

 それに、カトリーヌに己の信ずるように……アンリ殿下を救えと焚き付けたのは自分だからな、とフェルナンドは心中でつぶやく。

 あの美しく無垢な姫君は、その繊細な外見とは裏腹に芯の強さを持っている。

 不幸にも父親であるヒューゴ五世は、そのことを知らなかった。

 その時、フェルナンドの言葉を裏付けるように、後方に置いていた斥候が転がるように本陣へと駆け込んできた。

 何事かと注視する三者の前で、彼は悲鳴のような声で事実を告げた。


「アプルの国境が封鎖されました! 女侯殿はほぼ国境防備の一部隊を残し、全軍を率いてエルナシオンに向かっておられます!」


 だが、フェルナンドの表情は変わらなかった。

 全てが彼の予想通りに動いているのだから。

 後は……。


「今日は取りあえず攻撃を中止する。単発的な夜襲に備え警備は怠るな」


 言い残すと、フェルナンドは自らの陣幕の中へと消えた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?