『魔女の家』は思ったよりも平凡極まりなかった。どこにでもある家屋みたいだ。ぼんやりした明かり取りの窓に、宵闇みたいな光が射し込んでいる。
植物園みたい……コノカは椅子に掛けながら、そう思った。窓際に多種多様の植物がビンに入って吊り下げられている。何だか食虫花みたいなものや、不思議な花まで、びっしりと窓が埋まっており、それで中が暗いのだ。「久しぶりだねえ、ここに人が来るのは…」
ハールはポカンとした。やっぱり――魔女なのだ。改めてそう認識する。東の魔女、異端の象徴、散々言われているようだけど、こうして見るとそう悪い人には感じられない。ちょっと癖のある博学のお婆ちゃんみたいな……「ふっ、そう言って頂けると嬉しいがね」
途端にハールはぎょっとした。さっきから、ひと言も話していないのに相手が先じて返事をしているのだ。男二人は情けないかな固まっている。みっともない、シャンとしなさいよ…思うと同時に相手は言った。「ホントにね、情けない話だよ…」
やっ――ぱり!ハールは相手の顔を見た。相手はふんと笑っている。どこにでも居るしわくちゃの老婆、だが頭の中はお見通しなのだ。「お茶をどうぞ。そっちのお嬢さんは出さないほうが親切だろうね」
途端にギクッとアリエスが身を強張らせた。だが、流石はハールだ。肝も据わっているらしい。ガタン、と椅子を鳴らして立つと片膝をついて一礼する。「東の魔女――いや、賢老オリカステ殿。拝謁の僥倖感謝する」
はいえつ。ハールは思った。トイレに行くこと?「それ排泄」即座に魔女が切り捨てる。「堅苦しいね。前に来たときはそんなのじゃなかったが」
途端にハールは目を剥いた。な、ん?レリオットがぐっとむせ返る。おっかなびっくりすすめられていたお茶を吹き出して叫んだ。「何だと!どういうことだ!説明召されよ!」
その瞬間魔女が片手を振るった。パン!音がしてレリオットの耳飾りが吹っ飛ぶ。まるで見えない手で叩かれたみたいに――「黙っておいで」言うなり老婆は半眼になった。ぞっとするほどの冷たい目だ。「東の魔女は気が短い。知らないかね?」
ヒュッとアリエスが息を飲んだ。ハールは思わず凍りついた。どう――いうこと?
「そっちの中身」老婆はハールを指すと言った。その爪は鬼のように鋭く尖っている。唯一魔女だと感じさせるもの――その指で指すと続けた。「中身は女の子だね。やっと身体が見付かったのね?やれ、とんだ番狂わせじゃないか」
え、えっ?途端にハールは意気込んだ。だが下手するとまたさっきのレリオットみたいに見えない手ではたかれてしまう。オマケにすっかりレリオットはさっきの件で怯えているようだし(本当情けないわね!)ハールは睨んだ。ま、待って、お婆ちゃん――じゃなかった東の魔女さん。立ち上がる。「どういうこと?それって!」
言うなり老婆は眼を細めた。その目が、ふいに獣みたいに緑に光る。ひいっ!声を上げレリオットが立ち上がった。もう限界なのだ――だが相手はこう重ねた。
「…魔女はただで知識を売らない」そう、囁いた。「相応の対価を払わぬことには。前来たときは大枚を置いていってくれたっけね。アリエス・ロッド・マクスェルさん」
ハールは目を剥いた。やっぱりだ――彼女はここに来ていたのだ。そして思った通り、彼女は尋常じゃなかった。一筋縄ではいかなかった。こんなの正直『ロイギル』の筋書きには完全に反しているけれど!!
