時間が止まる瞬間て、いつだったろう――
最後に思ったのはいつだろう?ハールはそんなことを考えていた。いつだっけ?随分前だがあったような気がする。そう、あれは、
事故に遭ったとき。ハールは思い出した。風が吹き抜けて、桜が咲いて、疲れきっていてそれでもご機嫌で、本を提げて帰宅途中に。
鉄材が雪崩れ落ちて下敷きになった――
全てはあそこから始まった。光が触れる、頬に僅かに。それはほんの一瞬のはず。隠し扉が開き――彼等が、兄王たちが気配を感じ振り向くまでの僅か一瞬のこと。だがそれは永遠だった。一瞬が永遠になり永遠が一瞬になったみたいに――
ふわ、と風が巻き起こる。重い岩戸のような隠し扉が開きその扉がたてた風。空気を
視界が開けた。見たこともない景色、空間。玉座の間が現れる。誰かが気配に振り向きあっという空気が走り、
その瞬間何かが飛び出した。風のように。頭が真っ白になり「貴様…ハール!」
刹那、声がした。聞き覚えのある声。それは散々耳にした「誰か」の声だ。自分のものかも分からない、だがその声は空気をこれ以上ないほど鋭く切り裂いた。『オスタリス!!!』
ドッ、と音がした。目の前に白線が弧を描く。えっ、思う間もなくギィン!高い音がして目の前に男の顔が迫った。驚愕、それは他でもない恐怖とも焦燥ともつかない顔だ。ついに来た、そう認識したみたいな。土気色にくすんだ皺だらけの病人のような顔が間近に迫る。
「わああああ!!」悲鳴がした。「顔」の背後から。それで気付いた。斬りかかってきたのは他でもないリュジャンだったと。「ハール…!!」
ガァン!!弾き返される。あまりに鋭い剣打。とっさに後じさり、そのとき気付いた。他でもない自分の身体が勝手に動いたと。アリエスが硬直している。あの一瞬で剣を抜き防いだのだ。風のように。「誰か、誰か…!」
背後で喚いている。オスタリスが、巨大な子供のように。だがそのときハールはもう一つのものに気付いた。入り口で―一玉座の間の大扉で兵が凍りついたように動きを止めている。その先に剣を抜き立ちはだかり、侵入を止めているのは、他でもないレリオット、護国卿だった。
既に数人が床に倒れている。レリオットは、入り口を。ハールの言葉を思い出した。玉座の間を知っているか?地図を叩きながら言っていたことを思い出す。「あそこは入り口が一つしかない――扉二枚で隔たれた、拝謁の折開けられるそこ以外は」
近衛の者が剣を振るって飛び込んでも、せいぜい二人程の広さしかない。ハールはアリエスの姿で笑った。つまりは二対一。君の腕なら防ぐのは造作無かろう?
「どうした、怖気付いたか!」レリオットが笑った。ソマール一の斬撃を持つ男。多勢ならいざ知らず二対一なら負ける筈がない。そして――
アリエスが魔法を紡いでいる。ハールは剣を握りなおし、水平に二人に――蒼白なリュジャンとオスタリスに向けると言った。
「父の
音が消えた。
はっ、と兵士が凍りつく。貴方の言いたいこと――ハールは思った。今なら理解できるような気がする、剣を握りなおし思う。こんな体になって、言いたくないけど不本意でしょう。でも――
ボッ、とアリエスが掌から炎を繰り出した。いつでも当てる準備をしている。最後までやりきってみせるから、「ハール」の代わりを!!
