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 暗い廻廊に、なお一層の翳りを見せる濃い影が幾重にも重なっている。

 アルタイルの牙城――先王エルメンガルドが築き上げたこの城は、街の中枢、切り立った山の頂にあった。城下の全てを足元に敷く城。昔は美しく、明るくも見えた城。だが――

(たった数週間で、このようなことになってしまうとは……)「彼」はそろそろと、足音を殺して歩きながら思った。何もかも、あの日からだ。新たな国王が――兄たちが、父を殺して名乗りを上げたあの日から。投獄されてから数日で、こんなことになってしまうなんて――

 玉座の間の大扉が開いている。兵に連れられて、覗き込んだ彼は途端に言葉を失った。暗い玉座の間に男が一人座っている。まるで魔物のような禍々しい空気を纏っており、

「……兄上」呟いた。慌てて言い直す。「い、いえ、オスタリス国王陛下……」

 玉座の横に、もう一人男が立っている。元第二王子リュジャン――今は次期統首リュジャン殿下だ。おずおずと、「彼」は近付いた。久々に会った兄たちを見て言葉を無くしてしまう。

「……ユリジェス」と、兄は言った。オスタリスだ。「久しいな」篭ったような、何やらまるで病人のような話し方でそう言うと、目を上げた。少し前まで活力に溢れていた目だ。いっそ傲慢で、畏れを知らぬ無粋さすら感じた瞳。獅子の如き赤髪は丁寧に結い上げられている。国王然とした衣装に、確かな王冠。だが――

 まるで罪人みたいだ?ユリジェスは、密かにそれを見て、そう思った。暗く地下深い闇しかない監獄に捕らわれた囚人のような目。事実そうかもしれない。風の噂で漏れ聞いた。国民に、乱心したと囁かれ、事実父をあやめ城壁に吊るした男。これほどの劣等感と憎悪が、彼の心に潜んでいたなんて――

「……怪物でも見るような目だな」兄は言った。途端に身を竦めてしまう。「!」ユリジェスは硬直した。だが、相手はじっとこちらを見ると薄い笑みを浮かべて声なく笑う。「私は変わったか、どうだ」

「………」ユリジェスは小さく頷いた。嘘の吐けない性格――昔からそう言われてきたのだから。淡く桃色がかった銀糸の髪に、紫の瞳。傍から見れば変わった容貌の彼を、もう一人の兄は――とても褒めてくれていた。「美しいな」と。お前の心が映ったようだ――

「……お痩せに、なられました」ユリジェスは呟いた。本当は変わったなんてものではないけれど、黙って目を伏せてしまう。おいたわしい――そう思った。こうまで変わるだなんて?父が殺されてすぐ、幽閉されてしまっていたけれど……

「相変わらず嘘が吐けんな。お前は」兄王――オスタリスは笑った。その目も淀んでしまっている。手を差し伸べ、手招いた。その手もまるで老人みたいだ。一体どうしてこんなことに?怯えながら、戸惑いながらユリジェスは近付いた。「兄上……」

 傍らでリュジャンが腰の剣に手を添えている。何かあれば、すぐにでも斬り臥せるつもりだ。ユリジェスは玉座の前に跪いた。こんなに冷たかったか?床の冷たさに絶望する。父が生きていたときは、もっと、温かかった。何もかもが違う。ここは自分の知っていた場所じゃない――

「…アルタイルの橋が、決壊した」出し抜けに、兄はそう言った。え?思わず顔を上げてしまう。「何百年と使われていない水道橋だ……城に水を運ぶ。どう思う?」

 なん、だって?ユリジェスは戸惑った。水道橋って――あの、遥か彼方ロマーニュから水を引いている?ユリジェスはまごついた。「どうって……」

 そのときリュジャンが靴を鳴らした。重い軍用の鉄芯の入った革靴だ。はっとして息を飲む。そうだった、リュジャンは昔からひときわ短気で冷酷だったのだ。とっさに小さくなったユリジェスを見てオスタリスが言う。「止さんか、弟だぞ」

「しかし……」

 魯鈍ろどんな者は好まない、いつもそう言っていたっけ。ユリジェスは怯えながら目を上げた。リュジャンの目元に濃い影が下りている。怒っているとき、苛ついているとき見えるサインだ。「……僕には分かりませんが」

 良い、のではないでしょうか……ユリジェスは呟いた。微かにリュジャンが目を見開いたのが分かる。怒っているのだ。そうだった、彼は誰よりも残忍だった。そして一度激せば誰も手の付けられない人だった――父の遺体を曝したのも彼なのだから。「だ、だって」

「……魔法で水を、生んでいるのでしょう?」ユリジェスは慎重に、言葉を選びながら囁いた。オスタリスはじっと聞いている。「以前……聞いたことがあります。アルタイルに、水をもたらすのに、年間どれだけの祭司を抱えねばならないと。六百リノ……でしたっけ…」

 ああ、喋りながらユリジェスは思った。神様、父上ごめんなさい。目を閉じそうになる。こんなこと、自分の口から出るなんて?兄様が聞いたらどんなに悲しむか?「でしたらこのまま古い水路を使えば……」

 その瞬間、リュジャンが今度こそ足を踏み鳴らした。それは牽制、まごうかたき威嚇だ。「何だと!」叫んだ。「恥を知れ!!貴様、あの水道橋が閉ざされたのは何のためか知っているのか!」

 途端にユリジェスは震え上がった。知っている、知っているとも?だって、それは民たちのためだったのだから。たまにあの水道橋を伝って渡ってくる人魚たち――流れ者の、あれらが水を汲みに来た人間を襲うから。だから封鎖されたのだ。それを金の為にこれ幸いと使えばいいだなんて……!だが、

 オスタリスが笑った。ふいに、思い出したように。それは紛れもない悪の化身。暗い暗い闇の底から、久方ぶりに這い出してきた怪物の見せる笑みだ。生きる希望も人間らしい情も無くしてしまって、ただ絶望にひたすら身を焦がした者しか上げることの出来ない笑い。「……その通りだ、リュジャン。だが――」

「お前は賢い…」そう言った。言いながらユリジェスの頬を撫でる。「父に気に入られただけあるな。ユリジェス」

 その瞬間、そう言った目に激しい憎悪の色が浮かんだ。それはまるで、全ての物を燃やし尽くしてしまうみたいに?凍りついたユリジェスをただ見下ろす。もう駄目だ――彼は思った。ここに呼ばれたのは、その為だったんだ。僕に罪を着せて大儀のもと処刑したと。民衆を売った反逆者として。彼等の信用回復に僕を使おうと――

 だがオスタリスは手を離し言った。「――お前を牢から出す」目を上げる。「お前は民に近い…視察に回れ。城下に我らの目として」

 ユリジェスは途端に目を剥いた。

「水道橋のことはお前の判断」オスタリスは続けた。「牢から出たお前が勝手に進言したことだ。我々の代わりに、名誉を回復しろ。エステルシュタインの血は冷血でないと」

 言うなり両脇から兵に立たされる。捕虜みたいに。

「見ているぞ、ユリジェス大公」

 そう言い手で追いやられてしまう。途端に今度こそ、ユリジェスは言葉を失った。

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