「バ――バカか!!バカなのか!?馬鹿なんだな貴様!!」
暗闇の中、悲鳴に似た金切り声がぶち上がった。一斉にパニックが訪れたのだ。うわぁあああ!!と。流石のアリエスも絶叫してしまい(父上の形見がぁ―――!!)
知らなかったんだもん!知らなかったんだもん!!ハールは叫んだ。ここは岩砂漠、海洋都市ヨルギス(先日奇襲された港町だ)から更に六十里離れた場所だ。ここからソマールへは、率直に行っても大陸横断レベル。「取りに帰んの!?今から!!?」
無理!絶対無理!ハールは手でバツを作った。敵も追っ手もウヨウヨ居るのよ!?別ルート辿ればいいじゃない!
だがいずれにしてもアレが不可欠なのだ。アリエスは紙切れみたいになってしまった。王家の城に入るには、あの印章無くしては入れない――つまりは
終わった……アリエスが両膝をついた。ちょっとぉお!泣き叫んでしまう。シッカリしてよ!「無理だ、あれなくしては成り立たん……俺は流れる。二人はどこかで幸せに…」「人の話を聞きなさいって!!」
クザーヌスが顎に手を当て黙っている。流石にゲームセット、と思いきやクザーヌスは囁いた。「…いや」
そうとも限りますまい?そう言いアリエスの肩に手を置いた。「立ちなさい、太子。この程度のことで消沈などもっての他」
「しかし……」
「手は有りますが」クザーヌスは言った。「それには相当の魔力を要する――しかし今なら不可能でも有りますまい。私と、彼女が居れば」
途端にハールは――コノカは固まった。え、えっ?「え?」
「太子は並外れた魔力の持ち主」クザーヌスは言った。「そして私は憚らず申すなら――かつてアルタイルで二番目と呼ばれた魔力があります。二人ですれば、この距離も不可能とは言えますまい」
そして付け足した。「ただ、それには一方通行になりますが……」
どう……ハールは訊いた。「どういうこと?」だが気のせいかレリオットが目を剥いている。「…まさか」ややあってから、訊いた。「まさか彼女をここに呼ぶので?」
「それしか有るまい」クザーヌスは頷いた。「あの魔法は物だけを呼び出すことは出来ん。それを身に着けている者ごと、引き寄せねば」
待って!!ハールは叫んだ。それでピンと来たのだ。彼等が何を言っているかを。それはつまり――つまり、メリンダを一緒に連れていくということで!
駄目よ!言おうとした。だが選択肢は一択だ。アリエスが荷物の中から魔術書を取り出した。バン!と地面に投げ出してしまう。
「待ってよハールったら!」
止むを得ん――アリエスが言った。その目が据わってしまっている。異論は認めず、初めてその目に怯んでしまったとき、クザーヌスが頷いた。
「では――始めましょうか」いきなりだ。「丁度良い、今宵は空が明るい。死しても良い頃合いでありましょう」
途端にハールは棒杭でも飲んだみたいに首筋を強張らせた。
し、し、死ぬってどういうこと…?
それから半刻後、ハールは完全に固まっていた。地面に白い粉で何やら複雑な四角い陣を描く。怪しい雰囲気たっぷりだ。怖いやら不気味やら――オマケにアリエスは蝋燭まで四隅に立てている。「何すんの?ねえ…」
「良いですか」クザーヌスは言った。「今から私が詠唱します。貴殿はそれをそっくり唱和し、ついてきて下さい。案じなさるな。もし失敗しても消えるのは私一人の命――老い先短い男です。気に召されるな」
「しない訳ないでしょ!!」
アリエスは緊張した面持ちで固まっている。レリオットは、遠巻きに見ており、「正気か」呟いた。「こんな飛距離で転送を……」
「転送魔法?」ハールは訊いた。「転送するの?メリンダを」
「簡単に言えばそうなるが」アリエスは頷いた。「一度きりだ。それも、もし、発動したその時に――彼女が指輪を身に着けていなければ意味を成さない。率直に言うと失敗になる」
「どういうことよ!」
「我々の目的は指輪を得ることだ」アリエスが言った。それはあまりに無慈悲な物言い、流石にハールでも、看過出来ない言い方だ。「メイドを連れて行きたい訳ではない――危険の多い旅に同行させることになるのだからな。まして指輪なくしては」
「お荷物だって言いたいの?」ハールは噛みついた。それは――無いんじゃない?思わず言ってやる。「そりゃあ、確かに非力だけど!」
でもそれだけじゃないのだ。ハールは目を吊り上げ思った。メリンダは本当に賢くて、冷静で――誰よりも回る頭を持っている。確かにこんな危険な旅には連れて行きたくないし不向きだけど、でも、そんな、邪魔者みたいな言い方は…!
