いつもであれば市が立っているはずの街が、閑散としている。
彼は唖然として周囲を見回す。
と、人々が街の中央にある聖堂へ集まっていくのが見えた。
慌てて彼もその後を追うと、聖堂の丸屋根には見慣れたフエナシエラの海の色の旗は無かった。
一体何が起きたのだろう。
わけもわからず彼は聖堂を見つめる。
と、厳つい騎士たちが何やら立札を掲げているところだった。
しかし、皆が文字を読めるわけではない。
ざわめく人々を前にして、一際豪奢な甲冑をまとった騎士が、大音声で高札を読み上げた。
「神聖王国国王と称するカルロス及び大将軍アラゴンは、偉大なるサヴォ王ヒューゴ五世陛下によって討ち取られ、諸君らは晴れてサヴォの民となった。しかしカルロスの嫡子は我らに恭順せず、未だ逃亡中である。叛逆者とそれに与する者を見つけた場合は、速やかに……」
ざわめきが、大きくなる。
大変なことになった。
権力に無関係な庶民でも、それくらいのことはわかる。
彼は騎士たちに気付かれないように後ずさると、静かにその場所をあとにした。
自分たちの国が無くなった。
早く村に戻って皆に知らせなくては。
彼は街を飛び出し、村へと向かう山道へ足を向けた。
※
彼の住むアルタ村は、アプル山脈を挟んでサヴォやプロイスヴェメといった隣国との国境に程近い場所にある。
しかし、険しい山に護られて攻められることはまず無い。
恐らくサヴォは、山脈が途切れる南西及び海から王都を急襲したのだろう。
村に帰ったら、まず長老達に知らせ、それからどうするか皆で話し合わななければ。
そんなことを考えながら、彼は山道を走る。
と、その足が急に止まった。
ガサガサと下草が揺れる音がする。
注意深く周囲を見回すと、巨大な黒い塊が動くのが見えた。
その視線の先を追うと、傷を負った二人の騎士の姿があった。
奴は、あの二人を狙っている。
見ず知らずの人とは言え、目の前で殺られるのを見るのは寝覚めが悪い。
彼は咄嗟に背に背負っていた弓を構えると、黒い固まりに狙いを定め叫んだ。
「動くな!」
凛とした声が、澄んだ空気の中に響く。
声に気付いた二人のうち黒髪の騎士がこちらを向き、腰の剣を抜こうとする。
「何者だ? 誰に向かって弓を引いていると……」
「死にたくなかったら黙ってろ!」
彼の鋭い言葉に、黒髪の騎士は図らずも口をつぐんだ。
その背後では、もう一人の騎士が肩で息をしながら不安げに彼の方をみつめている。
そのまましばらく、三人は凍りついたように身動き一つしない。
それからどれ程の時が流れただろうか、二人の騎士の背後で低い唸り声が聞こえた。
黒髪の騎士がそちらに視線を向けると、大きな熊が繁みの中へ消えていくところだった。
黒く大きな塊が完全に視界から消えたのを確認してから彼は弓を下ろし、二人の騎士に近付いた。
「奴はこの森のヌシだ。毎年何人か殺られてる。どうやらあんた達の血の匂いにつられて出てきたみたいだな」
その言葉が終わらぬうちに、黒髪の騎士の背後にいた人物が膝をつく。
「……殿下?」
「大丈夫。少し、驚いただけだ」
彼はしばし二人の来訪者を見比べていたが、おもむろに額に巻いていた布をほどく。
と、その額の古い刀傷があらわになる。
言葉を失う『殿下』のそばに彼はしゃがみこむと、血の滲む二の腕にその布を巻いた。
「……よくこんな状態で歩いてこられたな」
彼の言葉に、殿下は苦笑を浮かべる。
「一刻も早く……行かないと……」
「遅れはいずれ取り戻せるけれど、命は無くなったらそれっきりじゃないか。それに、あんたに着いてくる奴のことも考えてやれよ」
そう言うと、彼は前触れもなく殿下を背負った。
制止しようとする黒髪の騎士に、彼は笑って言った。
「あんたがこの人を背負ったら、誰がこの人のために剣を振るうんだ?」
※
「ところで、なんであんな所に?」
背に揺られながら問う殿下に、やや間をおいてから彼は答えた。
「その質問、そっくりあんた達に返すぜ。……俺は、下の街に立った市に買い出しに出た帰りなんだ。でも、行ってみたらそれどころじゃ無かった」
彼の言葉に、背の上の殿下は僅かに身を硬くする。
それに気付かぬふりをして、彼はさらに続けた。
