「起きていてもいいのか?」
ノックもせずに扉を開け遠慮無くずかずかと室内に足を踏み入れるなり、美貌のヴァルキューレは呆れたとでも言うような視線をその隻眼から投げかけた。
その言葉通り、絶対安静を命じられているはずのフエナシエラの名高き猛将は、日当たりの良い室内に置かれた寝台の上で半身を起こしていた。
「起きる程度なら構わない、との許しは軍医殿からいただきましたし……何より……」
ホセは読んでいた本を閉じると、飾文字で書かれた表紙に視線を落としながらつぶやいた。
「何より、何もできずに天蓋を見つめていると、嫌なことばかり思い出してしまうので……」
些細な言葉が持つ重い意味。
両者の間に、しばし重い沈黙が流れる。
だが、すぐに気を取り直したシシィは大股に寝台に歩み寄ると、その主の許可も得ず当然とでも言うようにその脇へ腰を下ろした。
予想外の行動に思わず瞬きをするホセをまったく気にする風でもなく、シシィはおもむろに告げた。
「さっき、陛下からザルツワルトの自治権をもらった。万が一の時は国境を護る盾になるのも納得の上だ。ここでの用件はすべて終わった。明日早々、帰る」
「帰る……? では、帝室には戻られないんですか?」
ひと息に言い切ったシシィの横顔を見つめていたホセは、遠慮がちに尋ねる。
けれど、帰ってきた物は予想に反して、今まで見たことがない清々しい笑顔だった。
「私には、あそこにかけがえのない友人達がいる。彼らと共に有りたいんだ。それに、今さらここに戻っても、馬鹿なことを考える奴が出てくるのがオチだ」
自分の存在が唯一の肉親である皇帝マルガレーテの立場を危うくするのなら、今まで通りの生き方を選ぶ。
その方がずっと気が楽だし、お互いにとってもその方が良いだろう。
言いながら笑うシシィの顔を、ホセは複雑な面持ちで見つめた。
「……どうした? 何か不服か?」
「いいえ、そういう訳ではなくて……。どうしてわざわざ私に?」
首をかしげるホセに、やれやれとでも言うように小さくため息をついてからシシィは足を組み直す。
そして、やや照れ臭そうに言った。
「お前には……その、色々と世話になった。一応ことの顛末を報告するのは礼儀だと思った」
その言葉にうなずきながらも、ホセの脳裏には彼女が『帰る』理由がこびり付いて離れなかった。
そしてふと、ある疑問がわき上がる。
自らフエナアプル侯となりラベナを離れたロドルフォ殿下も、このような思いを抱いていたのだろうか。
では、父王の遺言に従いロドルフォ殿下を探しているカルロス殿下は、一体何を思っているのだろう……。
「何をぼんやりしている?」
物思いに吹けるホセを、いらだったようなシシィの声が現実に引き戻す。
いつしか真剣な眼差しでホセを見据えるシシィは、こんな言葉を口にした。
「帰る前に一つだけ聞きたいことがある。……お前はどうして騎士になった?」
別に答えたくなければそれでもいい、と言うシシィの視線から逃れるように、ホセはうつむく。
そして、やや躊躇った後彼は低く言った。
「他に……生きる術が無かったからです。あの時私に示された道は、騎士として生きるか、慰み物として死ぬか、そのどちらかだった。だから……」
そこまで言って、ホセは思わず口をつぐむ。
気が付くと、シシィの顔がこれ以上無いくらい間近にあった。
驚いたホセが身を退こうとしたその瞬間、彼の唇にシシィのそれが触れた。
「……一体……何を……?」
内心の動揺を隠しきれず問うホセに、シシィは少しも悪びれもせず悪戯を仕掛けた子どものような表情を浮かべて見せる。
「今のは、契約だ」
「契……約……?」
「たった今からヴァルキューレと楽園の騎士団は、お前と共にある。万一助けが必要になったら、私を呼べ。例え地の果てにいようとも、必ずお前の元にたどり着いてみせる」
そう宣言するシシィの顔には、すでに笑みは無かった。
神に誓いを立てる神官のそれに似た真摯な視線を受け止めかねて、ホセは思わず口ごもる。
「けれど……けれど私は、あなたの嫌う騎士で、貴族で……」
「お前は同志だ。私達と同じ痛みを分かち合う存在だ」
驚きのあまりしどろもどろになるホセの反論を、シシィはぴしゃりと封じた。
呆然とするホセに、シシィはさらにたたみかける。
「それ以前に、こんなに腰の低い騎士や貴族を今まで見たことが無い」
言い終えて破顔するシシィにつられて苦笑を浮かべるホセだったが、ふと何かを思い立ったように口を開いた。
「では、早速で申し訳ないのですが、少々力を貸しては頂けないでしょうか……」
※
室内には、一言では表現し難い嫌な空気が流れている。
定例の会議とは言っても、集まっている人の数はごく僅かだ。
その彼らの視線の先には、フエナシエラの嫡流パロマ侯カルロスがいる。
けれど、穏やかな笑みをたたえてその後方に常に控えているはずの筆頭騎士の姿は無い。
いつもとは異なるその現実が、部屋の空気をより重苦しいものにしているようでもあった。
「ヴァルキューレ殿の配下からもたらされた情報は、まず間違いないと思います。……先日自分の情報網にも、似たような話が引っかかって来ましたので」
