ミヤコが目を覚ますとすでに他の乗客は降りてしまったのか、車内には誰もいなかった。
慌てて電車から降りようとドアの上の電子板を確認する。そこには「終点 中野駅」と繰り返し表示されていた。
ホームは人でごった返しており、さすが都会だとミヤコは圧倒される。人混みの隙間を縫うようにしながら、ミヤコはホームの階段を下りていく。 階段を一段一段下りるたびに、ミヤコの体は軽くなっていき、最後の段を待たずして、浮き上がりそうだった。
そんな気分のまま、乗り越し分を精算するために改札の窓口へとミヤコは駆け寄る。
ミヤコは定期券を駅員に差し出した。駅員はまるまると太った中年男性だ。立派な髭は威厳よりも不潔さを感じさせる。
「すみません、乗り越し分の精算をしたいのですが」
すると駅員は、大げさにため息をついて、ミヤコの定期券を乱暴にとりあげる。そして何かの機械に乗せ、
「六百四十二円」
と吐き捨てるように言った。
ミヤコはその態度に先ほどの軽やかな心に重しを下げられたような気持ちになる。しかし、文句を言うことはない。黙って花柄のがま口財布からちょうどの金額を取り出し、トレーに置いた。
駅員はちらりとトレーの金額を確かめると、無言で定期券をミヤコに突き出す。ミヤコは言おうとしていたお礼の言葉を飲み込み、定期券を手にとって、改札を後にする。
改札を出ると、ミヤコの頬をやわらかな風が撫でた。駅員への怒りはその風にとけてしまったようで、もうどこにもなかった。
まぶしい太陽の光に一瞬目をくらませながらも瞬きを繰り返し、ミヤコは外界を認識していく。
そこは自分の街とは違う、あきらかな都会が広がっていた。いくつもの高いビルに囲まれた、駅のロータリーは地元にはない。
こんな素晴らしい場所なら、きっと学校社会なんかにはない、素敵なものがある。学校社会にある嫌なものが全てちっぽけに感じられるくらいに素敵なものが。それがどんなものかはまだわからないけれど。
どこに行こうかと思いながら、ミヤコはきょろきょろと辺りを見回す。
すると、目の前のサンモールと書かれた商店街の看板が目に留まった。そこは人々が縦横無尽に行きかっている。 ミヤコは商店街という言葉に、ついでにそこから漂うタイヤキの香りにつられながら、ふらふらとサンモールに向かって歩き始めた。
サンモールという名前にふさわしく、各店舗の看板は太陽の形を模しているようだった。カラフルにきらめく店先に目を奪われながら、ミヤコの心臓はドキドキとうるさく音をたてていた。
知らない場所、知らない人、知らない出来事、それらがミヤコを待っている予感がする。手を伸ばせば、すべてを簡単に享受できるだろう。たとえば何がいいだろうか……そうだ、タイヤキを買い食いする、とか。
ミヤコはスクールバックから花柄のがま口財布を取り出して、中身を確認する。チャリチャリと財布の中で小銭が踊る音がした。残念ながらお小遣い前なので残金は心もとない。帰りの電車分も考えると、ここでタイヤキを買うのは無謀だった。
ミヤコはがっくりと肩を落とす。しかしそれも一瞬のことだ。今回がダメならまた来ればいい。たったそれだけのことだった。ミヤコはもういつだってここに来られる。そのための最初の一歩を踏み出したのだから。
そしてミヤコは駅への道を歩き出す。その足取りは来た時よりもしっかりと地を踏みしめた足取りだ。
今日は偉大なる一歩の日。それは人生最上の日。これから、もっともっと楽しいことは積み重なる。だから今日はこれで十分なのだ。
ミヤコは改札の前まで戻って来ると、くるりと踵を返す。そしてサンモールに頭を下げた。やわらかい髪がミヤコの頬をなでる。
「どうぞ、末永くお願いいたします」
そして勢いよく頭をあげると、ミヤコは改札に定期を叩きつける。しかしその瞬間、改札が閉まった。
「あ、そうだった」
ここは定期券の区間外、チャージをしていないミヤコは改札で弾かれたのだった。
ミヤコは自分のミスに赤面しながら、定期券にチャージをしに向かう。
その時、目の前に前髪で顔を覆い隠した青年が立っていた。うっかりぶつかりそうになり、ミヤコは慌てて足を止める。青年も同じく、足を止めていた。
