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 それから数時間後、ハールたちは外の世界を前に立っていた。

 巨大な石橋の橋脚の根元、そこにぼこんと穴が開いている。外から見ると熊の巣穴みたいな格好をしており、大人が屈んでようやく潜り抜けられるほどの大きさだ。周りには木が生い茂っている。その近くに確かに、枝のむしられたマルメロが一本傾いて立っていた。

 真上に有るのは巨大な橋だ。ハールは顔を上げあんぐりした。石造りの階段が伸び、真上に高速道路みたいに伸びた橋を支えている。アルタイル水道橋――ハールはあんぐりした。本の中にちらっと出てきたけど、こんなのなんて……

 水の音が聞こえている。見ていると、階段からアリエスが降りてきた。身軽にトントンと降りてくる。メリンダが怯えており後ろからへっぴり腰で続いていた。「お待ち下さい!お嬢様、お気を付けて…!」

 水道橋はアルタイルの古代の遺物だ。ハールは思い出した。確か、何代か前まで実用されていた。王都まで豊かな水を運ぶための代物だ。流れはさっきのロマーニュまで続いており、その昔はこれを使って交易もしていたと――今は生憎と岩を積んで封鎖しているが……

「何で?」ハールは訊いた。クザーヌスが低い段差に腰掛けている。「何だって閉鎖しちゃったの?便利なのに――」

「全ての王の御世が、賢明だとは限りませぬ」クザーヌスは、改まったように目を伏せそう言った。「先の王は川の主――人魚たちとも同盟を築いておられた。だが、人によってはあれを嫌悪し恐れる者も居る」

 あれとはつまり、人魚のことだ。ハールは思い出した。ウツボみたいな獰猛な歯並び。確かに、パッと見には恐れる人も居るでしょうけど――

「水道橋を下って、人魚が来ることを恐れたのでしょう」クザーヌスは橋を見上げた。「二代前の――ハール殿のお爺様に当たる方が、橋を封鎖されてから、アルタイルは水が乏しいことで有名なのです。日照りの時は度々民の声が」

 だがそれをねじ伏せてしまう力くらいはあるということだ。ハールは顎に手を当て考えた。アリエスが黙っている。懸念ではあるが、どうしようもない――というように。ハールは唸った。何でなのよ?

 この、。ハールはアリエスの横顔を見て思った。前に『東の賢者』のもとで誓ったことを思い出す。今更だが――やはり納得がいかない。あのときハールは――いやアリエスは、魔女に叡智を求める代わりに、あるものを対価に差し出したのだ。それは、率直に言ってとんでもないもの。というか『ロイギル』のファンとしては絶対避けたいものなのだが……

(もう一度、入れ替わる方法がある。せめてハールは自分の体に、私は女の体に戻れる方法が。相当危険なものだけど……)

 あのとき魔女は、さこそ本物の魔女の顔をして二人にこう告げたのだ。それは悪魔のような宣告。いいかい、よくお聞き。本来ならばあんたは元の体には戻れないよ……

 魂を入れ替えるなんざ禁忌も禁忌さ。魔女はそう言った。「だが一つ、一つだけ方法がある。それは実に危険なもの。二人同時に死ぬことさ」

 は?ハールはギョッとした。アリエスは黙っている。「………」

「魂が離れると人は死ぬ」魔女は喋った。「それを利用して、んだよ。魂を対象の体にね。昔その方法で何百年と生き長らえてきた魔女を見た……肉体が滅びるごとに、餌食となる相手の体に自分の魂を送り込む。そして相手の魂を――」

 待って、ハールは挙手した。いや待って?魔女は律儀に待ってくれる。「死ぬじゃん、そんなことしたら、相手が」「ああそうさ、だから」

「同時に使うんだよその魔法を」魔女は言い切った。「厳密には、同時に――全く同時に発動させ、全く同時のタイミングですれ違い、互いに相手の体に飛び込む。成功すれば、あんたは元の身体だ。だが失敗すれば――」

 死ぬ。魔女は言った。「どちらかがね。そういう方法だよ」

 そ、んな……ハールは固まった。そんな無茶な?思わず唸ってしまう。それ、空中ブランコで同時にジャンプして宙ですれ違って相手のブランコに同時キャッチするのと同じ原理じゃない?!思ってしまう。いい喩えだね、魔女は笑っており、いやいやいや!ハールは突っ込んだ。「無いでしょ!!何なのその一発芸的方法!!」

 だが、ハールは頷いてしまったのだ。あっさりと。「判った。その知恵、お借りしたい。して対価には何を…」

 魔女は最も険しいものを求める。そのときハールは、二人の会話を聞いてそれが本当であることを知ったのだった。概して彼等はあるものを求める――それは、今後、最も当人に必要になるものを。もしくはなくてはならないものを。それは魂や、人生の一部、大事なもの――

「……あんたは何をくれるんだい、お兄さん?」

 その言葉に、アリエスは一拍置いて答えた。「では、使命を。この件が片付けば――俺は去り、二度と王として国を担わないことを誓おう。王位は弟に譲る」

 途端にハールはブッ飛んだ。な、なんですって!?

