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 焦げ臭いにおいが鼻をつく――

 吐き気のしそうな灰の臭いだ。朦朧とした世界の中でそう思った。何だか生き物の焼ける臭いみたいな?髪の毛や、肉の焼ける臭い――何なの一体……

 冷たいものが額に触れる。濡れたタオルだ。そして細い誰かの指。(ハール様、彼女は……)

(――大丈夫だ、レリオット)声が響いている。(恐らく魔法の反動で気を失っているだけだ。じき目を覚ますはず――だが)

 どの道急いでここを去らねば?声が続いた。(追っ手が迫ってきています。一刻も早く別の場所に……)

 パタンと音がする。扉の音。ややあってから、またどんよりとした眠気が訪れ、視界が消え――

 また戻ってきた。今度はガラガラという音と一緒に。

(本当に、すまないな)声がする。レリオットの声。知らない声も一緒に聞こえてくる。(いえ、良いのですよ…)年老いた男の声だ。(……護国卿には、随分助けて頂いた。このご恩をここで返さねば…)

 再び意識が途切れる。また何もかも消え失せる――

 こまぎれの夢を見ているみたいだ。コノカは思った。頭のコードを切れ切れに繋ぐみたいに?時折匂いや風を感じる。何度も日が昇り、夜が更け、それを繰り返すみたいに。ひょっとして全部都合の良い夢だったのかも…

 ハールと一緒にいられるなんて。コノカは思った。ハールになってしまって、アリエスになった彼と一緒に居られるなんて?だって本来なら永遠に出会うことの出来ない人間なのだ。それなのに、話をして触れ合って、そんなことが……

(――コノカ)声が聞こえた。アリエスの声だ。誰かが覗いている。もういい加減叩き起こしましょう、レリオットが唸った。それか川にでも投げ込むか……おい、貴様!

 どうしたら目が覚める?アリエスが訊ねた。何故だ?やはりあんなものを使ったから心が壊れてしまったのか?賢師――

 頼むコノカ。そう続けた。誰かが手を握り祈るようにして言っている。頼む、目を覚ましてくれ。

 でなくば――

 君を置いていきたくはない、コノカ!

 刹那、引っこ抜かれたようにコノカは目を覚ました。


「………」

 最初に目に写ったのは、木目の浮いた天井だった。いやに低く、明かりが暗い。随分小さな場所に横たわっている。何というか……

 全然サイズが合ってない。コノカは顔を顰めた。あえて言うなら、子供用のベッドに無理矢理横になっているみたいな?狭いベッドに足を曲げて倒れている。誰かがコノカのお腹に額を押し付けており、「ハール様…」声がした。「少しは休まれませんと…」