「すみません」
「いえ、こちらこそ」
青年の声は涼やかで染み渡る、美しい声だった。なんだか不思議な雰囲気が漂っている。ミヤコは思わず青年の顔を見つめた。
「あの、何か?」
そう声をかけられて、ミヤコの意識は一瞬で現実に引き戻された。
「いえ、なんでもないです!」
ミヤコは自分の両頬に手を当てて、なぜあんなことをしてしまったのだろうと恥ずかしさに震える。そして、その恥ずかしさを打ち消すように両頬を打ち、首を振った。瞬間、ミヤコの視界はぐらりと歪む。視界だけではない、世界も歪んだ。
タクシードライバーは数十匹のハムスターの塊に、シニアカーを押す老婆は年老いたライオンに、ビジネスバッグを持ったサラリーマンは、痩せこけたシマウマに姿を変えた。
これは一体なんだ。恥ずかしさのせいで幻覚でも見ているのだろうか。しかし、何度瞬きしても、その幻覚は消えない。
異常な光景がミヤコの目の前をただ流れていく。
そんな中で、青年だけは姿を変えていなかった。長い前髪も、不思議な雰囲気も全てそのままだ。
「どうして……」
ミヤコの口からぽろりと疑問がこぼれる。その瞬間、青年の唇がぴくりと動く。
「君にも見えているのかい?」
「もしかして、ハムスターとかのこと……?」
その言葉と同時に、改札からメリメリと何かがきしむ音がする。ミヤコが思わず振り返ると、そこにはもう改札はなかった。あるのは幾重にも絡み合う茨でできた、堅牢な壁だ。
茫然としながら、ミヤコが駅のホームを見上げると、電車はない。代わりに大きなポメラニアンのような生き物が走っているのが見えた。もし改札を突破できたとしても、あれに乗ることができるだろうか。
「何これ」
ミヤコはぽかんと大きな口を開ける。
「ごめん、僕のせいで」
そういうと青年は目を伏せる。長いまつ毛が、その陶器のような白い肌に影を落とした。
「どういう意味?」
ミヤコは口では神妙に言ってみせたが、心はまるで違った。この異常な光景に、好奇心が溢れて止まらない。
「僕の夢は、現実になるんだ……」
青年はそこまで言うと唇を噛みしめる。ミヤコはそんな突拍子もないことを言った青年をまっすぐに見つめる。もう、表面すらも取り繕うことはできなかった。
「素敵。まるで、『夢見姫』みたい!」
ミヤコは目をキラキラと輝かせ体を乗り出す。知らない世界で、知らない人と、知らない出来事に巻き込まれる。これがミヤコの望んだことだった。ミヤコは、今すぐにでも青年の手をつかんで踊りだしたい気分だ。
「君も『夢見姫』を知っているの?」
青年は驚いたようにミヤコを見つめる。ミヤコは強く首を縦に振った。
「もちろん、子供の頃はよく読み聞かせしてもらったから!」
そう言って笑うミヤコに、青年は首を捻る。
「なんで君、そんなに楽しそうなの? 僕の夢なんかに巻き込まれてるんだよ」
「それって最高じゃん。夢だよ、夢! これからきっと、すっごい楽しいことが起こるに決まってる」
青年はあきれたようにため息をつくが、不意に口元に笑みをたたえる。
「君がそういう人で、よかったよ」
それから青年は、サンモールの方を顎で示す。
「あっちにカフェがある。お茶でも飲みながら、ゆっくり説明させてくれ」
青年の歩幅は広く、ミヤコは小走りでないと追いつくことができなかったが、懸命に後をついていった。
――彫刻に姿を変えてしまった王様とお妃様。
お姫様は悲しくて悲しくて、魔法使いに元に戻してくれるように泣きながらお願いしました。
しかし、魔法使いは不満げに鼻を鳴らします。
「お姫様。私はあなたの夢が現実になるようにしただけです。何もかも、あなた次第なのです」
魔法使いはそう言うと、くるりとマントを翻し、怪しいカラスへと姿を変えました。そして飛び立ちながら、しわがれた笑い声のような鳴き声を空に響かせたのです。
お姫様はなんとか元に戻そうと祈りますが、何も起こりませんでした。
いったいどうすれば、この世界は元に戻るのでしょうか。本当に戻すことはできるのでしょうか。
そんな不安を抱えながら、お姫様はじっと王様とお妃様の彫刻を見つめていました。――