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 焚き火の音が聞こえてくる。すぐ傍で誰かが火を焚いているみたいに……

何かがハールの脇に身を寄せている。ムクムクの、大きくて暖かいもの。生乾きで酷い有様だが、暖を取るには丁度いい――

「……ハール」ペタリと頬に触れられて、ハールは目を動かした。何だか遭難でもしたみたいだ。誰かが周囲を歩き回っている。せっせと何やら仕事をしており――別の場所では誰かが話している。聞いたこともない言葉、発音。何だか蛇の威嚇音みたいな…

「…コノカ」誰かが耳に口を近付け、もう一度言った。その声に目が覚める。急激に正気付いたみたいに?冷たいものがポツリと鼻に当たり、ハールは目を開けた。アリエスだ、ずぶ濡れでこちらを覗き込んでいる。

「コノカ…!」

 その瞬間、ハールは身を動かした。途端にあっと声の出るような痛みが走る。「動くな」アリエスが急いで制した。「治癒したばかりだ。痛覚がまだ消えていない――」

 だがハールは構わずもがいた。もがかずにはいられなかったのだ。いった、い!顔を顰めて喚いてしまう。もう、何なの……!言うなり何かが飛びついてきた。『バウ!』ラリマーだ。「ハール様…!」

 ご無事ですか!メリンダが、駆けつけてきてそう言った。何やら河原に寝かされている。すぐ傍に焚き火が焚かれており、ボートが打ち上げられていた。「ここ……」

 河原のギリギリに、何かが無数に顔を覗かせている。何だか耳には魚のようなヒレがあるし、ストッキングを被って思いっきり引っ張られたみたいな平たい顔の羅列――認めた瞬間、ハールは叫んだ。「ぎゃあ!!レリオット!」

 途端にレリオットがパッと手を上げて制した。まるで黙れ、と言うみたいに。よく見るとレリオットは魔法を紡いでいる。それも治癒魔法。白と銀の入り混じる穏やかな螺旋を描くのですぐ分かる――人魚の千切れかけの背びれを癒しているのだ。「……え…」

 奥ではクザーヌスが何かを話している。ひときわ大きな(と言っても、大人の身長くらいしかないけれど)人魚が水面に顔を覗かせており、それに何かを見せて話しているのだ。クザーヌスの手には指輪が持たれていた。それは、他でもない王家の印章だ――

「……ハール殿」クザーヌスが、こちらに気付くと笑顔になった。「皆分かってくれましたぞ。貴殿がアルタイルの子息であることを」

「………」ハールはあんぐりした。すぐそこにどう見ても「人面魚」みたいな人魚が顔を覗かせている。陸には上がれないらしく、水の中でピタピタ尾びれを動かしており、瞼の無い目でこちらを見ているのだ。「……マジで?」

「こちらはこの川の主、エリアネーデ」クザーヌスはまるで淑女にでもするみたいに、相手の手を取ると促した。こうなると、こっちも挨拶しなければならないのは必然だ。どうにも怖いし正直気味が悪いけど……「……どうも」ハールは言った。「エ、エリアネーデ、さん?」

「気付かず襲撃してしまったことをお詫びしたいと」クザーヌスは言い足した。インタリオをこちらに渡し笑顔になる。「水に落ちて僥倖でしたな。貴殿の指にこれを認めて、王の再訪に気付くことが出来たと。どうか非礼をお許し願いたいそうで」

 そ――そんな!ハールは慌てた。急いで起き上がり立とうとする。まだフラついてはいるけれど、立てないレベルじゃない。アリエスが肩を貸してくれる。「そんなの、許して貰わなきゃならないのはこっちもよ、いきなり住処に入っちゃって」

 すると相手は目をしばたいたような顔をした。――の、ように見えた。耳のヒレをひたひたと動かしながらクザーヌスの方を見る。クザーヌスが頷き、ははと笑った。「なるほど奇特な御方だ。初見で見抜けぬ理由が分かったと」

 見抜く、って?ハールはきょとんとした。例の『人魚』はハールとアリエスを交互に見比べている。またクザーヌスの方を向くと、何やら話しており(ええ、そうです。いささか事情がありましてな……)

「――王子」クザーヌスが顔を上げ言った。「事情があるとは言え、貴殿に深手を負わせたのは契約に叛く行いであると。そう申しております。何か償いをしたいのだが、と言っておりますが…」

 え、ええ…?ハールはうっかりうろたえてしまった。そんなの気にしなくても?だが相手はじっとこちらを見つめている。まるで、言って貰わないことには示しがつかないみたいな顔をしており、ハールは呻いた。そんな急に言われても……

「――なら、こうすれば良いわ」アリエスが口を挟んだ。「味方が増えるのは有り難い――孤立無援の私たちにとっては願ってもない話よ。クザーヌス、私たちはこれから『抜け道』を通って王都に向かいます。もし援けが要れば、そのとき彼女に知らせをやるのは――」

 クザーヌスは再び跪き『彼女』の方に何かを喋った。今度は相手は頷いている。凄い、クザーヌスさん、何でも出来るのね?思ったところでアリエスが笑った。「そうじゃない、あれはロマーニュ語だ。この地に生まれたものなら誰でも分かる」

 そうなの?ハールはきょとんとした。と、アリエスが進み出る。男みたいに跪き「それ」と視線を合わせると、小声で言った。

(私はアルタイルの息子、ハール。訳あってこのような姿になっているが、紛れなき先王の遺志を継ぐ魂だ。貴殿の心遣いに感謝する。いつの日が援けが必要な時は、どうか力をお借りしたい――)

