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「ハール、ハール様――」

 声がする、どこかから。甲高い聞き覚えのある声だ。優しくて、それでいて毅然とした声。大好きだった女性の声。

「ハール様ってば!!」

 突然声が降ってきて、ハールは――コノカは目を開けた。麗らかな陽射し、午後の昼下がりだ。ふんわりと仄かに花の香りが漂い辺りを包み込んでいる。「もう――」

 また逃げ出そうとされましたわね?声が憤然とする。メリンダだ。腰に手を当てカッカしており、言った。「全く!お嬢様を見届ける責務が有ると申しておりましたでしょう!」

 そう言ってから相手ははたと足を止める。瀟洒な緑色のドレス姿に美しいレースのエプロン。「……お嬢様」

 コノカはぼんやりと目を上げた。ここ……どこ?目をしばたいてしまう。何だかどこかの楽園みたいな光景だ。周囲は美しい薔薇の植え込みに囲まれており、蝶が飛んでいる。白いベンチに豊かに積み上げられた織り出しの見事なクッション。「……ここ」

「あの世?」コノカは目を擦った。ていうか、どこ?辺りをキョロキョロしてしまう。甘い匂いに紅茶の香り。「また……」

 いい加減になさいませ。メリンダがはあ、と溜息をつく。コノカは自分の姿を見下ろした。ふんわりとした感覚がして目を丸くする。白いレースに縁どられた可憐なドレス。青地に散らばる金の刺繍。これ……

 特装版に描かれてたアリエスのドレスだわ……コノカはにへらぁ、と笑った。いい夢~~薄笑いを浮かべてしまう。そうよ、あのカバーが一番好きだったのよ……媚びず狙わず流されず、本当は芯の強いアリエスにピッタリな気がして。

「……ボケてるな」声がする。レリオットの声だ。ますわね。メリンダが引き取り同意した。「完全に…」神妙に頷いている。ずっとこうなのか?声は続いた。そうなんですわよ……あれからずっと、ここひと月この調子で…もう…

「コノカ」

 その途端、コノカは目を剥いた。正確にはカッと目を見開いただ。そう、あのカバーにはもう一つ続きが有ったのだ。「黒太子」のハールの盛装姿が。王族復帰をイメージしたんでしょうけれど相変らず黒い衣装が不気味さを拭って凛々しくて、家宝にしようと同じ本を十冊買った覚えが…「あ…」

 コノカは目をしばたいた。ハールが、すぐ傍に立っている。黒い衣装を身に着け立っており、だが胸に光っているのは勲章だ。「ハール…」

 具合は?ハールが訊ねた。「え」それで思い出す。そうだった、あれから半月、彼女は後遺症で大変だったのだから?ハールがコノカの隣に腰掛ける。「………」

 あのとき、ハールは――コノカは思った。記憶の糸を辿る。。瀕死のアリエス(ハール)を追うようにして自ら胸を貫いて。

 でも、それは全て計算づくだった?目を閉じ胸に手を当てる。それはとっさに、今しか無いと思ってしたことだった。呪いのかかった太刀で切られて瀕死になったアリエスを見て思い付いたこと。

 あれを試せばいい。それには、今しかない。

 思い出した。魔女のあの説明を――東の魔女が、アリエスに「方法」を教えていたとき、実はハールも――コノカも聞き耳を立てていた。いいじゃん別に?と。減るわけじゃないし。魔法の手順や詠唱の内容を覚えてやる。まず、『入れ替わる人間が瀕死の状態であること』

『もしくは死を迎える寸前であること』、老婆の言葉を思い出した。魂とは肉体に結びついている――いわば肉体という土壌に根を張った花みたいなものだよ。無理に引き抜けば千切れてしまう。

 だから地盤がゆるんだときに、つまり瀕死の状態にあるときに行わねばならない。コノカは復唱した。しかも「同時に」。だからとっさには奇跡のようなものだった。

 あのときコノカは死ぬつもりでいたのだ。コノカはぼんやり思った。唇を重ね、互いに向けて「魂を相手に流し込む」。白濁した世界で、コノカは確かにハールとすれ違ったような気がした。それは宙で空中ブランコ乗りがすれ違い次の瞬間にはお互いのブランコに乗り移るようなものだけど。

 失敗しても、ハールさえ助かればそれでいい。そう思っていた。魂は覚えている、元居た住処の肉体を。だからハールの方が成功率は高かった。コノカは失敗八割成功二割――

 アリエスは最後に右手に回生呪を紡いでいた。だから、瀕死の体にハールの魂が戻ったとき、その手でタッチすればいい。その瞬間さえ身体が動いてくれれば。そう思っていた。ハールは癒され後は呪いのかかった身体をコノカが引き受けて静かに死ぬだけ。出来れば、最後の瞬間を見届けたかったけど…

