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第8話 消えない傷跡

 いつものように、彼女は格子のはまった窓から外界を眺めていた。

 母親や乳母など、親しい人たちとここに押し込められてからどのくらい経っただろう。

 窓の外の風景は四季の変化を幾度となく繰り返し、時は平穏に行き過ぎていた。

 だが、今日は少し違っていた。

 遥かに遠くに見える城のてっぺんに掲げられている旗が、いつもより低い位置にある。

 幼い彼女には、それが一体何を意味しているのか理解することはできなかった。

 少し視線を下に移すと、甲冑をまとった人々がこちらに向かって来るのが見えた。

 一体何事だろう。

 考えるより早く、慌ただしく扉が開かれた。

 青ざめた顔でそこに立っていたのは、いつもは優しい乳母だった。


「……どうしたの? 怖い顔をして」


「姫様、私がお供いたします。参りましょう。お后様はもう逝かれました。さあ、早く」


「……行くって……どこへ?」


 だって、ここから出られないじゃない。

 そう言う前に、彼女は乳母の手に光る物が握られていることに気が付いた。

 とっさに後ずさったその時、階下からガチャガチャという甲冑の音が聞こえてきた。

 乳母はその手に握るナイフを頭上に掲げにじり寄ってくる。

 恐怖のあまり、彼女は窓にすがりつく。

 錆び付いた格子が、彼女の重みに耐えかねて外れる。

 重力に抗うことができずに、彼女の身体は窓の外に放り出される。

 そして……。


      ※


「偶然……木の、枝。引っかかって。でも、その時、左目が……」


 たどたどしいフエナシエラ語に、ホセはあわてて身を起こそうとした。

 けれど、脇腹に走る激痛に小さく悲鳴を上げる。

 その声に気が付いたバルは立ち上がり、苦笑いを浮かべながら意識を取り戻した猛将の顔をのぞき込んだ。


「気がついたのか? 無理すんなよ。すっぱり斬られちまってるんだから」


「……バル? ここは一体……」


「プロイスハイムの城。シシィがザルツワルトまで助けを呼びに来て、その後俺が金髪の兄さんを呼んで、何とか帰ってきた」


 その言葉を受けてホセが寝台の上で視線を巡らせると、バルの後に決まり悪そうにしているシシィの姿があった。

 視線が合うなり、シシィはわずかに頬を赤らめ照れ臭そうに言った。


「ザルツワルトに帰り着いた友人を、助けてくれたそうだな。……借りをかえしただけだ」


 微笑を浮かべつつバルの手を借りようやく半身を起こしたホセは、いつもの穏やかな口調で尋ねる。


「陛下……姉君にはお会いになったのですか?」


 面白くなさそうに一つうなずくと、シシィはぷいとそっぽを向く。

 ホセに目配せしてから、バルはふとそんなシシィに向き直った。


「そうそう、あんたは何か聞きたいことがあるんだって?」


 そう言えば、だんだん遠くなっていく意識下でそんなシシィの叫びを聞いたような気がする。

 わずかに首をかしげるホセに、シシィは低い声で切り出した。


「私達は……楽園の騎士団に身を寄せる者達は、貴様ら貴族から大なり小なりの違いはあるが傷を負わされている。そう言ったのを覚えているか?」


 ホセがうなずくのを確認すると、彼女は一歩踏み出し思いの丈を一気にぶちまけるようにまくし立てた。


「ほとんどの貴族はそれを聞くと、ひたすら許しを請うかむきになって否定するかのどちらかだ。けれど、お前はそのどちらでもなかった。何故? どうして謝罪も否定もしなかった⁉」


