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第4話 前哨戦

 寝苦しさを感じ天幕を出たベアトリスは、暗闇に佇む人影を見とがめてその場で足を止める。

 こんな時でも肌身離さず剣を手にしていたことに感謝しつつ、気配を殺してその人影に近づく。

 だが、雲が切れ顔を出した月の明かりに照らし出されたその姿に、安堵の溜息をつきながら姿勢を正した。


「……こんな時間に、どうしたんだ?」


「フェルナンド様こそ……。このようなところで一体何をなさっているのですか?」


 大木に体重を預けたまま振り返るフェルナンドの顔には、僅かに苦笑が浮かんでいる。

 ベアトリスと、ここにはいないもう一人の心を許した者以外には決して見せない表情だ。

 どんなに彼の周囲を取り巻く状況、そして環境が変わっても、この方自身を変えることはできない。

 何となくそんなことを思いながらベアトリスは常にそうするように、フェルナンドの後方に控えた。


「この道の先に、目的地がある」


 思いの外静かなフェルナンドの声に、ベアトリスはうなずき次の言葉を待つ。


「……敵として戦わなければならないのは、他ならぬ、フエナシエラのどこにでもいる善良な村人だ」


 主の苦しい内心を察し、きゅっとベアトリスは両の手を握りしめる。


「己の私利私欲のために国民を巻き込むとは、上に立つ者としては失格だな」


「フェルナンド様……」


 何も迷うことはありません。

 ご自身の信じる道をお進みください。


 その言葉が喉まで出かかっているのに、音声にならない。

 目の前に佇む主が、心の底から望んでいるであろう救いの言葉。

 と、同時に今はもっとも聞きたくないであろう言葉。

 フェルナンドの心の内の葛藤を察し、ベアトリスは目を閉じる。


「早く休むと良い。明日もまた長丁場だ」


 言いながらフェルナンドは大きく伸びをする。

 青白い月の光の下、そんな主の姿をベアトリスはまるで神々しい者であるかのように見つめていた。


      ※


 ヒューゴ五世のラベナ出立から遅れること二日。

 フエナアプルへと出陣したフェルナンド軍の歩みは、亀のそれに等しいスピードだった。

 理由は三つ。

 一つ目は、エルナシオンからフエナアプルへと続く道は大軍を率いるには細く険しい物であること。

 そしてもう一つは、アプル女侯テレーズ・ド・サヴィナが途中までの同行を望み、それを断ることが出来なかったということ。

 そして最後に、常日頃は自ら乗馬で移動するアプル女侯がその地位に相応しい方法……すなわち馬車を移動の手段に用いたと申し出たことてある。


「何か不都合はございませんか?」


 朝食の席に姿を見せた女侯に、フェルナンドは礼を尽くして頭を下げる。

 正直なところ、今回の女侯の同行にはフェルナンド軍内部からかなりの反対があった。

 だがフェルナンドが二つ返事で了承し、常に礼を尽して女侯に接しているので、不満は未消化のまま、半ば諦めた空気の中に溶けている。

 フェルナンド様は、迷っておられるのかもしれない。

 ふと、ベアトリスの脳裏にそんな考えがよぎった。

 ヒューゴ五世は『後見人』を自称しているものの、一国の王というその立場はほぼ対等である。

 何よりフェルナンドが動かなければ、フエナシエラの玉座はこれ程までにサヴォには近づかなかったのだから。

 だから、フェルナンドが女侯の同行を拒否しても、ヒューゴ五世はそれをとやかく言うことはないだろう。

 だが、快く、と言ってもいいくらいにフェルナンドは女侯の同行を了承した。

 足かせになるとはっきり解っているにも関わらず、輿を使うことに何一つ苦情を言おうとはしなかった。

 戦場に着く時間を意図的に遅らせることで、自らの気持ちを整理しようとしているのかもしれない。

 だが、その真偽を尋ねる権限は、ベアトリスにはなかった。

 彼女は出自はどうあれ、今現在はフェルナンドの駒の一つに過ぎないのだから。


 ぱちん、と女侯が扇をならす。

 その音に不意に現実に引き戻されたベアトリスは慌てて顔を上げる。

 と、フェルナンドと女侯、両者の間に言い難い空気が流れているように思えた。

 その音を合図に、女侯の侍女達は一礼をして本陣の天幕から退出していく。

 無言の人払いの合図だったのだろう。

 慌ててベアトリスもその後に続こうとしたとき、女侯が初めて口を開いた。


「戦女神殿はこのままおられるがよい。何よりベアトリス殿はフェルナンド殿と一心同体も同じ」


 女侯の目を正面から見ることが出来ず、ベアトリスは深々と頭を下げる。

 僅かに微笑んでいるようではあったが、その鋭い視線は見えるはずのない内心までも見透かすように思われた。

 そんな両者の姿に、フェルナンドは苦笑を浮かべる。


「これは……痛いところをつかれました。まるでカプア卿がいなければ私が何もできない子どものようではないですか」


 一瞬流れた和やかな空気。

 取り付く島を失って、そこに立ちつくすベアトリス。

 それをうち破ったのは女侯の方だった。


「……ここまで王都から離れれば、よもや飼い主にすり寄る犬もおらぬ故……。ようやく本音で話が出来るという物。時にフェルナンド殿……」


 言葉を一端切り、女侯は口元を広げた扇で隠したままフェルナンドを見つめる。

 この時ばかりは女侯が何かを『畏れて』いるようにベアトリスには見えた。


「そなた、どこまで事実を御存知なのか?」


 痛いほどの沈黙。

 一瞬目を伏せた後、フェルナンドがそれを破った。


「事実かどうかは分かりませんが……。我が父と呼ばれた存在が犯した罪は、存じているつもりです。ヒューゴ陛下と結び、何を犯したのか。そして、」


「その理由も……?」


 斜めから見上げるような女候の視線を、フェルナンドは正面から受け止めた。

 息をするのも忘れ、ベアトリスはそこに立ちすくむ。

 自分が『知らない』フェルナンドの信じがたい行動の理由を、女侯は知っている。

 そして自分も今知らされる……。


「大将軍は、彼なりの方法でフエナシエラの『名』を護ろうとしたのでしょう。……宿敵と結ぶという手法は、いささか短絡的だったかもしれませんが……」


 フエナシエラの海の色の瞳が、鮮烈な光を放つ。

 ベアトリスが戦場以外でこんなフェルナンドを見たのは初めてだった。

 いや、事実ここは二人の戦場なのかもしれない。

 兵の替わりに持てる知識を総動員する、熾烈な戦場。


「……では、ご自身が父君と同じことをなさろうとしておられるのは、承知の上で?」


「同じではありません」


 ぱちん。

 再び扇の鳴る音がする。


「大将軍は、サヴォの力を借りてカルロス四世陛下のご安泰のため、陛下に忠節を誓われていたロドルフォ殿を弑したてまつった。私は自ら剣を捧げたパロマ候カルロス殿下のご即位をお助け申し上げるため、サヴォの力を利用して、何も知らぬフエナシエラの民を抹殺しようとしているだけにございます」


 冷酷とも言える笑みが、フェルナンドの唇の端に浮かぶ。


「カルロス四世陛下の血を引く御子を……」

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