 それが、思わぬ結果になったのだ。それはたった一つ、最後の番狂わせ。今度こそ初めて感謝できる「予想外」であったこと――

 ふと頬に手が触れ、コノカは我に返った。ハールがいつの間にかコノカを覗き込んでいる。コノカを――正確には案じているのだ。「……酷い無茶を」ハールが呟きふと目を伏せた。手を取り上げる。「君には何と礼を言えばいいか、コノカ――」

 あれから全ては片付いた。コノカは目を閉じ静かに笑った。リュジャンの首をはね、ハールが王位を取ったのだ。だが、ほどなくして駆けつけたユリジェスを見てハールは言った。最初に言っていたように。「ユリジェス、貴殿に王位を譲る」

 周囲が凝然とする。ハール様!レリオットが叫び、だがハールは気に止めずユリジェスの前に跪いた。

「貴殿の御世に祝福あれ」そう言い兄から奪った王冠を差し出してしまう。そうして去ろうとした。お待ちを、兄上!追いすがるユリジェスに背を向けて。「俺はここを離れる」と。

 元より王位に未練は無い――彼は言った。父の仇を討ちたかった、それだけだ。全てを果たした以上用は無い。

 だがそれをユリジェスが引き止めたのだ。「なりません!そんな、僕こそそんな器じゃない!第一父は望んでおられたじゃないですか!兄上が王位継承されるのを、なら――」

 では僕の補佐を!そう言ったのだ。「お願いです!!」言うなり膝をついてしまう。「父に免じて!!貴方をこの場で執政に任じます!僕の後継として!!」

そうして無理矢理引き止めたのだ。あまりに潔く去ろうとするハールを、今度こそその場の全員で捕まえて。

ハールが思い出し、ほっと息を吐いた。多勢に無勢だ……額を押さえている。よもや君まで裏切るとは?レリオットはしれっとしている。どうやら率先して引き止めた者の一人であるらしく、メリンダが吹き出した。「……でも」

 良かったですわ……そう言い、目を閉じた。コノカの手に触れ心底安堵したような顔をする。「本当に…」涙目になると、強く手を握り締めた。「良かった。もう駄目かと思いましたのよ、本当に」

 コノカは握られた手を見た。左手の手首に青い印がくっきりと浮き出ている。気付かなかったが、刺青みたいなものだ。メリンダが目尻を拭い笑った。

「良家の令嬢は」にっこりした。「回生印を刻まれるのです。生まれてすぐに。跡継ぎに何かあっては困りますから、もしもの為に…」

 酷い手負いや、死に瀕する怪我をしたときなどに発動する魔法を。コノカは腕を見た。何だか腕時計みたいに模様が浮いている。痣みたいに微かに染まっており、これで命を拾ったのだ。コノカは笑った。あのとき、死にかけた体に飛び込んだコノカを助けたのは他でもないこれだった。お陰で見事に死に損ない、そして、

 今度こそ手に入れた。コノカは吹き出した。女性の体を?心臓に手を当てて笑ってしまう。ふわふわの身体、慣れた感覚。やっとあるべき場所に戻れたような?ハールはモゴモゴしている。

 これが本当の『ロイギル』のオチだ。そう思いそっと微笑んだ。ずっと幸せになって欲しい、そう思っていた話の最後。その彼の人生の結末。ハールはこれからここで「執政」になる。祖国のため、ユリジェスを援け、そしていつかはきたるべき日に再びこの国の王として立つのだ。そしてレリオットはハールの護衛となり――ハッピー・エンド。で、アリエスは?

「…執政など」ハールは呟いた。黒太子らしからぬ気弱発言だ。「一人でこなせる自信は無い…せめて」

 そう言いおずおずと目を上げる。酷く躊躇し、随分経ってから、ようやくハールは囁いた。

「せめて、誰かが傍に居てくれれば、どうにかなる気はするが……」

 へ?アリエスはきょとんとした。これから私は国に戻ってお嬢様暮らし――そう考えていたのだ。今度こそ、メリンダと毎日美味しいお茶で会話を愉しむ日々!きっとたまにハールと手紙をやり取りして、少しずつ(そりゃ欲目よ、欲目ですけど)交友を深めていければいいな、って――でも今何て?「え?」

 ハールが黙っている。初めて見る表情。(あ――…)という顔をメリンダがし、肘で小突いた。(全く伝わってませんわよ。そんな遠まわしな言い方なさるから…)

 意を決したようにハールが言う。「君にここに居て欲しい、コノカ」

 そのときコノカは目を見開いた。

 ――やっぱりだ。そう思いにっこりする。『ロイヤルギルティ』はハッピーエンドだった?きっとそうなってくれる、信じていたけれど、思った通りの最高のハッピー・エンド。

 こういうとき、アリエスはどう答える?考えた。いえ私なら――

「喜んで」唇を吊り上げる。それはとびきりの笑顔。ハールがハッとして、そのとき、ようやくコノカは、いやアリエス・ロッドは、心の中でずっと開きっぱなしになっていた本が、パタン、と音を立てて軽やかに閉じられるのを感じた。


                     了

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