「こ、荒野?荒野なんですの?どうして急に……」
ひと心地ついてから、メリンダは盛大に目をしばたたかせそう訊いた。ラリマーはハールに盛大に甘えている。長らく留守にされ、寂しくて仕方なかったようなのだ。夜に作った料理を餌にやりながら、ハールは頷いた。「そうなのよ…話せば長くなるんだけど…」
メリンダは、なんと椅子とテーブルごと転送されていた。クザーヌスは無事だ。少々負担がかかったので寝ているが、岩砂漠のど真ん中に優雅なテーブルと椅子が置かれている。異様な光景で、メリンダはキョロキョロすると唖然とした。「一体…」
指輪のこと。今後の流れのこと。説明すると俄かにメリンダの顔が引きつった。やっぱり…!思わずビンタを覚悟してしまう。そりゃあね?流石にイキナリこんな荒涼とした場所に引っ張り出されて、しかも敵だらけで、これから敵地に向かいますだなんて言われれば?しかも率直に言えば指輪のオマケ……だがメリンダは憤然とした。「まあ!まあ!ハール様ったら!」
「でしたら何故事前に言って下さらないのです?」そう言った。「であればせめて仕度をしましたものを…!」「え」
「同行致します」メリンダは姿勢を正すとキッパリと言い切った。俺は別行動する、近くの町まで彼女を送って……などとレリオットが言おうとしていた矢先にだ。「お嬢様が行くのであればお供をするのは私の勤め。離れませんとも」
「で、でも!」
「異論は一切認めませんよ」メリンダは目を据えた。こんな荒野のど真ん中で、ミスマッチ極まりないメイド服でだ。「ハール様、わたくしを騙したつもりでいらっしゃったの、お忘れで?まだ許しておりませんから!」
「………」ハールは固まった。「オマケにあんなに心配させて……」
とにかく一緒に伺います。メリンダは、堂々と宣言した。まるで近所に買い物にでも行くような口ぶりで言ってみせる。「こう見えても体力に自身は有りますのよ。ご心配なく」
はあ……ハールは項垂れた。ちょっと…レリオットに目配せする。あんた、何とかしなさいよ?だがレリオットも目配せし返しており(無茶言うな…女の扱いは分からん)
「まあ」アリエスはほっと息を吐き出すと言った。「とにかく……メリンダが居てくれれば、心強い、わ。色々不安だったから…」
ぎこちなく女性の喋り方をする。つい先日まで本性を丸出しにしていたので、今更慌てて繕っているのだ。ラリマーは唸っている。相変らずアリエスが嫌いらしい。ウウー…彼女に牙まで剥いている。
「た――確かに」ハールは笑った。ラリマーの頭を撫でてやる。「メリンダが居れば心強いかも。一番頭が回るのは彼女だし…」
途端にメリンダはきょとんとした。まあ?と目をしばたたかせる。
「ラリマーも一緒に来ちゃったみたいだし」ハールは笑った。「仲間が増えるのは、嬉しいわ。気持ちも明るくなるしね」
ねーラリマー。よしよししてやる。ラリマーはすっかりご機嫌になっており、メリンダはコホンと咳払いした。
「……そう仰って頂けるなら」上目遣いになった。「光栄ですわ。ただし」
その途端、メリンダはずいとハールに詰め寄った。えっ何?言う間もなくじっとハールの目を凝視する。メ、メリンダ?ややあってから彼女は言った。「一つ条件があります。今からいう事を、よく聞いて下さいませ!」
……はい。ハールは頷いた。メリンダはなおもしつこくハールの視線を捕まえている。
「……アルタイルに入る前に、隼を飛ばして下さいませ」そう言った。「お嬢様の隼ですわ。あれは今、城下におります」
なん、ですって?ハールは途端に目を剥いた。アリエスが思わずといった様子で口を出す。「どういうこと、メリンダ?」
「城下におりますのよ」重ねて言い、初めてニヤリとした。普段上品なメリンダには珍しい表情だ。「こういうこともあろうかと――預けておきましたの。アルタイル城下の仕立て屋に。私の妹の家です」
まだ分からない。だが何かを仕組んでくれたことには違いなく――途端にハールはあっけにとられた。
ロマーニュ川は、荒野を渡った先にあった。険しい渓谷に挟まれた美しく広い川である。
ロマーニュは三日月谷の宝石――とは聞いていたけれど。ハールはぼんやりと、谷の上から川を臨みながらそう思った。緑がかったのどかな川の流れは本当に宝石か何かみたいだ。川は随分下の方にあり、川の入り口に巨像が一つ見えている。どうやら先の王ヒルデガルドが立てた王の像。片手を上げ『ストップ』するように構えている。
「あの先がロマーニュの人魚が住まう場所」レリオットが言った。川まで下るだけで半日かかりそうな距離だ。「気を付けろ。あの像は言わば『結界』のようなもの――人の住む場所と人以外の住む場所を切り分けた、標のようなものだ。あれを越えれば最後、命の保障はない」