 わお、ハールは目をしばたいた。凄い、ハールも喋れるんだ?ふんふんと頷く。というかハールの体だから私にも分かるのね。流石はアルタイルの――

 次期、統首のはずの人。

「ボートは破損しております」クザーヌスが首を捩ってこちらを見た。「明日の朝、潮が満ちれば我々が担いで件の『抜け道』までご案内しましょうと――」

 アリエスは頷いた。ふとこちらを振り向き微笑する。

 レリオットはせっせと傷ついた人魚たちの世話をしている。メリンダも、膝まで水に浸かってその手伝いだ。遠目に眺めながら、アリエスは呟いた。ふと零すみたいに。「…有り難いものだな」

え?ハールはきょとんとした。何が?有り難いって…

「……こうして誰かの好意を得られるのは…」

 ハールは目を丸くした。ハールはじっと二人の様子を眺めている。仏頂面で鉄面皮で、不気味とまで誹られたハール黒太子。だが今横で笑っているのは、紛れもない穏やかな微笑を浮かべる人物だ。ちらとこちらを見ると、笑った。

「君の人徳だ、コノカ」

 へっ?ハールは目を剥いた。違うでしょ、それ。思わず言ってしまう。それを言うならハールの人徳よ――皆貴方のためにこうして集まってるんだもの?

アリエスが腕まくりして行ってしまう。二人を手伝いに向かったのだ。他に言えることもなく――ハールは黙って目をしばたくとその背を見送った。


 翌日――

 日の出と同時に、ハールは叩き起こされた。レリオットが腰を蹴っ飛ばす。いった、い!呻きながら起きたハールはとっくに皆が仕度を整えていたことを知った。「早くしろ、黒太子」

 こ――の!ハールは目を吊り上げた。女性なのよ、うっかり口走りそうになる。なんて真似を?メリンダが食事を作っており差し出してくる。「どうぞ、ハール様」眉を下げながら訊いてきた。「お怪我はどうです?痛みのほうは――」

 何だか、風邪を引いた後みたい。ハールは答えた。あちこちピリピリする。(深手の場合、痛覚は残るからな…)アリエスが囁いた。(暫く大事に、コノカ…)

 深手って。ハールは思いゾッとした。川から例の人魚みたいなものが覗いている。顔を見せており、やっぱりどこか不気味な姿。ウツボみたいに鋭い歯が見えていて――

 と、とにかく。ハールは咳払いした。仲間になった限りは偏見は不要だ。「よ、宜しくお願いします、エリアネーデさん…」

 昨日のボートに乗り込み移動する。今日は櫓もなく漕ぎ手も無いのにすんなり川を下れるのは彼等のお陰だ。「人魚」たちが船を担ぎ上げ川を移動して目的地まで率いてくれる。三日月型に湾曲した川の中腹に祠のような場所が見えており――彼等はそこに向かっていった。「あれが……」

 切り立った崖状の岸壁の中腹に、えぐれた空間みたいなものが出来ている。中は当然真っ暗で、彼等はそこに船を押していった。何だか遊園地のアトラクションみたいな。「や、やだちょっと…」

 祠の入り口は船着き場のような形になっており、そこだけいやに人工的だ。船を寄せると、彼等はやがて船から離れた。船着き場みたいな場所に降りる。湿気ているし、真っ暗だし…アリエスが詠唱し明かりを紡いだ。

「あ……」

 ハールは目を剥いた。そこは確かに『入り口』だった。岩に黒塗りの大きな扉が嵌っている。精巧な彫刻が施されており、ハールは言った。「これが、あの――」

「王家の『抜け道』?」聞いてやる。まあ、メリンダが途端に呆れたように言った。「ご自身のことじゃありませんの!仮にも王族が――」「ご、ごめんメリンダ…」

 おずおずと、指輪を引き抜く。扉の真ん中に小さな穴が開いており、あれが『鍵穴』だ。開かなかったらどうしよう――怯えながら、おっかなびっくり指輪を押し込むと、案に反して扉はガコン!と音を立てた。指輪が穴からポロリと手元に戻ってくる。「わ!」

 水がさざめき立ち始めた。中から風が流れてくる。クザーヌスが囁いた。「太子よ、どうかお気を付け下さい。ここから先は迷宮ですぞ――」

「は!?」途端にハールはブッ飛んだ。

 ギィイ、音がして扉が開く。途端に何百年と閉じ込められた、遥か昔の古い古い空気が、時間と共に流れ出てきた。まるでピラミッドの盗掘か何かみたいに。太古の空気が確かにそこに――

 さざめくように、『人魚』が歌いだした。何を言っているかは分からない、だが、それは古い童謡みたいだ。アリエスが振り向き会釈した。それはまごうかたなき王家の姿。女の見た目でありながら、確かな太子の佇まい。

「感謝する。ロマーニュの主よ、どうか安寧に――」

 扉の奥に、暗い道が続いている。は、入んの?ここに…言おうとしたハールの背を促しアリエスは入っていった。

「………」

 ゴォン、背中で扉が閉まる。何だか一方通行みたいに――そのときレリオットがすらりと剣を引き抜いた。

「行くぞ、後戻りはきかん」

 は?ハールは言った。クザーヌスが魔法を紡いでいる。しかも緑の光の攻撃魔法。え、待って?思った瞬間――ハールはようやく、そこに大量の――しかも特大の、巨大な虫のようなものが潜んでいることに気が付いた。

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