「うちの村は僻地だから、秋に税金を納める方向が変わるだけだろうけど。偉い奴らはどうだか」
「そこまで知っているのに、私達が何者か聞かないのか?」
突然の殿下の言葉に、彼は思わず笑った。
そして改めてこう言った。
「悪い、自己紹介がまだだった。目下から名乗るのが貴族様ヘの礼儀だったっけ」
後ろから着いてくる黒髪の青年が何か言おうとしたが、彼はまったく気にする様子はない。
あっけらかんとした口調でこう言った。
「俺は、バル。物心つく前からここにいる」
「バル?」
「本当はもっと長いらしいんだけど、面倒くさいから忘れた」
裏表ない彼……バルの言葉に、殿下の顔に笑みが浮かぶ。
そして、さも面白いとでも言うように殿下は名乗った。
「私はカルロス。この騒ぎでサヴォに討たれたカルロス四世の嫡子で、パロマ侯ということになっている」
「殿下……」
呆れたように言う黒髪の青年をかえりみて、カルロスはさらに続ける。
「彼は私の友人の、ホセ・デ・アラゴン。ここに来るまで、ずっと私を助けてくれたんだ」
それを聞いて、バルは短く口笛を吹いた。
「じゃ、カルロスにホセ、俺の小屋はお屋敷とは比べ物にならないくらいちっぽけだけど、我慢してくれないか?」
その言葉が終わると同時に、視界が開けた。
眼下に広がる村の中央広場には、すでにサヴォの国旗が翻っていた。
※
二人の客人に気を使ったのか、バルは人目を避けるように村へ入り、『小屋』と呼んだ自分の家へと駆け込んだ。
カルロスを寝台の上に降ろすと、装備を解いたらどうだと促した。
「ま、俺が信用できないならそのままでも構わないけど」
心の内を読まれ返答に窮するホセとは対象的に、カルロスは穏やかに笑いながら自らの甲冑に手をかけた。
主の様子に、ホセも不承不承武装を解く。
両者とも思いのほか多くの傷を負っているようで、服は所々血が滲んでいた。
バルはしばし無言で二人を見つめていたが、部屋の片隅にある戸棚を指さした。
「そこに服が入ってる。粗末で申し訳ないけど、適当に見繕って着替えてくれて構わない」
そして、ちょっと水を汲んでくる、と言い残すと部屋を後にした。
※
中央広場にある水場には、街で見たあの立札が設置されている。
バルはつまらなそうにそれを見つめていたが、ややあって桶を泉に放り込む。
その時だった。
「無事だったのですか? 帰りが遅かったので心配していたんですよ」
背後から声をかけられて、バルは大きくため息をついてから振り返る。
「……長老、俺はもう子どもじゃないって」
「ですが……」
長老と呼ばれた男性は、やれやれとでも言いたげな顔で立札に視線を向ける。
そして、重い口を開いた。
「明日の正午に村人全員ここに集まれと、サヴォ側のお達しです。くれぐれも……」
「俺達村人は関係ないだろ? 俺は難しい話をされてもわからないし」
「そうとも言えないのです。いらっしゃるのは……」
※
「どうしたんだい? 顔色が優れないじゃないか」
水で満たされた桶を抱えて戻ってきたバルを見るなり、カルロスは不安げに言う。
そんなカルロスに、バルはぽつりとつぶやいた。
「……アプル女侯」
その言葉に、カルロスとホセは思わず顔を見合わせる。
「知ってるのか? ……その人が来るから、明日中央広場に集まれって」
「知ってるも何も……サヴォ王の姉君です。人格者で知られる方で……」
まさか、このようなだまし討ちのようなこの戦に与するとはと言うホセ。
一方のカルロスは、神妙な表情を浮かべバルをみつめている。
「出席しなければ反逆者になるって、長老から釘を刺された。……空っぽの家を家捜しするつもりなのかもしれない」
いい終えて、バルはカルロスとホセの両者に視線を巡らせる。
だが、カルロスの口から出た言葉は、バルが思いもかけないものだった。
「これ以上バルに迷惑をかけるわけにもいかないな。夜明け前に失礼するよ」
「馬鹿な! そんな怪我で動けると思ってるのかよ?」
言ってしまってから、バルは照れたようにそっぽを向く。
何事かと見つめてくる主従に向かい、彼はふてくされたようにつぶやいた。
「……やるだけのことはやる。諦めるのは、その後だ」