地下通路は五キロ近くにも及んでいた。迷路のように地の底を這っている。「お――」ゼエゼエ言いながらハールは騒いだ。「おかしいでしょ!何でこんなぐるぐる回る道を作る必要性があったの――」
馬鹿か、お前は。レリオットが相変らず冷淡に吐き捨てる。この後のことを考えて気が立っているのだ。「地面が簡単に掘れると思うか…この辺りは地盤が堅いんだ。石や岩がごまんとある」
「魔法で崩せばいいじゃない!」ハールは喚いた。地下なので人の耳もない、故に言いたい放題だ。「こんなんじゃ着くまでにバテちゃうわよ!!もう――」
そのとき、先頭を歩いていたアリエスがサッと腕を上げた。兵士に指示するみたいに二人を制する。「静かに」
「………」
そのときハールは、気が付いた。すぐ先にこれまでとは違った様子の壁が見えている。それは文字通り「壁」と呼ぶに相応しいもの――人の手で詰み上げられた強固な城の外壁だ。「これ……!」
「エステルシュタインの足元だ」アリエスは見上げ、笑った。長いトンネル状のごつごつした道の先は、少し広くなっている。ゴールのように城の壁が見えており、風が吹いている。どこからか空気が――
「あ」
積み上げられた「外壁」の石の一つが、ぽかんと開いている。ようはここは城の足元、地面に埋まった土台部分なのだ。「あそこ、アリエス…」
抜け道だ。ハールは指さした。大人一人が屈んで通り抜けできるほどの穴がぽっかり開いている。寄って行くと、アリエスが再び人指し指を唇の前に立てた。「ここから先は『城』の内部だ。極力静かに…」
途端にハールは緊張して唾をごくんと飲み込んだ。いよいよだ?背中に冷たい汗が浮く。ここから先は、真の勝負所。まだ読んでもいない『ロイギル』の真骨頂――ハールが兄王と対峙する瞬間。恐らく剣でやりあって――そして最後を向かえるのだろう。どんな形になるかは分からないけど。全ては『未知』だけど。
「………」ハールは後じさった。何だか、ここを潜ってしまえば後戻りは利かない――そんな気がする。父を殺されたハール。弟を幽閉され、そして自らも追われる身になって。そんな全てが一挙に肩にのしかかってくる。無茶苦茶にされた国に、怯える民たち。そして他でもない、多分前世の「コノカ」にとって一番大事だった人、ハール自身の人生の全てが――
ポンと肩を叩かれる。途端にハールは我に返った。
「気負うな。コノカ」アリエスはそう言い笑った。「君が怖気付く必要はない――手筈通りに、君は最後に俺の代わりに名乗りを上げてくれればいいさ」
名乗りって。ハールはモゴモゴした。頭の中で復習する。昨日、村を出発する間際になって急遽話し合った事を思い出す。確かハールは生憎ながら戦力には数えられていない。ついでに役に立つとも思われてない。まあ、そりゃその方が有り難いけど……
(いいか、コノカ)アリエスは――ハールはわざわざ彼女を本名で呼ぶと切り出した。(君は率直に言って戦闘には不向きだ。いや、向いてないことはないんだが……)
女性だから。そう言いレリオットを見る。レリオットはいかにも不服そうで、何とも物言いだけだ。だがそれを視線と空気で制するとアリエスは続けた。(そこで、明日城に潜入して玉座の間に向かったら――援護に回ってもらう。俺がやり合おう。兄……新王オスタリスと執政リュジャンに)
そんな!コノカは慌てたものだった。仮にも二人なのよ?そんな、多勢に無勢で――
(平気だ)アリエスは首を竦めただけだった。(元より俺の始めたこと……君はここまで付いて来る必要は無かった。この身体で、止む無く同行させられただけのことだ。元来ならば俺一人の戦いだった)
そんなことって!コノカは思わず言った。すかさずレリオットも口を出す。そうですよ!主君の戦は従者の戦――俺にも同等の責任が!
(それは有り難いが)ハールは――アリエスは失笑するように笑った。(すまないが、こればかりは例え不利でも自分でケリを付けたい。父を殺し民に曝した、その
次期統首のつとめだ。どのような姿でもな。
メリンダを使いに寄越してある。ハールはそう言うとコノカを見た。(君は俺が兄たちを倒した後――体裁だけでいい。とどめを刺したふりをして欲しい。その後すぐに弟の軍が来る。ユリジェスだ。あれが来る間をもって俺は王位を降りる。君のすることは、頼んだ通りに弟に王位を譲り玉座の間を後にすること)
王に興味はない。ハールはそう言い苦笑した。父には悪いが俺はそんな器ではなかった。流れ者のハール、忌み子の黒太子、それで充分だ。
そのとき、肩を叩かれてコノカは思い出から覚めた。行くぞ、ハールが――アリエスが例の抜け道を潜ろうとしている。「ここから先が、勝負だ。頼んだぞ、コノカ、レリオット」
承知しました。レリオットが頷いた。コクン、と小さくコノカも――ハールも頷く。狭い入り口を潜り、中に入ったハールは気が付いた。ああ――思わず不本意にも感動してしまう。凄い、これこそが先人の脅威だ?
