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第3話 プロイスハイムへ

 周囲にはすでに宵のとばりが降りている。

 神聖王国フエナシエラ最後の嫡流たるカルロスが身体を休めている馬車の傍らで一人焚き火を見ていたバルは、ふと下草の揺れる音を耳にして弓を手にあわてて振り向いた。

 けれど、その顔にはすぐ安堵の表情が浮かぶ。


「どこへ行ってたんだ? ……急に姿が見えなくなるから」


「……すみません……少し……頭を冷やしてきました」


 言いながらホセは、バルに向かい頭を下げる。

 言葉の通り真っ直ぐな黒髪はしっとりと濡れ、毛先からは水滴が滴り落ちている。

 そればかりではなく、甲冑に付いた返り血を洗い流したのか、全身ずぶ濡れの状態だった。


「そんな所に突っ立ってないで、早く火に当たれよ。そのままだと風邪ひくぞ」


 いつもと変わらぬ口調のバルに、再びホセは頭を下げる。

 そして、バルからやや離れた所に申し訳なさそうに腰を下ろした。

 その様子を呆れたように見やっていたバルは、おもむろに口を開いた。


「カルロスは今、中で休んでる。金髪の兄さんは、周囲を見てくるって言い残してどっかへ行った」


 あっけらかんとしたバルの口調に、ホセはわずかに意外そうな表情を浮かべる。


「……バルを殿下のお側に残して、ですか?」


「少しは俺を信用してくれたんじゃないか? あんたが拾ってくれても、文句も言われなかったし」


 言いながら、バルは乱暴に火をかき回す。

 炎の照り返しを受けてか、その頬はわずかに紅い。


「……すまなかった。ありがとう」


「……え?」


「なんでもない」


 バルの手つきが、さらに荒くなる。

 それを見つめながら、ホセは僅かに頭を揺らした。


「いいえ……かえって妙なところを見せてしまって……驚かせてすみませんでした……」


「え……と……」


 バルが何か言いかけた時、それまでうずくまるようにして炎を見つめていたホセが不意に姿勢を正す。

 その視線の先では、いつの間にかカルロスが穏やかな微笑を浮かべていた。


「もう少し休んでろよ。今までの歩き詰めが響いてるんじゃないか?」


 病み上がりなんだから無理するなと言わんばかりのバルに、カルロスは笑って首を横に振った。


「いつまでも怪我人でいるわけにはいかないよ。……一応上に立つ者としてはね」


「そんなもんか?」


「そんなものさ、悲しいことにね」


 そう言いながら、カルロスは火を挟んでバルの正面に腰を下ろす。

 けれど、心なしかそのカルロスはどことなく今までの……バルの知っているその人ではない。

 炎に浮かび上がるその姿を見ながら、ふとバルはそんなことを思っていた。


      ※


 国境から離れたせいだろうか、あれからサヴォの追手に出会うこともなく旅は順調に進んでいる。

 御者台で手綱を操るオルランドの隣で、ふてくされたように辺りの風景を見やるのがバルの日課になっていた。

 日に数度休息を取る以外、カルロスとは顔を合わせることも言葉を交わすこともない。

 馬車を守るように殿しんがりに騎馬で付いているホセに至っては、言うまでもない。

 ここに来てバルは、今更ながら旅の同行者たちが遠い世界の存在であることを思い知らされていた。

 御者台では、延々と沈黙が流れていた。

 出会ってからさほど時間のたっていない両者が、切り出すきっかけをはかりかねているようでもあった。

 だが、先にそれを破ったのは、オルランドの方だった。


「あれが、プロイスハイム城。『氷の女帝』こと、マルガレーテ・フォン・モナートヴェメ陛下が避暑のために逗留される城さ」


 オルランドの指さす方向に、山々の間から白亜の城が見える。

 初めて見る巨大な城壁の迫力に、バルは隣に座るオルランドの視線を気にすることもなくぽかんと口を開けたままただただ見入っていた。


「開門! オルランド・デ・イリージャ、帰還である! 開門されたし‼」


 その声に応じるように、ぎしぎしと音を立てて跳ね橋が堀に降ろされる。

 その動きを食い入るように見入っていたバルに笑いかけてから、オルランドは手綱を振るう。

 内部に馬車が迎えられると、待ち構えていた騎士や兵士達が口々に歓喜の声を上げる。

 馬車から降りるやいなや、カルロスは走り寄る人々にすっかり取り囲まれていた。

 目を丸くして御者台から降り立ったバルの後ろには、いつの間にか馬を引いたホセがいた。


「すごいな……本当にカルロスは、みんなから慕われているんだな……」


「ええ、直線殿下にお使えする者からは……」


 どこか微妙なホセの言葉に、バルは振り返る。

 当のホセの顔には、自嘲と苦笑が入り混じったような複雑な表情が浮かんでいる。


「実は……ラベナの一部高官の間では、パロマ侯配下は名前だけは高貴な自称貴族の寄せ集めと呼ばれているんです」


「な……どうして?」


「私は……筆頭騎士の私からして、アラゴンの名を名乗っていますが、大将軍閣下の実子ではありませんし……」


「時分も見ればわかると思うが、生粋のフエナシエラ人じゃない」


ようやく人波から脱出してきたオルランドが、言葉を継ぐ。

 相変わらずの神出鬼没ぶりに呆れながらも、だがバルはあまりのことに憮然としたように口を閉ざす。

 しかし、いつもと変わらぬ人好きのする笑顔を浮かべたまま、オルランドは実にあっけらかんとした口調で続けた。


「こんな感じで、見た目とか正嫡とか気にしないで引っ張ってくるから、色んなのがそろってるわけさ。血筋だけが自慢のお偉いさんにはわからないみたいだけど」


「……へえ」


 再びバルは、取り囲む人々ひとり一人に笑顔で応じるカルロスを見やった。

 その姿はよく知るあの穏やかさに加えて、人々の上に立ちその命を預かる者が持つ独特の雰囲気さえ感じられる。

 やはりカルロスは、遠い世界の人なのだ。

 その思いを強くした時、オルランドのささやき声が思考を停止させた。


「……女帝の……マルガレーテ陛下のお出ましだ」


 それとほぼ同時にざわめきは次第に水を打ったように静まり、集まっていた人々は自ら道を開ける。

 人々がかしずく中、共の者を数人従えた年若い女性が姿を現した。


「あれが名高き氷の女帝だ。……こっちに来てから何度かお見かけしたが」


 一度言葉をきってから、オルランドは生真面目な表情を作ってバルとホセとを交互に見やった。


「……あの方の笑顔を……微笑みも含めて、まだ一度も見たことがない」

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