「どの道未練も無い」ハールは苦笑した。「……父あってのアルタイルだった。忌まわれた『黒太子』についてくる民も無いさ…」「そんな…!!」

 そんなこと無いわよ!ハールは騒いだ。だが、魔女はいいだろう!とパッと切り上げてしまう。「楽しい話だ。では、一旦それで受け取ることにするよ。いい取引だ、ささ、これが方法だ――」

 ……何で。ハールは思った。どうしてよ?アリエスを思わず睨んでしまう。だったらどうするつもりなのよ?折角兄を倒して、弟のユリジェスちゃんを助けたら、父の遺志を継ぐと思ったのに…そんなことになるなんて……

 絶対許さないわよ、ハールはメラ、と目を燃やした。途端にアリエスがゾクッと首を竦める。そんなの断固反対!ハッピーエンドがいいの私は!!ハールには幸せになって貰わないと――

 アリエスが失笑する。やっぱり、心を読んでいるみたいに。「……お節介だな君は」

 そのとき、ふと音がした。カサン、と草を踏むような物音。その瞬間ラリマーがバッと振り向いた。レリオットが目を剥き叫ぶ。

「ハール様!」

 その瞬間、ハールは見た。小さな子供が立っている。籠を手にこちらを見て固まっているのだ。その口から声が零れ出た。「何で……?ハ、ハール、黒太子様……」

 メリンダが目を見開いた。しまった、とっさに彼女が庇おうとする。違うんですのよ!だがそのとき子供がすうっと息を吸い込むのをハールは見た。次いで出てくる言葉はこれだ。《お――お母さああん!!》

 待って―――――!!その瞬間、ハールは走って思いっきり子供にタックルした。


「ああ!ああそんな!まさか……!!」

 イストラは、小さな小さな村だった。村というより村落みたいだが。全家屋集まっても二十ほどしかない。子供を抱き母親は口をわななかせている。

「い、生きておられたなんて!ああ神様……!」

 途端にわあっと声が上がった。へあっ、言うなりスポーンと発泡酒のコルクが宙を舞う。え、え、待って?ハールは考えた。どういうこと?これってつまり――

 回想としてはこうだ。ハールは思い起こした。大絶叫しようとした子供に全力疾走からのタックルをかましたハールは、もう一人、人が居ることに気が付いた。どうやらその子の母親だ。一緒になって例のマルメロを取りに出ていたのだろう。籠を持って固まっており、

「シ―――ッ!」指を立て、言おうとしていたハールは凍りついた。ああ、レリオットが目を押さえている。やった……仮にも死んだことになっている、しかも失踪中の王子が、こんなとこでノコノコ歩いていたのを見付かったとなっては……「逃げますぞ、王子!」

 だが、クザーヌスの声に反して母親はこう言ったのだ。「ハ……ハール黒太子殿……!」

 言うなり頭にエプロンを被せられる。ぶはっ、喚こうとしたハールを制して母親は飛びついてきた。「こちらへ!ああ、まさかそんな…!」

 で、蹴込まれた。一同揃って酒場の横にある納屋へ。藁山に突っ込み、あー駄目だ、ゲームオーバー…と思いきや、間髪入れずに村長が飛び込んできて、

 で、こうなったのだ。緊急祝宴、奇跡の生還おめでとうに。

「ああ!太子様!」村長もとい禿頭の初老の男は言った。がっしとハールの手を掴む。「よもや生きておられたとは!皆嘆いておりました!とうに戦死なされたかと…!」

 えっと……ハールは横目でレリオットを見た。護国卿までもご一緒とは!ベタベタレリオットは身体を触られている。(……何とかしなさいよ)(……無茶を言うな)目配せし合い、アリエスが言った。「み、皆さん、ご歓待頂き感謝します。でもこれは一体……」

「ハール様は我々の恩人です!」先ほどの母親が言った。「先の王が亡くなられるまで、定期的にこの辺りを視察に来られて……教会税を搾取する代わりにここに色々と残して下さっていたのです!数を誤魔化し「すまないな」と!」

 まあ?メリンダがこちらを見た。う、っ。思わず固まってしまう。そんなことしてたの?だがアリエスは黙っており――

「この小さな村では、王都への税と教会税を支払うのは困難です」母親は目を伏せた。「ろくに子供に食べさせることも出来ない――ハール様は、それを知った上で、傍目には教会に加勢する形で徴税の見回りを行い、その陰で世話をして下さっていたのですよ」

 そう言い子供の顔をアリエスに向ける。つやつやした肌。子供特有の血色の良い頬。ハールったら――

フイ、とアリエスが目を背けた。それはどんな顔をすればいいか分からなかったような顔だ。不器用な、愛想を知らないハール。人の謝礼に戸惑うハール。こんなに慕われていたなんて――

「ハール様」別の男が言った。どうやら鍛冶職人のようだ。「王都は今、酷い有様です。新たな王が週に一度は大量虐殺を――」

 何で?ハールは目を剥いた。子供がそっと母親にしがみつく。「さ、先の陛下に――」母親が答えた。「みしていた者は、皆処刑台送りに。先週は十七人が一度に城壁に吊るされました――」

「ここにも王都からの兵の視察が」別の男が顔を顰めた。不安さながらに顔が曇っている。「税を上げ、より締めつけを厳しくすると。許可無く王都から出た者も亡命と見なし即刻吊るすと。ハール様…」

 ど――どうか、震える声で皆は言った。怯えている。酷く怯えているのだ。「どうかお助け下さい…!このままでは、我々は――」

「ハール様…!」

 視線に迫られる。他に言えることもなく、ハールは言葉を失った。

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