──序──
静まり返る王家の墓地。
木漏れ日の中、また新しい墓の前に一人の女性がたたずんていた。
端正なやや鋭い印象を与える顔は、険しい表情を浮かべたまま銘のないその墓をじっと見据えている。
どれくらいの時間が経っただろうか。
彼女は意を決したかのように唇をきつく結ぶと、腰の剣に手をかけた。
抜き身の白刃が光を受けてきらきらと光る。
その剣をしばらく見つめてから、鋭利な刃を自らの首筋へ突き立てようとした、まさにその時だった。
「いけません、ベアトリス様!」
悲痛な絶叫が、静寂を切り裂く。
そして、突然の乱入者は今まさに彼女の血を吸おうとしていた剣をその手から叩き落とした。
剣が転がる乾いた音が、墓地の中に響く。
同時に彼女は力なく膝をついた。
今までの緊張が途切れたのか、青ざめた頬を涙が伝い落ちる。
困惑したかのように立ち尽くす乱入者に、彼女は力無く言った。
「……何故? 何故止める……?」
「……ベアトリス様」
不安げな面持ちで彼女の傍らに歩み寄り、ひざまずく乱入者。
だが、彼女は突然その胸ぐらを掴み激しく揺さぶった。
「どうして? どうしてあの方の元に……フェルナンド様のお側に行かせてくれない? 私にこれ以上生き恥を晒せと言うのか⁉」
抑えきれない感情に任せて、彼女は駄々をこねる子どものように泣き叫ぶ。
ようやくその手から解放された乱入者は、乱れた長い黒髪を背中にはねのけると、呼吸を整え低くつぶやいた。
「生き恥を晒しているのは、私も一緒です……」
未だ涙で濡れた目を大きく見開き、そして頬を拭うことも忘れ、彼女は乱入者を見つめる。
見つめられる側は沈痛な面持ちのまま、その視線から逃れるように白い墓石に目をやった。
「……ホセ?」
戸惑ったように彼女は呼びかける。
だが、その声は乱入者には届いていないようだった。
「……私も主を……殿下をお守りできませんでした。それどころか、恩人であるフェルナンド様までも……」
うなだれるその顔は癖のない長い黒髪に覆い隠され、表情をうかがい知ることはできない。
けれど、涙声ながらもはっきりと乱入者は言い切った。
「ですが、殿下は私達に生きて欲しいと願った。もう誰も、傷付いて欲しくないと願った。せめて……せめて殿下の最後のご命令を、果たさせていただけませんか……?」
「……ホセ……」
木漏れ日が二人を、そして銘のない墓石を、暖かく包んでいた……。
※
磨きぬかれた白い石造りの廊下に、規則正しい足音が響く。
その主は甲冑に身を固めた、まだ若い女性である。
端正な顔にはやや疲労の色が見受けられるが、その美しさを損なうことはなかった。
いや、むしろ細身で鋭利な剣のような印象を与えるその顔の美しさを引き立てているようでもあった。
今までまったく表情を動かさなかった女性は、一つの扉の前で足を止める。
と、気持ちを整えるかのようにふっと大きく息をつき、扉を二度叩いた。
返事は無い。
けれど、彼女はその重い扉を静かに押し開いた。
「……その様子だと、ヴァルキューレは
部屋の主は彼女が室内に足を踏み入れるなり、執務の手を止めることも顔を上げることもせず、文字通り間髪を入れずにこう言った。
その言葉を受けて、ベアトリス・デ・カプアは深々と頭を垂れる。
そして、そのままの姿勢で告げた。
「申し訳ございません……。予想外の邪魔が入りました」
「名高きカプアの戦女神の手を煩わせるとは、よほどのことだったようだな」
「……は。手負いの黒豹が、一頭……」
男の手が、一瞬止まる。
彼はゆっくりと顔を上げると、始めてベアトリスに鋭い視線を向けた。
「……この失敗は、必ずや……」
更に深々と頭を下げるベアトリス。
だが、その様子を頬杖をつきながら見やる男の顔には、僅かに苦笑にも似た表情が浮かんでいた。
「仕方がないさ。ただでさえ戦場では手に余るのが、怪我を負っていたなら無理もない」
「フェルナンド様……」