 むき出しの感情を正面から受け止めてもなお、ホセは穏やかな表情を崩しはしなかった。

 だが何やら心を決めたらしく、脇に立つバルに告げた。


「すみません。どうやら汗をかいたようで……申し訳ありませんが、着替えをお願いできますか?」


 うなずくと、バルは次の間に姿を消す。

 完全にその姿が見えなくなってから、ホセは静かに切り出した。


「どちらもしなかったのは、私が事実を知っているからです」


 謎掛けのような返答に大きく息をのむシシィに少し笑いかけてから、ホセは身に着けている夜着に手をかける。


「見ての通り、私はフエナシエラ人ではありません。市井に暮らす移民の子孫が、ひょんなことからアラゴン侯の屋敷に上がることになったのですが……」


 言いながら、ホセは夜着を脱ぎ捨てた。

 抜けるような白い肌があらわになる。

 だが、シシィの視線はある一点に釘付けになっていた。

 半ば青ざめながら、ようやくのことでシシィは口を開く。


「お前……その焼印は……」


 ちょうど、左の肩口の辺りだった。

 かなり色は薄くなってはいたが、そこに浮び上っていたのは明らかに『アラゴン侯の私有物』であることを示す焼印だった。

 自らの表情を隠すようにうつむきながらも、絞り出すようにホセは言葉を継いだ。


「裕福な貴族が、縁もゆかりもない子どもを引き取る。……それからどうするか、貴女ならばご存知でしょう? 屋敷に上がったその日、侯爵は何もわからない私に手ずからこの印を押し……激痛で意識を失いかけた私を、無理矢理寝台に……」


 そこで不意に言葉は途切れた。

 突然頭上から舞い降りた夜着を、ホセは振り払う。

 あわてて顔を上げると、そこには無表情に立ち尽くしているバルの姿があった。


「早く着たほうがいいぜ。風邪ひいて熱なんかだしたら大変だからさ……」


     ※


 室内は、先ほどとはうって変わって静まりかえっている。

 シシィの姿は、すでにない。

 黙々と掛布団を直していたバルは、ささやくような声に顔を上げた。


「……え?」


「……汚らわしい、ですか?」


 天蓋を真っ直ぐに見つめたまま、固い声でホセは繰り返した。


「殿下の……パロマ侯の筆頭騎士たる者として、相応しくない……そう思いますか?」


 重い沈黙が流れる。

 だが、いつもと変わらずつまらなそうな表情を浮かべたバルはくちから出たのは、こんな言葉だった。


「……俺は、今のあんたしか知らない。昔のあんたはどうでもいい」


「……バル?」


「難しいこと考えてないで、早く休めよ。アンタが早く治らなきゃ、誰がカルロスを護るんだ?」


 やれやれとでも言うように吐息をもらしてから、バルはホセの顔をのぞき込む。

 それから、水差しの中身を変えてくると告げてから外へと出て行った。

 残された側は、両の手で顔を覆い必死に嗚咽を堪えていた。


      ※


 ちょうど部屋を出たところで、バルは自分を呼ぶ声に振り向いた。

 そこには、カルロスとオルランドが立っている。

 腹心の様態を気にするカルロスに、バルはいつもと変わらぬぶっきらぼうな口調で答えた。


「さっき意識が戻って……今、シシィが帰ったばかりで……もう少し休ませてやったほうがいいと思う」


 その言葉に、カルロスはようやくほっとしたような笑みを浮かべる。

 だが、その傍らに立つオルランドは難しい表情を崩そうとはしない。

 それに気付きいぶかしげな顔をするバルに、オルランドは取り繕うように言う。


「いや……黒豹は良いとして、君の顔色があまりにも悪いからさ。何事かと思って」


 痛いところを突かれて、バルは返答に窮する。

 けれど、視線をそらしつつ重い口を開いた。


「見えない傷を……消えない傷跡を見ちまったから……悪いことをしたなと思って……」


 バルが何を知ったのか、それを察したカルロスの表情がわずかに曇る。

 が、それを意に介することなく、オルランドは少々乱暴にバルの肩を叩いた。


「けど、君ならその痛みを和らげることができる。何だかそんな気がする」


「むずかしいことを一村人に押し付けるなよ。貴族様が聞いて呆れるぜ」


 互いに顔を見合わせ、二人は思わず笑い会う。

 それにつられて、カルロスの顔にも笑みが戻った。


 短いプロイスヴェメの夏は、終わろうとしていた。

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