――むかしむかし、あるところにお姫様がおりました。
お姫様は大層夢見がちで、いつも王様やお妃様を困らせてばかり。
ある日、そんな噂を聞きつけた魔法使いがお姫様のもとを訪れました。
「どれ、私がお姫様を治してさしあげましょう」
そう言うと、魔法使いはステッキをくるりと回します。たちまちキラキラとした粉のようなものがお姫様を覆いました。
するとあら不思議。木々は綿あめに、地面はビスケット、空に浮かぶ雲は大きな白いオオカミに姿を変えました。
「どうですか? お姫様。これからはあなたの夢は全て現実になるのですよ」
魔法使いは誇らしげに笑います。しかし、お姫様は悲鳴をあげます。なぜなら、王様とお妃様は、白く見事な彫刻に姿を変えてしまっていたのですから。――
そこまで読んで、ミヤコはパタリと本を閉じる。それに合わせて、肩のあたりで切りそろえられた黒髪がさらりと揺れた。
まさか中学の図書室に、母が読み聞かせてくれた『夢見姫』があるなんて思いもしなかった。懐かしさから思わず手に取ってしまったが、やはり中学生には子供だましがすぎる。ミヤコはあくびをしながら、本を棚に戻した。もっと別の本を探そう。
そうして本棚を右から左にながめていた時だった。後ろからミヤコの肩が優しく叩かれる。振り返るとそこにはクラスメイトのミヨがいた。席が前後のため、彼女とはそれなりに仲が良い。
「ねえ、この後チヒロたちと遊びに行くんだけど、ミヤコも行かない?」
その言葉にミヤコは思わず閉口する。
ミヤコは定期券の区間外に出ることができない。それはこの私立の中学に入学した時からの両親との約束だった。少なくとももう一年以上守っている約束だ。
そして、その約束の存在以上に、チヒロたちとは遊びに行きたくない。
「ごめん、私は……」
「来ないよねぇ、ミヤコちゃんは。くだらない約束、守ってるんだもんね」
ミヤコが言い終わるよりも先に、本棚の影から現れたチヒロが言葉を遮った。チヒロはにやにやと勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「そんな約束なんか守ってばっかみたい」
さらにチヒロの後ろから、キョウカが顔を出して言い放つ。しかしミヤコは何も言い返せなかった。
事実、両親との約束はミヤコをクラスから孤立させた原因の一つだ。
クラスメイトが遊びにいくのは大抵が定期券の区間外の大きな街だった。そのため、ミヤコは多くの誘いを断らざるを得なかった。そんな約束でミヤコは自分の楽しみを狭めていたのだ。だから、それが馬鹿みたいと言う主張は間違ってはいないのだ。
それでもミヤコが約束を守り続けたのは、単にいい子だからではない。ただ破り時をうかがっていたのだ。
チヒロたちはわかっていない。定期券の区間外の世界がどれほど魅力的なものなのか。
学校は社会の縮図。そんな風に言われているが、実際は違うのではないかとミヤコは思っている。
どの小説でも映画でも、学校でうまくいかない主人公は、学校の外の世界に出て変わっていった。そして必ず、何か素晴らしいものを手にして帰ってくる。
定期券の区間外の世界には、ミヤコにとっての希望があるのだ。
そんな場所に行くのは特別な日がいいだろう。特別に素晴らしくて、幸せな日にミヤコは新しい世界に一歩踏み出したかったのだ。
そしてその願いは案外すぐに叶うことになる。ミヤコが想像もしなかった形で、だが。
「さ、皆行こう」
チヒロはミヨやキョウカを引き連れて、図書室を後にする。ミヨだけが振り返り、申し訳なさそうに頭を下げた。
ミヤコはそんなミヨを哀れに感じながら、気にしていないと手をあげてみせた。そしてまた、本棚を物色し始める。
なぜだろう、ミヤコの視界は歪んできた。本の背表紙を読むことができない。
ミヤコの頬を熱いものが伝うまで、それほど時間はかからなかった。
その日は最悪だった。
まず、電車の遅延で学校に行くのに一苦労させられた。おまけにそのせいで、大好きな美術の授業には間に合わなかった。
さらにはお昼の時間にお弁当をひっくり返してしまい、そのことで、チヒロからは「どんくさ」と冷たい言葉を吐きかけられた。
午後の体育では、運動靴を隠され、一人だけ革靴で参加することになった。きっと犯人はチヒロだろう。皆が運動靴を履く中、自分だけ革靴なのは、なんだかとっても惨めだった。
そして放課後、運動靴がぐちゃぐちゃに靴箱に戻されているのを見て、ミヤコの中の何かがはじけた。
こんなどうしようもない、最低最悪の日を、定期券の区間外に行くという最高の日に変えてやりたかった。
そんなやりきれない思いを抱えながら、ミヤコは帰りの電車に足を踏み入れる。すると、運よく端の席が空いていたため、そこに座った。
ミヤコは鼻をすすり、涙が零れ落ちそうになるその目を固く閉じる。
泣いてたまるか。今日は最高の日になるんだから。
そうして涙をこらえていると、やわらかい座席と規則的な揺れが少しずつミヤコの眠気を誘う。ミヤコは眠気に抗えない。電車はちょうど鉄橋に差し掛かり、大きな川を越えるところだった。