一見ただの石に見える壁の裏側にも、こまかく網羅されている抜け道。それはまるで、並行して潜む二つの世界のように。分厚い壁に阻まれて表の世界と裏の世界が共存している。この壁の向こうはきっと、いや恐らく、城内で繰り広げられる生活が――
明かりを絞りアリエスが上を向く。目の前に長い、長い階段が続いており、
「玉座の間はこの先だ」
レリオットが頷く。行くぞ、と囁きアリエスが足を踏み出した。
同じ頃――
城下では、ちょっとした騒ぎが起きていた。城下町に見られる水道橋の袂、遥かロマーニュから運ばれてきた水が最初に溜められる水路の付近で、小さな騒ぎが起きたのだ。見回りに来ていた王家の視察に女が寄って行ったからで――「何だ貴様!一体――」
今、彼女は後ろ手にされている。誰もが畏怖し遠ざける王族の集団、その群れに使用人姿の女が一人突っ込んだのだ。「もし、そこの方!」水路を覗き込んでいた兵たちがギョッとする。「エステルシュタイン殿!!」
少し前なら、こんな喧騒も稀にあってのことだった。兵たちは、誰もがそう思った。職にあぶれた女や職人が高位の者に情けを求めるのだ。だがこのご時世にしかも王族の行列に飛び込んでくるのは――思わず誰もが凍りつく。率直に言って自殺行為でしかない。「何者だ!」怒鳴られ女は怯まず叫んだ。「ユリジェス大公にお目通しを!!」
これで男や老人なら、遠慮なく斬り伏せられていたことだろう――最初に彼女を捕まえた兵士は、そう思った。だが仮にも相手は女、しかも若輩。解かれてはいるが封印付きの書簡を持っている。隣国の名士のしたためた書簡を持っており、身なりも悪くない――兵士は怒鳴った。訳ありだ、だがどこかで引いて貰わねば。「止せ!」
大公殿はここには居られん!別の男が引き取った。「お前如き下賎の者に会える御方ではないわ!」別の者がねめつける。蹴飛ばされ、彼女は地面に転がった。何てざまだ、誰もの顔にそう書かれている。女をこんな目に遭わせるとは?だが――
「…何の騒ぎです?」
そのとき、声が聞こえた。水路に降りて自ら見回っていた大公が――ユリジェス自身が騒ぎを聞きつけ顔を覗かせたのだ。いけません!誰かが制しており、だがそのとき女が叫んだ。「大公殿!」
その瞬間、女は兵士の腕から離れた。いや、抜群のタイミングで兵士が力を緩めたのだ。計らって。誰もがこの場で、咎められないためにはこれしかない――皆そんな顔をしている。暴君で知られる新たな王政で、唯一感情の残る集団、それがユリジェス率いる視察団だった。女が倒れるようにして地面に座り込む。
「……大丈夫ですか?」相手はそう訊いた。豪奢な衣服が見るからに濡れている。淀んだ水の貯まった水路で安全を確認していたのだ。せめてもの民たちの手向けのために――これから引かれるロマーニュの水が、せめて城下の人たちの障りにならないように。人魚たちが都市門の内側に入ってこられないよう確認していたのである。「あなたは……?」
女は顔を上げると、次の瞬間パッと伏せた。恐れたのだ。だが、震えながらも声を上げる。「わ、わたくしは」再び顔を撥ね上げると叫んだ。「わたくしはソマールの下女、マクスェル邸で長らくお仕えしておりました!アリエス・ロッド・マクスェルの侍女に御座います、大公殿――」
途端に相手は――いや周囲の兵たちが、揃って同じ顔をした。アリエス?あの?すかさず不穏な空気が駆け抜ける。無理もない。その「令嬢」は他でもないこの国のお尋ね者、今一番の危険人物のハールと共に逃走したのだから。「……!」
――続けて。ユリジェスは頷くと膝をついた。下官に対してあるまじき腰の低さだ。だが、これこそがユリジェス大公。メリンダは思った。ハールが――お嬢様の姿をした黒太子がそう言っていたっけ。案ずるな、と。あの子は優しい。どの王家より礼節を弁えた子だよ――
「お、お嬢様が姿を消して以後」メリンダは歯噛みした。恐怖と罪悪感からだ。「わたくしは職を追われました……お尋ね者に浚われて、命あるかも分らぬ身。娘を連れ戻さねばお前の命は無いと。罰としてこの国に托鉢として向けられましたが、そこでも門を閉ざされ……」