「……すまない」アリエスが、目を伏せると謝罪した。「動転していた。どうか、師よ、ご無事で…」
そこでハールははっとなった。クザーヌスが既に陣の中に立っている。「良いですか」ハールを見て言った。「私の詠唱を『頭の中』で繰り返してください。一言たがわず。決して、止まってはなりませぬぞ」
ま、ま、ハールは口をわななかせた。今更ながら怖くなってくる。「待って…」
「門が開けば真っ先に、例の女性を探して下さい」クザーヌスは続けた。「数秒だけなら会話が出来ます。その後は、彼女を引っ張り込むしかない――下手を打てばどこに落とされるか分からん、心して下され!」
待ってってば!!ハールは叫んだ。「アリエス!」
途端にカッと地面に描かれた陣が光った。最初眩く――白く、次に緑色に。クザーヌスが何かを詠唱し始める。待っ、て!!
刹那、ハールはぎくんとした。それは聞いたことのない言葉――どうして分かるか判らないが、古い古いアルタイルの言葉だ。頭の中で繰り返せと言ったって!ハールは青くなった。ニャムニャムムニャにしか聞こえないんだけど!誰か――
だがハールはそれを追っていた。無意識に、頭の中で。同じことをそっくり意識が勝手に繰り返している。やるしかない――変な覚悟が突き上げて、ハールは目を閉じた。ああ、もう!どいつもこいつも!ごめん、メリンダ……!!
その瞬間、おかしな感覚がした。その周りだけ急激に空気の流れが変わったみたいに。わんわん耳鳴りがし始め、全身の毛穴が開いたような凄まじい気持ちの悪さが訪れる。ち、ちょっと……!ハールは目を開けた。真緑だ。世界が光る緑色だ。助けて!
その瞬間ハールは目を剥いた。ふいに目の前に、小ぶりな正円の穴が現れる。
それはどんよりと、黒い色に濁っていた。何だかブラックホールみたいな。だが、それを見ていたハールは、ふいにそれが暗い部屋の中にある闇なのだと気が付いた。叫んでしまう。「メリンダ…!」
誰かがギクリとした。何百里と離れた場所で、だが確かにそれが分かった。何かが近付いてくる。「ハール様…!?」
ハール様!刹那ハールの頭のヒューズが吹っ飛んだ。本能で、早くしなきゃ、という実感が突き抜けたのだ。「メメメメリンダ!指輪持ってる?前ラリマーの首に括ったあの指輪!アレ持ってこっちに来て…!」
だがその瞬間、声がした。ハール!レリオットの声だ。限界だ!「もう!?」言うなり誰かがメリンダを引っ張った。そう――力任せに。指輪って、言おうとした途端誰かが無茶苦茶に千切れる勢いでメリンダの二の腕を掴んで引っ張った。きゃああっ!!
その瞬間、空気が逆巻いた。さっきまでどうやら上に――上に向かってヘンな形で渦巻いていた空気が、逆向きになる。あ、あ……!ハールは思った。メリンダ、何てことを!思った瞬間何かが降ってきた。盛大に頭の上から。ドン!ドシャアン!!
ぐえっ、ハールは言った。受け止め損ない誰かと何かの下敷きになる。思いっきり頭を打ち、ついでに胸の上に落下され、「………」ハールは白目を剥いていた。ハ、ハ……
「ハール様!」声がした。ハール様!ハール様ってば!
メリンダ!声が響いた。レリオットが駆け寄ってくる。え、えっ?メリンダがあっけにとられており、アリエスが飛んでくる。「師よ!」頭がわんわんしており耳が上手く聞こえない。「師よ!ご無事ですか…!」
ど……メリンダが言った。腑抜けたみたいに。どこですの、ここ……言っている。ハールの上に座ったまま、編み針を持って。だが、その肩をレリオットが掴むと無理矢理顔を上げさせた。「メリンダ!」鬼気迫る表情だ。「指輪は有るか!!」
「指輪、って……」
その瞬間、ハールは目の前が暗くなる気がした。失敗、そんな認識が一斉に漂う。やっぱり無理だった――そう思ったとき、べろん、と何かに顔を舐められて、ハールは我に返った。バフ、顔に息がかかる。
「……ラリマー?」
バウ!それは言った。ハールの顔をベロベロ舐めている。ラ、ラリマー、思ったそのとき、首に――その首に、ハールの結んだインタリオが揺れているのをハールは見た。
「ラリマー!!」
ワン!ラリマーが鳴く。飛びかかってくるラリマーに、「でかした、ラリマー!」叫んだアリエスが、遠慮なくガブリと差し伸べた手を噛まれるのをハールは視界の隅で見た。