そのときふいにリュジャンが笑った。嘲るような笑い声。低く響くような――禍々しい笑いだ。「――仇、か」そう言った。醜悪そうな顔。欲望と利己心にゆがんだ表情。決して美貌でもなく、だがそれ以上に狡猾さを感じさせる容姿だ。「結構。だがそれでどうする黒太子?」
なに?ハールは顔を顰めた。レリオットがこちらに背を向けている。と、そちらをちらとリュジャンは見ると、
「護国卿か」そう言った。「考えたものだが、この城にどれだけの兵が居る?よもや忘れたわけではあるまいな。兄君に何かあればひと声で、何万の兵がこの場に詰め掛けるぞ」
アリエスが黙る。そう――そうだ。それも承知の上。アルタイルは兵の数が何処よりも多い。だからこそ、長く戦を避けられ、また多くの諸侯たちに譲歩させて平和を保ってきたのだから。
でもそれは承知の上!ハールは思った。薄く笑う。そう――だからこそ、打つ手を全て打ってきたのだから?もうじき反撃の狼煙が上がる。それは他でもない、メリンダが決死の覚悟で仕込んでくれたことだ。たった一人彼女が別行動を取ったには訳があった。それは、誰よりも何よりも重要な役目を一手に引き受けてくれたからで。
わあっと声が上がる。それは広間の外からだ。開いた扉から、怒号のような声が聞こえてくる。だがそれは徐々に大きさを増し、
兵が動揺した。拝謁の間に――玉座の間の前に集まって剣を持ち膠着している兵士たちが目に見えてうろたえる。何だ?リュジャンの顔に僅かに懸念が浮かび、そのとき声がした。『誰か!誰か…!!』
『人魚』だ!!』悲鳴が響いた。途端にわああっと金切り声が上がる。すぐ真下――城の目の前にまで流れている、巨大な水路の方角から。「人魚だ!人魚だ!!全員召集せよ……!!」
悲鳴が上がる。金切り声みたいな叫び声。わああああっ!!その時リュジャンの目に認識が走った。アリエスが笑う。ああ――
ユリジェスちゃん。ハールは思った。気付いてくれたのね、思わず目を閉じそうになる。あのときメリンダが駆け込んでユリジェスに直談判する!と息巻いたとき、アリエスがふと思い付いたことがあって止めたのだ。待ってくれ、ならもし良ければ……
そう言いメリンダの持っていた「離間状」に何かを書き込む。乱心していた元のアリエスを苦にしていたとき、メリンダがお館様に書いて貰い大事に持っていた紹介状。その下に何か書き込む。それは単なる、メリンダのこれまでの経歴のような差し触りのない文面だけれど……
(昔)アリエスは笑った。(まだ子供の時分、遊んでいたことがある)そう言い微笑んだ。(ユリジェスと暗号を使って。父は俺がユリジェスに近付くことすら拒んでいたから…)
障りのない手紙で暗号をやり取りして、待ち合わせたことがあった。あれがまだ覚えていれば、上手くいくだろう。これをユリジェスに見せてくれ――
《水門を開けろ》暗号を指で追い示してみせながらアリエスは笑った。《兵を引き、玉座の間へ。決して剣を交えるな。ハール》
うわああ!声がした。パニックだ。城中にパニックが訪れている。ユリジェスが水門を全開にし水を大量に引き入れたのだ。人魚は水に潜む。耳が良く、全てを知る。頃合いを見て一斉に水から襲い掛かり、
「大変です!!」声がした。兵士が叫んでいる。「人魚が、人魚が……!!ロマーニュの水を伝って城内に……!!」
ごまんと襲い掛かる姿を、ハールは思い浮かべた。リュジャンが奥歯を噛み砕く。そのとき、あ、ああ――声がした。何だか長い夢から覚めたような呻き声だ。ああ、ハール……
我に返る。ずる、と音がして、ハールは目をやった。オスタリスだ。リュジャンの後ろにまだ尻餅をついている。片手を上げ、命乞いするみたいに。その顔は生気が失せている。死に怯える捕虜のように、頭に王冠こそ抱きこそすれ、さながら乞食のような様相だ。「ハール…!」