途端にハールはぐび、と唾を飲み込んだ。マ、マジで……?傍らでラリマーも小さくなっている。尻尾を股に挟んでおり、野生のカンで分かるのだ。危険だということを。「まあ、しっかりなさいませ!王族ともあろう者が」
メリンダは潔くそう言うと、ズカズカと渓谷を降りる道に向かって歩いていった。待って!慌てて後に続く。相変らず不釣合いなメイド姿で、本当に異様な光景だけれど、当人はそんなことそっちのけだ。レリオットが言った。「道は険しい。手を貸そう」
あら。ハールはきょとんとした。メリンダはえっ?というような顔をしている。馬の手綱を引きながら、メリンダの傍に行くとレリオットは手を出した。「馬に先導させるといい。馬は安全な足場を知っている」
先を行く二人を見て、ハールはふふふ、と笑った。アリエスが後を付いてくる。「彼の言う通りだ」頷くと、こそっと耳打ちした。「女性には険しい道だ。大事ないか?」
ハールはきょとんとした。だがすぐに笑ってしまう。それ、私の台詞なのよね、今は。耳打ちし返す。彼等は急激な石の多い斜面を気を付けながら降りていっている。その後に、ハールとアリエス、しんがりにクザーヌスが後ろを守り、それを目で確認するとハールは訊いた。「ねえ、無事に故郷に戻ったら、ハールは何をするの?」
今度はアリエスがきょとんとする番だった。え?目をまあるくする。「まず、クーデタでしょ。というか政権を取り戻す――そのあとは、どうするの?何か計画はあるの?ハール」
「………」
ハールはじっと黙り込んだ。数日前、賢者もとい魔女と交わした会話を思い出していたのだ。あのあと、アリエスは――「ハール」は、実はある提案をした。あるものを差し出す変わりに、元の体に戻る方法を教えて欲しいと申し出たのだ。(これではあまりにもコノカも気の毒だろう?男の体に入って、望まぬ未来を歩ませるのは避けたい)
だが、その代わりに彼が失うものとは、とんだものだったのだ。魔女が求める報酬とはけして金品だけとは限らない。時として、物ではないものも求められる。それは、いわゆる、目には見えないものだったり、もしくは普通は決して他者が手にすることの出来ないもの――その人の『人生』の一部だったりするもので…
「……本当に良かったの?」ハールは声を落として耳打ちした。アリエスは黙って馬に先導させている。馬の歩く足場を歩き、そうして後に続くコノカに道を示してくれているのだ。道は狭く非常に険しい。迂闊に足を滑らせれば、何百メートル下にまっさかさまということだって大いに有り得るのだ――
「――君は優しいな」ふと、アリエスは思い出したように囁いた。え?目を上げたハールにニコリと笑う。「心配してくれるのか。他人である、この俺を」
途端にハールは顎を引っ込めた。他人、という所に引っ掛かってしまう。そ、そりゃあ――前を見て、メリンダの耳がないことを確認すると、思った。確かに赤の他人だけど?
でも、今はもう「他人」とは呼べないんじゃない?ハールは思った。同じ苦労とトラブルを経験して、同じ目的に向かって。それはつまり、不可抗力であったにせよ、今はもう立派な運命共同体よ――途端にアリエスがははっ!と吹き出した。上を向いて笑い出す。「はははは!」
途端にハールはギョッとした。アリエスはちょっと目尻を拭いている。読心術――ハールは飛び上がった。まさか魔法を使ったんじゃ!「いや、今のは単なる推察だ」
だが当たりだったようだな。アリエスは、いかにもおかしげに目を細めると男のように失笑した。こんな笑い方するんだ――鼓動が変な鳴り方をする。アリエスは笑うと何度も頷いた。「――そうだな、確かにその通りだ」
「………」
心配するな。アリエスは前を向くと言った。「全てが済めば君は家に送り届ける――父君にも、謝罪をせねば。元の体とは言い難いが、女性の身体を手に入れたら――きっと今よりは生きやすくなるだろう。コノカ」
ハールは口篭った。いや、そういうことじゃないんだけど……唸ってしまう。そうじゃなくて、貴方よ?言おうとした。気になるのは貴方のほうなの。どうするのよ?全てが済んだらその後は……
『ロイヤルギルティ』の、筋書きが済んでしまった、その
そのとき遠くで水面が逆立った。緑色の川の流れが白く輝く。だが、それは急激に突然真っ白になるように広範囲に小波立ち始め、
「――あれは…」
アリエスが、足を止めた。少し下でレリオットもメリンダと一緒にそれを見ている。ややあって後ろから追いついてきたクザーヌスが杖をつま先に突き言った。
「…ロマーニュの人魚の群れです」
それはまるで大魚の群れみたいに。巨大な魚の大群が、滅茶苦茶に身をうねらせながら水面を覆い尽くしているみたいに――
「……用心せねばな」
アリエスが呟く。その横で、クザーヌスと歩いてきたラリマーがクーン…と心細げに小さく鳴いた。