あんたのせいよ、そんな空気を出さねばならない自分に嫌気がさす。何の関係もないユリジェスに、あんたの兄が私にそうさせたのよ!と矛先を向けるのだ。だがメリンダは
ユリジェスが、黙ってその書簡を取り上げる。暫くそれに目を通していたユリジェスは、そのときはっと目を上げた。
それは、一瞬だった。メリンダは感じた。何気なく流し見た書簡に僅かな光を見たような。それを見ていたユリジェスはくしゃ、と書簡を握り締めた。息を殺し動きを待つ。「それは――」
「それは、申し訳ないことをした……」黙ってユリジェスは頭を下げた。メリンダはぎょっとした。下賎の者に?王族が頭を垂れる?だがユリジェスはメリンダの肩を掴むとこう続けた。「貴女の不遇と兄の謀反に心より謝罪をします。メリンダ」
そう言い肩を叩いた。立ちなさい、のサインだ。兵士が寄ってきており、ユリジェスは首を巡らせた。「誰か、この者に新しい衣服と靴、風呂を」命じる。「僕の馬車にお越し下さい。祖先の霊に誓って僕は貴女に償いをせねば」
「……」メリンダはあんぐりした。どういうこと?戸惑ってしまう。通じたの?通じなかったの?だが、そのときユリジェスは兵士の方を向くと言った。
「水路を早急に」声高に声を張り上げる。「復帰して下さい。水道橋の水門を全開に!!」
その声にメリンダは目を見開いた。兵士があんぐりする。し、しかし――何人かが戸惑っており、「す、水路はまだ安全の確認が……」
「問題ない」ユリジェスは言い切った。「兄の命です。先ずは一刻も早く、この城下に水を行き渡らせねば?」
そう言い馬車に足を向けてしまう。その背を見て、後に続きながらメリンダは思った。
ああ――
祈りそうになる。ああ!メリンダは密かに涙を飲んで思った。
地面を見る。今やどこに居るかも分からない、「彼等」を案じながらメリンダは目を閉じ思った。
(上手く行きましたよ、ハール様…!)
その頃――
ハールたちは、城の隠し階段を登っていた。息が上がる、死にそうだ。だが休むことも許されない、そんなふうに。
アリエスは風のように上がっていく。長い階段を壁伝いに走るようにして。狭い通路で、両脇から壁が迫ってくるような錯覚に迫られる。急に狭くなったり、かと思えば広くなったり――本当に隠し通路だ。「ま、待って…」
だが、それよりも妙な予感がしてハールは立ち止まった。何だか変だ。妙な感じがする?それは、今、目の前を走っていくアリエスが――ハールがどこかうんと遠くに行ってしまうんじゃないかというような感覚だ。そんなはずないわよね?必死に追いつきながらコノカは思った。何処にも行かないわよね?ハール。
やっと、やっと願いが叶ったと思ったのに。コノカは思った。到底叶わない願いだったけど、こんな形でも、叶ったのに?
大好きで憧れて、ずっとずっと夢見てきたハールに関わることが出来たのに――
そのときアリエスが足を止めた。地図を手に階段の途中で立ち止まる。
「………」
ぎくん、とハールは背を強張らせた。レリオットが腰の剣に手を這わす。ああ、いよいよだ……ハールは察した。玉座の間は――この階段を登りきったところ。王たちが背を向ける背後の壁に続いている。
孤独な国王。ハールは思った。残虐で狡猾で、そして誰よりも怖れている兄王。護衛すら身近に置かず、ただ闇の中玉座に腰掛け身を守っている。それはまるで、闇を怖れて親の袖にしがみついている子供のような。いや実際にそうかもしれない。自ら殺して城壁に吊るした父の亡霊に、いつまでも泣きながらしがみ付いているのかも――
「……手筈通りに」アリエスが囁いた。レリオット、君には背を預ける。頼んだぞ。
御意。レリオットが頷いた。そしてコノカ。君には――
最後の仕上げを頼む。そう言い笑った。「
黒太子ハールに最後になりきれなんて、そんなこと荷が重すぎるけれど。
階段を上がりきる。この先だ。そのとき、アリエスがそっと手を伸ばし、初めて祈るように壁に手を触れた。