生きて、いたのか。呻くように言った。うわごとみたいに喋っている。「よ……」しわがれた声でハールを、アリエスを見ると言った。「よもや、殺すまいな?」尋ねる。「兄だぞ、お前の兄を……」
ハールは目を剥いた。いや、うっかり目を見開いてしまった。何を言ってるの?とっさに思考が戻ってしまう。「コノカ」に。さながら弱い老人でも演じるような、狡猾な物言いで、だがそのときリュジャンが背後を振り向いた。「!!」
刹那音がした。出し抜けにリュジャンが剣を突き刺す。それは一瞬のことで、再び音が消えるような空白が来た。いとも簡単に、唐突にリュジャンが背後のオスタリスの胸を貫いたのだ。「……!!」
声がした。子供のような喚き声が。引き裂かれた声にハールはゾッとした。だがその剣を引き抜き再び打ち下ろす。今度は顔目掛けて真っ二つに。
「リュジャン……!」
王冠が転がった。頭から抜け、金属音を立てて。レリオットが振り向き凍りついている。兵士もまた、凍てついたように動きを止めており――「貴様……!」
その瞬間再び時間が動いた。ボッと音がして炎が背後で膨れ上がる。アリエス、いやハールだ。ああああ!!声にならない叫びを上げてハールは飛び掛かった。リュジャン目掛けて。怒っている――それも尋常じゃないほどに!「リュジャン!!」
剣が上がった。炎を弾き返す。構わず魔法を繰り出しアリエスは叫んだ。貴様!貴様最初からその腹積もりだったな!!声を限りに叫んでいる。「傀儡にするつもりで!」
そのとき音がした。ドン!!真上に魔法が弾き上げられる。力で競り負けたのだ。ハールは目を見開いた。いつの間にかオスタリスの姿が変わっている。髪は元の赤毛に、地面に長くなった身体は皮膚が元の色に。老人のような姿にごっそりと束になった白髪が一瞬にして元の若さに戻るみたいに――「
リュジャンが叫んだ。「最初からそのつもりだった!」思い出す。誰よりも残忍だった男。長子であるオスタリスに常に取り入っていたけれど、たまにオスタリスには情があった。確か、自分がいつか王になったあかつきには、辺境伯にハールを置こうとそんな話をしていたことがあって、
…感謝した、兄に。ハールはそう呟いていた。それは本来有った筋書きの中で。焚き火を挟んでレリオットと話していたとき彼が零したこと。俺に野心があったと誤解したのか……ハールは嘆いたのだ。(俺は、ただ、静かに暮らせれば良かったのに……)
弟に剣を向けるには偲びない。オスタリスはそう言っていた。あれに謀反の心さえなければ、私の目に付かぬ所に打ちやれば…
リュジャンが笑う。勝ち誇ったように。「そうだ!」ようやく本音を吐露することが出来晴れ晴れとしたように。「初めから用はない…!!この、半端な小物には?時が満ちるまでの繋ぎに過ぎなかったのだから!」
そしてハール、こちらに剣を向け叫んだ。「よくやったな!」あざ笑う。「川の主まで引き入れるとは!お前が敵で残念だ!!」
だがお前を殺せば全て終わる――そう言い笑った。「兄を殺したのはお前、私はその仇を討ったに過ぎんのだから!あれと同じ城壁に吊るしてやろう、烏に喰わせてやる、骨が千切れて朽ちるまでな、忌み子のハール黒太子!!」
言うなりリュジャンが剣を振り上げた。急に向きを変えアリエスに向かってまっしぐらに剣を掲げる。詠唱、ハールは思った。気付かなかった、知らぬ間に片手で魔法を紡いでいたのだ。リュジャンは剣だけでなく魔法の腕も立つ――思い出したが最後、時が止まった。黒々とした煙のような靄を帯びた刃。一太刀で殺せるよう仕組んだのだ。『アリエス!!』
その瞬間、何かが視界をよぎった。緑色、いや赤。色彩感覚の狂った世界の中でハールは視界がゆがむのを感じた。防ごうとしてアリエスが盾の魔法を紡ぎ――それがあっけなく競り負けた。ガラスみたいに簡単に打ち砕かれ剣が袈裟掛けに振り下ろされる。
ハール――手を伸ばした。何かが散る。赤いものと黒い帯。声がして、喚き声のような音が反響し、消えた。ハール様……!!
