いつもは静かな村が騒然となっている。
ここ数十年、虫干しと手入れの時にしか開かれなかった村の武器庫の扉がすべて開かれている。
ガチャガチャと耳障りな音を響かせて、剣が、甲冑が、盾が運び出されている。
道の所々には篝火が焚かれ、女性と病人、戦うのは困難であろう老人、そして子ども達は安全と思われる東の山際へと避難を始めている。
そして戦える村の男達は進んで手に手に武器を取り、村の中央から少し離れた小高い丘の上の屋敷……かつて『フェダル』と村人に慕われた人物が住んでいた所に集まり始めた。
その家の中では、破れかけた古い地図を机の上に広げ、数人の男が『軍議』を行っていた。
「アラゴン侯子フェルナンド殿は、アプル女侯殿と共に、街道を進んでいるようです。ですが……」
鋭い視線を一同に巡らせて、かつて騎士だった長老は重々しく口を開いた。
良くも悪くも、戦場を経験したことがあるのは彼だけなのだから、その指示に従い、頼るしかない。
「その歩みはことのほか遅い。まるで我々が軍備を整えるのを待っているかのように……」
「恐らく、女侯様が時間稼ぎをしてくださっているのではないでしょうか。あの方は我々を見殺しにするようなお方ではない」
一人の言葉に、一同は頷く。
サヴォの王室と、直接身の安全を保障した村人との板挟みになっているであろう女侯の心情は、想像するに固くない。
「みんなは……みんなは本当に戦うつもりなのか?」
ややためらいがちに口を挟むバルに、長老達は一様に首を縦に振る。
「そんな……俺がいなければ起きなかった戦いだ。それなら俺が……」
「フェダルと交わした誓いを、破るわけにはいきません」
一人の言葉がきっかけとなり、机を囲む面々は異口同音にこう答える。
「貴方一人を犠牲に、おめおめ生き残るわけには生きません」
「自分の土地は自分の手で護らなければ。例え敵が誰であろうとも」
けれど、バルはうつむきぽつりとつぶやく。
「だけど……だけど俺は、俺のせいでこれ以上誰も傷ついて欲しくないんだ……」
重い沈黙が流れる。
それを笑顔で破ったのは他の誰でもない長老の一言だった。
「貴方は自分の我が儘を通そうとして、私たちの我が儘を聞いてはくれないのですか?」
虚を突かれたように、数度バルは瞬く。
その顔にはいつしか涙混じりの苦笑が浮かんでいた。
「本当に……本当にみんな、馬鹿だな……」
「そうですよ。一度腹をくくった馬鹿は、こうと決めたら心変わりをしない物です」
そうでもなければ絶対の忠誠など存在しないでしょう、と言って見せる長老。
束の間、人々の間に笑みが漏れた。
※
「本当に宜しいのですか?」
不安げに問いかけるベアトリスに、フェルナンドは僅かに視線を向けた。
自分より半馬身後ろに従っている彼女の姿を見つめると、結果自分が率いてる騎馬の群、歩兵、そして旗印を掲げる従者の姿が視界に入ってくる。
まるでこれから自分がしようとする事を見せつけられているようだった。
「女侯が先行をお許しくださったんだ。……まあ露払いとでも思えばいいさ」
フェナシエラ人特有の淡い色合いの髪を風に預けて、フェルナンドは言う。
斜め後方からでは、その表情をうかがい知ることは出来ない。
「戦場に立ったことのある者は、華々しさの裏にある愚かさも知っている。だから女侯は我々が先に行くことを許されたのさ」
謎めいた言葉に、ベアトリスは口を閉ざす。
当のフェルナンドも、特に返答を最初から期待していなかったのだろう。
独白のような低い声で、彼はさらに続ける。
「何故ヒューゴ五世が国王になれたのか……。それは彼のお方が、本当の戦場を知らない人間で……宮殿から一歩も出ようとしない馬鹿な文官と意見が合ったからだ」
言葉を失うベアトリスを、フェルナンドはかえりみる。
その口元には僅かに皮肉な笑みが貼り付いているようだった。
「ちっぽけな国益のために、どれだけの血と涙が流れるか、奴らはそれを知ろうともせずに胡座をかいているだけなのさ」
「では……フェルナンド様は……?」
「少しでもましな道を選んだだけだ。あの方ならば……」
うつむきながら、フェルナンドは言葉を継いだ。
「今以上のまともな世界を作ってくださるだろう」
フェルナンドの言う『あの方』が誰を指しているのか、ベアトリスは言われずともすぐに理解できる。
脈々と続くフェナシエラの『負』の部分を一身に背負おうとしているのだ、この方は。
そう理解して、ベアトリスはわずかに身震いする。
「村人が大人しく『邪魔者』を差し出してくれれば、それで済むのだがな」
「先のご領主様のご人徳を考えれば、難しいのではないでしょうか」
「そうだな……何せ『あの方』の性格は、紛れもなくお父上譲りだから……」
重い行軍は、山間の道を整然と進んでいった。
※
「……どうやら国境付近に到達したようですが……」
本当にどうされるおつもりなのですか。
斥候兵の青ざめた表情が、言外にそう尋ねてくる。
「フエナシエラの因習に振り回されるのは一度で充分。私は同じ過ちを繰り返したくはない」
扇を口元に添えながら女侯は僅かに目を伏せる。
サヴォの国広しと言えども、この人のこんな表情を見たことのある人はいるのだろうか。
斥候は非礼と知りつつ主の顔を見つめる。
そんな配下の目の前で、自らの思考を断ち切るかのように女侯はぱちんと扇を鳴らす。
「それに……ここで討たれるのであれば、その御仁もそれまでの者と言うこと。真に国王に相応しい人物であれば、自ら道を切り開くであろう」
その時の女侯は、遥か過去を見つめているようだった。
「人は、己の運命を自らの手で掴む者。如何に救いの手を差し伸べても、相手にそれを取る気がなくば、何の意味もない」
「ご心痛、お察し申し上げます……」
「ロドルフォ殿が望んでおられたのは『フエナシエラ』の名が汚されぬことであり、御身の安泰では無かった。私も無駄なことをしたものよ」
何時しか女侯の顔には寂しげな微笑が浮かんでいた。
かつて、自分の弟が練り上げた暗殺計画を事前に察知しながら、そして手を打ちながら止めることが出来なかった苦い想い出が、その脳裏をよぎったのかも知れない。
「フエナシエラの行く末、見届けさせていただく」
言い残すと、女侯は踵を返し、馬車の中へと消えていった。