イノリのアパートに着くと、部屋の鍵はかかっていなかった。恐る恐るミヤコがドアを開けると、イノリは窓の下で小さくなって座っていた。ミヤコはそんなイノリに歩み寄る。
「イノリ……もう大丈夫だよ。私も『夢見姫』にしてもらったの。だから、きっと助けになれる」
その瞬間、イノリの顔が白くなる。そして壊れたおもちゃのように、「ははは」と笑い始める。
「どうしたの?」
「全部が全部、僕の夢のとおりなんだなぁ」
イノリはぐっと顔をあげ、ミヤコを睨みつける。
「人間は、皆汚くて、ずるい。僕も同じだ。ずるいから、寂しくて、君を『夢見姫』にしてまで閉じ込めた」
イノリの瞳から涙がこぼれていく。美しく透明な液体が、その手の甲に落ちる。そしてその部分から一気に白銀の毛が花のように生え広がっていく。手の爪はのび、より硬くより鋭くなり、不安げな口元からは釣り合いの取れない牙がのぞいていた。
「……オオカミ?」
私はその姿に、思わず言葉をこぼす。新雪の景色を切り取ったような、美しい白銀のオオカミ。それが今のイノリの姿だった。
「僕は、卑怯者だ」
イノリは遠吠えを繰り返す。その響きはやけに物悲しい。
「イノリ、それは」
「僕はここに居てはいけない」
イノリの言葉と共に一陣の風が吹く。ミヤコが思わず目をつぶると、イノリはアパートの窓を突き破った。
一瞬の自由落下の後、キラキラと光るガラスの粉を纏わせて、イノリは紫色の空の中を流星のように駆けていく。その姿はあっという間に見えなくなってしまった。
ミヤコはガラスの散乱した部屋で一人座り込んでいた。キラキラ光るガラスの破片が、ミヤコの心に乱反射する。そして、このままでいいのかい? 逃げ帰ってもいいんじゃない? 『夢見姫』ならそれくらいできるだろう? と自問自答が繰り返される。
しかしハッと考えを止める。ミヤコの憧れた小説や映画の主人公はそんなことをするだろうか。逃げ出してしまうだろうか。いいや、しない。そんなことをしたら、今日はただの最悪な日になってしまう。
ミヤコはガラスの破片を一枚、強く握りこむ。手が切れ、血がにじむ。燃えるように、痛い。
そうだ、このままで良いわけがなかった。
ミヤコは歯が砕けそうなほど、食いしばる。そして、胸いっぱいに空気を吸い込むと、窓から体を乗り出して叫んだ。
「イノリ―――――!」
しかしミヤコの声はあたりのビルに吸い込まれるだけで、返事はどこからもなかった。
でも、それなら探せばいいだけだ。
イノリの夢のとおりなら、『夢見姫』の話のとおりなら、きっと城のてっぺんの牢屋の中にイノリはいる。
「お城を、探さなくちゃ」
ミヤコはローファーをつっかけると、イノリの消えていった方へと駆け出した。
スコーンの焼ける香りのするお菓子屋さん、店先にラムネ瓶が置かれたキャンディショップ、色とりどりのガラス細工の置かれたガラス工房。ミヤコはそれらに目を止めることもなく駆け抜ける。
しかしイノリは見つからない。大きな城も見当たらない。城があったとしても、もしかしたら、ビルより低いのかもしれない。そうするとなおさら見つからないだろう。
くわえて、ミヤコはイノリの世界の広さがわからない。何度も道を間違えては同じ場所に戻ってくることを繰り返す。
土地勘のないこの街では、さらにはイノリの世界の中では、ミヤコだけでイノリを探すのは困難だった。
「お困りですか?」
そんなミヤコの前に現れたのは、あの太ったモモンガと、そのモモンガを乗せたヤギだった。
「ミヤコ嬢ですよね?」
モモンガは答えないミヤコにさらに問いかける。
「……イノリが、いなくなっちゃったの」
その言葉を口にした途端、ミヤコの瞳からほろほろと涙が零れ落ちた。
「あれ、あれ……」
ミヤコはあふれる涙を拭うが、何度拭っても止まらない。嗚咽すらも漏れ出てきて、ミヤコはもう我慢ができず、声を上げて泣き始めた。
「ミヤコ嬢!?」
慌ててモモンガがミヤコの頬に触れようとするが、直前でヤギがモモンガを吹き飛ばす。
ヤギはフリルのついたハンカチでミヤコの涙を必死に拭う。
「泣かないで。さあ、落ち着いて。ゆっくりお話を聞かせてちょうだい」
そう言って、ヤギはミヤコの背中を優しくさする。すると少しずつ、ミヤコの涙で歪んだ視界を取り戻していく。
すると、どうしたことだろう。モモンガは太ったチェックシャツの男に、ヤギはロリータ服に身を包んだ黒髪の女になっていた。
「どうして……」
言いかけてミヤコはふと気づく。動物だった時とは違い、二人からはいら立ちが消え、穏やかな優しさが感じられた。
―人間は、皆汚くて、ずるい―
イノリは人間のことがきっと大好きなんだ。
だから人間の汚くてずるい部分を動物に変えていたのかもしれない。
そして今目の前にいる二人は、まぎれもない人間の姿をしていた。
だとしたら、二人はきっと、力になってくれる。
ミヤコは世界が変貌していったこと、イノリがオオカミになってしまったことや、逃げ去ってしまったこと、をなんとか伝える。つたない言葉だったが、それでも二人は理解してくれたようだ。
「じゃあ、探すのを手伝うよ」
男は軽く言う。
「そうだね。イノリには恩もあるし」
女も軽く答える。二人にとって、ミヤコを助けることはまるでなんでもない、当たり前のことのようだった。
「今の話、信じてくれるの?」
「自分の生きてる世界だもん。信じる信じないもないよ」
そう言うと、女はミヤコに向かって下手なウインクをして見せた。
「……ありがとう。二人のこと、何て呼べばいい?」
すると二人は一瞬戸惑うが、女はにっこりと笑う。
「イチジとヒメカでいいよ」
その言葉をきいて、またもミヤコは涙を流す。ヒメカは泣き止むまで、何度でもゆっくりと背中を撫で続け、イチジはおろおろとその様子を眺めていた。
ようやく落ち着いてきたころには、日が暮れて真っ暗な雲が空を泳いでいた。星も、月もない。これはイノリの夢だから。
「イノリ……それでも私は、希望はあると思うんだ」
そうミヤコがつぶやくと、空にひとかけらの星が輝き始めた。すぐに消えてしまいそうなほど、頼りないが、確かにそこには星があった。
それは確かな『夢見姫』の力だった。