その淀んだ空気の中、オルランドの声が響く。
透き通る水色の双眸からは、いつもの不真面目さは微塵も感じることができない。
明るくお調子者のオルランドのもう一つの顔、それはパロマ侯配下の『草』……情報網を一手に束ねる言わば間者の長である。
滅多に見せることのないその凍りつくような雰囲気に飲まれ、居並ぶ人々にグラスを配っていたバルはそれを取り落としそうになったほどだ。
冷たい氷のような瞳で列席者を見やると、オルランドはさらに続ける。
「もっともこの度の混乱で配下が散り散りになっていることは否定できません。……下手をすると、ヴァルキューレ殿の方が正確に状況を把握しているかもしれません」
その言葉にうなずきながら、カルロスは机上の書状を見つめている。
それは、サヴォに潜入しているシシィの配下から先刻もたらされた物だった。
それによると、大将軍アラゴン侯フェリペを殺害した後行方がわからなくなっていたフェルナンドは、正式にサヴォ王室に迎えられ滞在を許されているとのことだった。
それを裏付けるように、サヴォの王都エルナシオンにはサヴォ王家の紋章旗と共にフェルナンドの金鷲旗が掲げられているという。
けれど、これだけ証拠を突きつけられてもなお、カルロスはまだ心のどこかでフェルナンドを信じたいと思っていた。
あれだけの事をしたのは、必ず何か理由があったからだ。
そうでなければ、あのフェルナンドがこんな事をするはずがない……。
幾度となく去来するその考えに、カルロスは今また囚われていた。
そして、フェルナンドがその行動を取らざるを得なかった理由は何かとひたすら自問する。
主の沈黙に、再び重苦しい空気が列席者の上にのしかかってきた。
誰もがそれを打ち破る機会を探りながらも、決定的な材料を持たない。
そんな中、前触れもなく乾いたノックの音が室内に響いた。
一同は不審に思いながら、互いに顔を見合わせる。
そしてその視線は、ある人物に集中する。
視線を一身に受けたのは、プロイスヴェメからの協力者との立場で出席していたプロイスハイム公ゲオルグである。
ゲオルグがまったく心当たりがない、とでも言うように首をかしげるのを見たカルロスは、戸口に控えるバルに一つうなずいてみせる。
それを確認したバルは、重い扉に手をかけた。
「どうでもいいけれど、早く開けろ! 重くてかなわない!」
扉が開くやいなや聞こえてきたシシィの声が、淀んだ室内の空気を一気に押し流す。
唖然とする人々を完全に無視し、彼女はずかずかと室内に足を踏み入れる。
そんな彼女に『引きずられる』という形容詞そのままに支えられてきたその人に、どよめきに似た声が室内のあちらこちらから漏れる。
自らの視界に入ってきたその人物に、カルロスは思わず立ち上がった。
「何故……まだ動くなと……」
「こんな大事な時に、私一人寝ているわけにはいきません」
ようやく長椅子に身を落ち着けたホセは、色を失う主君に向かい笑いかける。
安堵と不安とが入り混じったような表情でカルロスが席に着くのを待ってから、オルランドは改めてホセに向き直った。
「お前がそのつもりならそれでもいいが、今日の議題はフェルナンド殿の真意と動向だ。それでも……?」
「私は殿下に剣を捧げました。……この度のことで私にも咎があると言うのなら、喜んでこの命を差し出します」
いつになく強い語調のホセに、シシィはまじまじとその顔を見つめる。
オルランドがわずかに目を細め何かを言おうとした時、カルロスはあわててそれを遮った。
「……フエナシエラの法では、罪科は親兄弟にまで及ぶと定められていたか? ルーベル伯」
「……い、いえ。罪はあくまでも個人で背負うべき物。親族にまで及ぶことはありませぬ」
突然指名されたルーベル伯ピピン・デ・イリージャは反射的に姿勢を正しそう答えると、隣に立つオルランドの脇腹を小突く。
一つため息をつくと、オルランドは先程までとは異なりいつもの明るい口調で言った。
「そうじゃなくて……こんな話じゃ傷に響くだろう? あまり聞いていても楽しい話じゃないしおそらく傷に障る」
「いえ。何もしないでいる方が、かえって傷に障ります」
どうやら決意はそう簡単に翻りそうもない。
やれやれとでも言うように肩をすくめると、オルランドは再び表情を改め中断していた報告を再開した。
「では……フェルナンド殿と行動を共にしているのは直属の八千の他、どうやら亡くなられたアラゴン侯の配下も含まれているようです。少なく見積って、五万五千弱」
そこまで言ったところで、カルロスが手を上げる。
「侯の配下も? 彼らにとっては、フェルナンドは主君を討った敵じゃないか。それがどうして……」
「自分もその点が腑に落ちないんです。フェルナンド殿がよほど周到に計画を進めていたか、あるいは侯がフェルナンド殿に殺されても仕方のない事をしたのか……」
オルランドは言葉を切り、列席者達をぐるりと見回した。
相変わらず戸口に控えていたバルは、気付かれないようにオルランドの視線の先を追う。
正面からその視線を受け止めようとしなかったのは、三人。
大将軍の過去の行いを知るカルロスとホセ、そして大将軍の盟友であるルーベル伯だった。