ドッ、と音がした。アリエスが吹き飛ばされる。地面に人形のようにバウンドして。ハールは叫んだ。ハール……!!
声がした。笑い声だ。黒い帯が彼女の傷口から――切られた場所から煙のように上がり消える。やられた、思った瞬間血が冷えきり力が抜けた。リュジャンが笑っている。ひたすら、勝ち誇ったように哄笑しており、
(ハール…!!)
よろめくように彼女に寄る。そのとき気付いた。アリエスの右手が薄く光っている。回生呪、最後の最後に魔法を紡いだのだ。助かろうと。だが呪いが血の中を駆け巡っている。助からない、そう気付いたそのとき、
ふいに何かが繋がった。ふつりと頭の中で糸が繋がるみたいに。
剣を取る。リュジャンが気付き、もう一度同じことをしようとしたそのとき、ハールは出し抜けに、剣を逆手にすると自分の方に差し向けた。
「おい!!!」
声がした。レリオットの声。だが、次の瞬間、何の躊躇いもなくハールは――コノカは、自分の胸を剣で貫いた。あっと悲鳴が上がる。それは他でもない、レリオットの――見ていた兵士たちの声。ハール様……!!
視界が白くなる。ああ、ハールは――コノカは思った。死ぬって、こんな感じだったっけ?剣を取り落とす。そう、経験ある。凄い痛みと、苦しみ。この後ふつっと白くなって、
手を伸ばす。最後の魔法。たった一つここぞという時に練習してきたこと。アリエスの魂が離れかけているのが分かる。だが――
身を屈め、頬を捉えるとアリエスに唇を重ねた。最後の手向けみたいに。だがそのとき、数瞬遅れてふつりと意識が途絶え、痛みが消えた。火が点いたみたいな痛みが心臓から消え失せる。
「……ハール、様…?」
カラン、と音がした。遠くで誰かが呻くように言う。水を打ったような静寂が訪れ、そのとき、
ふっと手から何かが離れた。それは、いつの間にか、アリエスが必死で掴んでいた
声がした。遠くで悲鳴のような声が。それは動揺、そして歓声。ああ!声が張り上がり、
「リュジャン!!」
キィン!!音が響き渡った。高い金属音、さっきよりもずっと澄んだ鋭い音。誰かが打ち合っている。無茶苦茶に。喚き声がしてコノカは目を開けた。口角泡を含むみたいな声。獣みたいに喚き散らしリュジャンが叫んでいる。「うわあ、ああ!!」
ガァン!!音がした。剣が跳ね上がる。無茶苦茶に弧を描いて。コノカはそれをぼんやりと見ていた。打ち合っている――二人が。ハールとリュジャン。だが息もつかさぬ戦いの中確かにリュジャンが押されており、
ドッ、地面に剣が突き立った。装飾の見事な王家の剣だ。他でもないリュジャンのもの。そして、
今度こそ悲鳴が上がった。断末魔みたいな喚き声。ぼんやりとした世界の中誰かが座り込んでいる。さっきのオスタリスみたいに、リュジャンが尻をつきわななきながら後じさっており、その首に白刃が突きつけられていた。
ハール……
夢?コノカは思った。白濁しかけた世界の中、目で追う。ハール、ハール黒太子。剣を握り彼が立っている。今までのことが全て夢みたいな。肩に傷を負い泡まで吹きかけているリュジャンを前に静かに立っており、
「……兄上」囁いた。「いや、執政リュジャン。父、エルメンガルド及び兄オスタリスの仇」
目を上げる。見届けなければ、思ったそのときハールが言った。
「覚悟召されよ」
ザン、音がした。首が飛ぶ。せめてもの情けのように一太刀で済み――そのときふいに、意識が離れ世界が暗転した。