「気にするな。無駄足を踏ませてすまなかった。下がってゆっくり休むといい」
長くなりそうな弁明を遮ると、フェルナンド・デ・アラゴンはそうベアトリスに促した。
再び深々と一礼すると、ベアトリスは恐縮したように部屋を後にする。
重々しい音と共に扉が閉ざされると、フェルナンドはおもむろに立ち上がり窓際へと歩み寄る。
窓の外の庭園を眺めやるフェルナンドの目には、何故か安堵にも似た光が宿っていた。
※
『アラゴン侯』、それはフエナシエラ王室の分流で、武門に優れた家に与えられる称号で、今のアラゴン侯は先王カルロス三世の弟に連なる家柄である。
代々のアラゴン侯はフエナシエラ王の側近中の側近であると同時に、大将軍として国軍を一手に握る。
『王の盾』という紋章が示すように、常に王の身近にあり守護する存在だった。
他の貴族から見れば垂涎の的であると同時に、まさに手の届かぬ雲の上の称号なのだが、ある時フェルナンドは腹心ベアトリスと義弟ホセに皮肉な笑みを浮かべながらこう言った。
──何のことはない。要注意人物が危険な真似をしないよう、常に目の届くところへ置いて監視しているのさ──
事の重大さにあわてて二人はたしなめたのだが、フェルナンドはその様子をただ笑いながら見つめていたという。
あまりにも強大な父親の影に隠れる七光りで、実力は親に遠く及ばない。
そう陰口を叩かれながらも、フェルナンドは決して表立って怒るでもなく否定もしなかった。
おそらく彼は、残酷な真実を正面から見つめているようでもあった。
常にフェルナンドの身辺に控えその一部始終を目の当たりにしてきたベアトリスは、薄々そのことを理解しているつもりではあった。
けれど、フエナシエラに反旗を翻しサヴォ王室に迎えられるに至っても、主であるフェルナンドの胸中を測り知ることができずにいた。
一体、フェルナンド様はどうして……いや、何の為にこんなことを……。
フェルナンドは彼女が知る限り、誰よりも王室……否パロマ侯カルロスに忠誠を誓っていたはずである。
幾度となく脳裏をよぎった疑問が、再び頭をもたげて来る。
磨きぬかれた廊下は、青ざめたベアトリスの顔を写している。
「……今、お戻りか?」
良く通る声に、ベアトリスはあわてて顔を上げる。
そこに立っていたのはサヴォ王の姉、アプル女侯テレーズ・ド・サヴィナその人だった。
ベアトリスと同じく、自ら陣頭に立つ数少ない女性騎士。
憧れの存在である女侯との決定的な違いは、女侯は武術のみならず貴婦人の所作振舞いをも身につけていることだ。
そんな劣等感にさいなまれながらベアトリスは壁際に退き、ドレスの裾を引きながらこちらに歩み寄る女侯に道を譲りつつ頭を垂れる。
そんな内心を知ってか知らずか、女侯は柔らかな笑みをベアトリスに向けた。
「私とてサヴォ王室では異端の身ぞ、戦女神殿。そう改まらずとも良い」
あまりの言いように、ベアトリスは不敬だと思いつつも目を丸くする。
その様子に、女侯はさも面白くて仕方がないとでも言うように笑った。
そして、その笑みをおさめるとベアトリスに向き直る。
「それにしても、休んでおられるか? 誉れ高き戦女神殿も、流石にお疲れではあるまいか?」
「いえ、決してそのような……。主の命に従う事こそ、騎士としてあるべき姿ですから……」
教則本通りとも言える生真面目な答えを返すベアトリスに、だが女侯の表情がふと曇る。
「フェルナンド殿は、確かに聡明な方ぞ。されどその聡明さ故、自ら危険な道を選んでおられるように思えてならぬ……」
悲しげな表情から紡ぎだされる言葉が、ベアトリスに突き刺さる。
「思い過ごしであれば良いのだが……。あの御仁を制止できるのは、今はそなただけぞ。くれぐれも後悔せぬよう……」
再びベアトリスは深々と頭を垂れる。
似たような言葉を、最近誰かから言われたような気がする。
そう、あれは確か……。
はっとしてベアトリスが顔を上げた時、女侯の姿はすでに小さくなっていた。