家々の窓からは炊事の煙が立ち上り、夕焼けに赤く染まった小道を子ども達が走り回る。
軒先で読み書きを教えていた村の長老は、集まっていた子ども達に家の手伝いをしに帰るよう促す。
この穏やかな村を前触れもなく、そして慌ただしく旅立ったあの日から全く変わらぬ風景が、バルの目の前に広がっている。
こんな長閑な空気の中にどっぷりと浸かっていると、あの異国での生活が夢のように感じられてならない。
すれ違う人々は皆、突然姿を消しそして思い出したように舞い戻ったバルに変わらぬ笑顔を向け、手を振り、頭を下げる。
あれは一瞬の夢だったんだ。
バルは無理矢理にそう思いこむ。
そして『日常』に戻らなければ、と自らに言い聞かせる。
けれど。
一番近い街に立つ市から戻ってきた者達が口にする王都の様子を耳にする度、自分が『何に』関わっていたのかを、嫌と言うほどに思い知らされる。
彼らが口をそろえて言うことには、王都ラベナはようやく戦の混乱から立ち直り、落ち着きを取り戻しはじめているという。
そして、サヴォ王ヒューゴ五世の支持を受けて即位したフェルナンド・デ・アラゴンは未だサヴォの王都エルナシオンにおり、ラベナには入城してはいないという。
さらに、まだ経験の浅いフェルナンドの後見人をヒューゴ五世は自称しているらしい、と言うこと。
そして、誰からも呼ばれてもいないのに、自ら近々ラベナに入るらしい、ということ。
関係ないことだ。
バルは再び自分に言い聞かせる。
だが、うわさ話にのぼる名の端々に見知った顔があり、彼らの姿がまざまざと脳裏に浮かぶ。
どうかしてしまったのかも知れない。
戻ってから何度もバルはそんな思いに捕らわれていた。
そんなある夜のことだった。
慣れていたはずなのに妙に物悲しい一人きりの夕食を終え、片づけをしていた時だった。
前触れもなく家の扉が叩かれた。
こんな時間に一体。
不審に思いながらも、バルは入り口の扉を開けた。
「夜分に申し訳ない。もうお休みでしたか?」
漆黒の夜の闇に佇んでいたのは、村の『長老』格の一人で、バルを始めとする村の人々の文武の師である人物だった。
いつものように面白くなさそうな表情で首を横に振るバルに、夜の来訪者は柔和な笑みを浮かべた。
「お時間、少し宜しいですかな?」
断る理由もないので、今度は首を縦に振る。
では失礼、と長老は羽織っていたマントを脱ぎ、迎え入れられた居間のテーブルについた。
「正直、もう戻っていらっしゃらないかと思っていました。フェダルが行かれたときと、似ていましたので」
聞き慣れた単語に、座ろうとするバルの動きが一瞬止まる。
が、何も無かったかのように腰を落ち着けるのを待って、長老はおもむろに口を開いた。
「……戦乱が、近づいております」
耳を疑うかのように、バルは数度瞬きを返す。
しばらくその言葉を口の中で反芻してから、ためらいがちに言った。
「それは……それは、俺があの二人をかくまったからか? 俺が原因で……」
長老は目を閉じ、静かに首を振る。
「貴方があのお二方と関わりを持ったことは、直接の原因ではありません。が、申し上げにくいのですが、貴方ご自身が、原因であるのかも知れません」
「……俺自身が、原因……?」
訳が分からない、とでも言うように、バルは首を傾げる。
それに対して帰ってきた返事は、寂しげな笑みだった。
「長老……聞きたいことがある。フェダル……親父は……。そして、俺は一体何なんだ?」
「貴方は、貴方ご自身以外の何者でもありません。誰が何と言おうとも」
長老の顔に既に笑みはなかった。
穏やかだが鋭さを秘めた視線を正面から受け止めかねて、バルは思わず視線を逸らす。
そして低くつぶやいた。
「俺がいなければ、争いは避けられるのか?」
再び長老は首を左右に振る。
「それが貴方の死を意味するのであれば、答えは否です。フェダルと約束したのです。我々は貴方を見殺しにはしないと」
「もう一度聞くけれど、フェダルは一体、誰なんだ?」
二人の視線が空中で交錯する。
先に目を伏せたのは意外にも長老の方だった。
「かつて……かつて私が剣を捧げたお方であり……この村の人々にもっとも愛されておられた方です」
「……剣、て……。じゃあ、長老、あんたも……」
一瞬の沈黙。
だがその僅かの間に、日向ぼっこをしながら子ども達に読み書きを教えている好々爺は、戦場を駆け抜ける騎士へと変貌を遂げた。
「殿下や黒豹殿と僅かでも過ごされた貴方であれば、我々にとって剣が何を意味しているかおわかりですね」
静かな迫力に押されて、バルは思わず頷く。
「フェダルは、剣と共に貴方を我々に託された。私に出来ること、そしてしなければならないことは、貴方を命に代えてもお守りする、ただそれだけです」
「俺は……俺がここにいても良い理由は、フェダルがそう望んだから……? それで……」
やはり自分はよそ者なのか。
自分が本当に居るべき場所は、ここでも無かったのか。
そんなバルの内心を悟ったのか、長老は僅かに笑ってみせた。
「私が貴方を守るのは、確かにフェダル……ご領主との誓いがあるからです。けれど、貴方を守りたいと思うのは、他でもない貴方だからです。それを忘れないで下さい」
では夜分に失礼しました、そう言い残して長老はマントを羽織り、夜の闇へと溶け込んでいく。
その後ろ姿をバルはいつまでも見つめていた。