いつものように日は暮れた。
村の家々からは、やはりいつものように炊事の煙が立ちのぼり始める。
バルも何事も無かったかのように客人と自分の食事の支度をする。
いや、正確に言えば何事も無かったかのように振る舞うしかなかったのだ。
一介の村人が、本来ならば知ってはならないところへ足を踏み入れてしまった。
いかにバルとはいえ、そんな気まずさが無かったとは言い難い。
そして、いつになく重苦しい空気の中で夕食は終わると、バルは何か言いたげなホセから逃れるように片付けを始める。
言い難い雰囲気の中主従が寝室へ引き取ると、バルは大きく息をついた。
「……神聖王国、か」
ふと、バルはつぶやいた。
今まで意識することも無かった、自分の『故国』。
皮肉なことに初めて身近に感じた今、すでにそれは存在していない。
扉を隔てた向こう側に、その最後の本流が文字通り風前の灯のように存在するのみである。
「……
返事が戻ってこないとわかっている問いかけを、バルは壁に立てかけてある剣に向かって投げかけていた。
※
「……おそらく、侯はもうこの世にはおられないだろうね。残念ながら」
そう言うカルロスの顔には、寂しげな笑みが浮かんでいる。
その言葉は、どこか自らに言い聞かせているようでもあった。
いたたまれなくなって視線を反らしながらも、ホセは反論を試みる。
「まだわかりません。近隣の別の村を当たれば、あるいは……」
「もういいよ。……何となく、わかっていたことだから」
言いながらカルロスは、丁寧に折り畳まれた書状をホセに手渡す。
怪訝な表情を浮かべそれを受け取り、その文字を目で追うホセの表情が次第に熱をおびてくる。
「これは……」
「今日、女侯から届いたんだ。ロドルフォ殿下も、ご自身の運命を何となく理解されていたんだろうね」
書状を読み終えたホセは、元通りそれを几帳面に畳むとカルロスに恭しく手渡した。
苦笑を浮かべながら受け取るカルロスを、ホセはどこか沈痛な面持ちでみつめている。
「どうしたんだい?」
「……今後、如何なさいます?」
カルロスの顔から、笑みが消える。
カルロス四世が遺した遺言は、『真の王ロドルフォ・デ・フエナシエラを探し出し、その旗の元でフエナシエラを再興せよ』というものだ。
だが、『真の王』はおそらくこの世にはいない。
遺言が果たされないと決定した今、それが当面の問題だった。
「……皆を見捨てるわけには、いかない」
そう、同盟関係にある隣国プロイスヴェメには、『フエナシエラの象徴』の帰還を信じて必死の思いで戦火を逃れた多くの同胞がいるはずだ。
カルロスがその目的を果たせなかったからと言ってここに留まれば、彼らの思いを踏みにじることになる。
それだけは、カルロスの性格が許さなかった。
「では……」
「ああ、もう大丈夫」
うなずくカルロスに、迷いはもう無かった。
※
いつもと変わらず日は昇った。
朝露の中、家々からは煙が登り始める。
わずかに冷気を感じるようになった静かな朝、いつものように起き出したバルは、自分が知らないところで起きたことに気付き思わず吐息を漏らし苦笑いを浮かべた。
※
日が高くなるに連れ、木漏れ日が地上に届くようになった。
もうどれくらい歩いただろうか。
鬱蒼と生い茂った木々の中にいると、方向だけでなく時間の感覚も無くなってくるようだった。
「本当によろしかったのですか?」
振り向きざまに尋ねるホセに、カルロスはうなずく。
「これ以上、巻き込むわけにもいかないだろう? 女侯のお陰でこれまではどうにかなっていたけれど、私達と関わったことが知れれば……」
そう、カルロスの言葉に偽りはない。
いつ
そして、彼らを匿ったバルを始めとするアルタ村の人々がどのような仕打を受けるか、想像に難くない。
「こんなことばかり考えているから、私は駄目なのかもしれないね」
つぶやきながら、カルロスは立ち止まる。
木々の間を吹き抜ける穏やかな風が、上気した頬を急速に冷した。
しかし……。
「その割に、肝心なところが抜けてるんじゃないか?」
前触れの無い第三者の声に、二人は身構えた。
だが、木々の中から姿を現した人物を視界に捉え、張り詰めた空気はもとに戻る。
「バル……どうして……?」
咎めるように言うカルロスに向かい、バルは片目をつぶって見せた。
「地図に載ってる道だと、めぼしいのはこれしか無いから。けど……」
これから何日もかけて山道を進むのに、そんな格好じゃ自殺行為だぞ。
そう言いながら、バルは持ち出してきた毛布を二人に向け放り投げた。
「第一、この道だとサヴォの国境すれすれを通ることになる。それより、間道の尾根伝いを行ったほうが近道だと思う」
「ですが、バル……よろしいんですか?」
申し訳無さげに言うホセに、バルは笑う。
「あんた達が目的地に着かなきゃ、悲しむ人がたくさんいる。俺があそこからいなくなっても、誰も気にしない」
簡単なことじゃないかと言いながら、バルは先に立って歩き始める。
フエナシエラの主従は、当惑しながらも思わず笑みを浮かべ合う。
そして、ふと見やったバルの背には、あの剣が申し訳なさそうに顔を覗かせていた。
短い夏は、終わろうとしていた。