「……そうだな」アリエスが、呟いた。ずず、といやにのったりした動きで身を起こす。「…祈っていても目覚めはせん。ありがとう、レリオット…」

 言うなり誰かがこちらを覗き込む。へ、というような顔をし、その途端コノカは言った。「……ここ」

「!?」

 刹那誰かがバッと顔を跳ね上げた。アリエスだ。顔じゅうに驚きの貼り付いたような、唖然とした顔をしている。「コ」咳き込んだ。「コノカ!!」

 言うなりバッと抱き寄せられる。きゃあ!間があって、誰かが声を張り上げた。「こ、この――馬鹿者め!世話の焼ける…!!」

 止せ、レリオット!アリエスが制した。コノカの――ハールの肩を強く掴み顔を覗き込む。「分かるか?!コノカ、俺が、いや気分はどうだ!!」

「…ハール」コノカは――ハールは言った。「レリオット、ここ、何処?」

 途端にふうっとアリエスが息を天井に吐き上げる。ハールの額を触り目を覗き込むと、脱力したように項垂れた。「……大事無かった…」

 な、何が?ハールは訊いた。目をしばたき周囲を見回す。「ていうか、ここ何処?どうなったの?あいつらは。村は、じゃなかった町は…」

 レリオットが白い目をしている。睨むようにこちらを見下し鼻を鳴らすと、呆れるように言った。「……今更だな。とうに死んだ。いや、お前が倒したさ。十日も前にな」

 ハールは途端にブッ飛んだ。「と、十日?!」

 するとアリエスが遮った。片手を上げてレリオットを制する。「そう、十日…」言ってから目を伏せた。「…君のお陰で救われた。気分はどうだ?コノカ」

 ハールは目をしばたいた。気分?そう思いきょとんとする。そう言えば……手を上げ胸に当てると「ちょっとスッキリしてるわ。何これ?」

 途端にアリエスは目を丸くした。レリオットが正気か、というような顔をしている。

「……コノカ、君は」思い出させるように、アリエスが膝を乗り出すと説明し始めた。「君は街を襲撃した竜騎兵たちを倒したんだ。たった一人でな。闇の魔法を覚えてないか?」

 ハールはきょとんとした。そう――言えば。レリオットの方を見る。「………」

「リュビテルの竜騎兵が、全滅だ」レリオットは密かに驚いたような顔をして言った。「お陰で助かりはしたが…よくあれだけの魔法を繰り出せたな?しかも闇魔法を」

 途端にアリエスは目を伏せた。

「……闇の魔術は、心に深い傷を残す」アリエスは囁いた。「目を覚まさないので――てっきり魂が壊れてしまったのだと思っていた。ここは賢師の家。我が師クザーヌスの隠れ家だ」

「エリシオ・クザーヌス?」

 途端にレリオットが目を剥いた。?意外そうな声を出す。「賢師クザーヌスを?よく知っていたな!貴様」

 知ってるわよそりゃ――ハールは目をしばたいた。エリシオ・クザーヌスはハールの育ての親みたいな人なのよ?確か王都が陥落した後はハールとの仲を危険視され、異端で追われて逃げたのだっけ…何処とも知れぬ山の中へ…

足音がして、アリエスは振り向いた。ドアの開け閉てされる音がする。と、アリエスが律儀に片膝をつき、頭を垂れた。「クザーヌス師。彼女が――」

コノカが目を覚ましました。そう告げた。白髪交じりの肩まで髪を伸ばした中年男が立っている。長いくすんだ若葉色の衣の袖を垂らしており、コノカを見つめており――ややあってから突然相手は両膝をついた。はっとレリオットが目を開く。

「……お初にお目にかかる」そう言った。ベッドの中のコノカに向かってお辞儀する。「太子の恩人よ。私はエリシオ・クザーヌス。ようこそ粗末な我が家へ…」

 え、えっ。ハールは目を丸くした。いつの間にかレリオットも膝をつきこちらに礼している。慌ててコノカは手を振った。そ、そんな、止めて下さい、こっちこそお世話に――

 クザーヌス、さん。コノカは――ハールは言った。相手はじっとこちらを見つめるような顔をしている。まるでハールの中身を見透かすような目をしており、ハールは急いでベッドの上に正座した。「あ、ありがとうございます。助けて頂いて……」

 すると、相手はふっと微かに唇を吊り上げて笑った。アリエスがじっと黙っている。「……聞いた通りだ」そう言うと、立ち上がった。アリエスの背を促す。「殿下、お立ちを。彼女は礼を求めておらん」

 アリエスは顔を上げた。レリオットはさっさと立ち上がっている。「事情は聞きました。コノカ殿。よくぞ太子を救ってくれた…」

 そう言い、ふいに言葉を途切ってしまった。よく見ると目尻に涙が浮いている。「師よ!」アリエスが気付くと慌てて介抱した。相手は目頭を抑え項垂れてしまう。

「よ、よくぞご無事で……」

 言ったきりただ無言で泣き始めてしまう。他にどうしようもなく――ハールはじっと二人の様子を眺めていた。

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