「何をくれるの?お前さんたちは」
「………」アリエスが黙った。だが、考えていることは分かる――(…承知した)どうせ彼が言うのはこんなところだ。(ならば、全てが済んだら貴殿を賢者の地位に戻すことを約束する。もしくは、俺の寿命を…)
「…分かった」ハールは先んじて切り出した。「!!」とっさにアリエスが顔を跳ね上げる。「何を!コノカ」だがハールは目を据えた。
「……これでどう?」密かに笑う。「――
間が訪れる。い、一体……レリオットが――アリエスが黙っており、だがその時老婆の目が薄く光った。
「……百でどうだい?」
何を!!?アリエスが叫ぶ。構っていられず、「交渉成立ね……」ハールは笑うとガッと魔女と手を取り合った。
アリエス・ロッドがここに来たのは今から二年前のことだった――と、老婆は語り始めた。
レリオットは完全に怯えてしまっている。アリエスは比較的落ち着いているが、顔以外に本当褒めたところがないね、と老婆は睨んだ。対するハールにはデレデレだ。「こっちのお嬢さんは話が分かるみたいだけどねぇ」「本当よー少しはシャンとしなさいよ?『護国卿』」
「イバテル又はイドリシアの魔術をご教示願いたいと」老婆は記憶を辿るような顔をした。何だかんだ言って人間なのだ。手に触れられていると尚更感じる。「そう言ってね。一人でここまで……」
アリエス――一体どうやって?ハールは思った。仮にも名家のご令嬢。フラフラ荒野を歩いてこんな所まで来られるはずがない。だが、レリオットは首を振った。「あの時だ……二年ほど前、彼女をナルヴィエまで護衛したことがある。ナルヴィエには、女神崇拝の聖堂が有るんだ。彼女はその崇拝者でもあったから」
近くに来ていた。それでも随分離れているけど。
「どうやって来たかは知らない」老婆は言った。「だが彼女はこう言った。この世を嫌悪したと。このままでは、途方も無い闇路に踏み入りそうだ、とも――」
何の不足も無い裕福な人間。老婆は喋った。「そんな者に限って、闇を抱くことは少なくない。貪欲なのさ。もしくは、全てが作り事で、何もかも捨てて逃げ出したいと思っていたのかも――だが」
彼女はこう言った。自分をこの世から解き放ってくれ、と。父にへつらい、粛々と生き、心清い貞潔な乙女であるのに疲れた、と。ならばてっとり早い。死ねばいいのさ。だが彼女はそれは御免被ると言った。
そして続けた。出来るなら――そう、誰かと人生を交換出来ないか?と。例えば全く別の人間と魂を交換するなどして。イドリシアはあらゆる秘術を統べる至高の魔術。不可能は無い――
「出来なくはない」老婆は再び目を光らせた。どうやら力が篭ると目が底光りするようだ。「だがそれには相応の対価と、条件が要る。まず、入れ替わる人間が瀕死の状態であること」
途端にハールはハッとした。瀕死、まさか!!
「もしくは死を迎える寸前であること」老婆は指折り数えた。「そしてもう一つ、魂を入れ替えるということは
ハールは頬を強張らせた。アリエスが、絶句している。「私はその方法を彼女に教えた」
「で――でも!」思わずハールは口出した。「それなら、それだと私は本来、多分……アリエスと入れ替わってるはずでしょ?そして――」言い淀む。「ハールは、死んでるはず。少なくとも魂が供物にされてるはず、なのに」
「そこだよ」老婆は言った。「これは恐らく憶測なんだが……」
「魔術が、混乱したんじゃないのかね」老婆は言った。「たまにあるのさ。稀にね、人間の使うものだ、ミスが起きる…恐らくあの娘は、アリエスは――私の渡した幾つかの道具で、最初にお前さんを見付けたんだろう。気の毒に、鋼鉄の怪物に潰されて死んでしまうお前を。そしてこれしか無いと思った。捧げる魂は戦場の
だが、そこでミスが起きた。老婆は目をしばたいた。「魔法とは知っての通り心のものだ。意志の強い者、心の強靭な者が強い魔力を持つ。どうやら一方的だがお嬢さんはハールに面識があったんだろう。しかも死の瞬間、ハールを強く想った。普通は恋人や妻だったり子供だったりするんだが、それでアリエスと入れ代わるはずの魂があらぬ方向に引き寄せられて」
トン、とハールの胸を指す。「ここに入った。ハールの身体にね。アリエスはさっさと事切れたばかりのお嬢ちゃんの身体へ。じゃあ、残ったハールの魂は」
本来なら魔術の餌食だ。だが予想外のことに魔術が怯んだ、混乱したのさ。その瞬間、行き場をなくした魂は側にあるアリエスの体に入った――
とまあそんなところじゃないかね。老婆はふっと息を吐いた。「魔術は働かされ損さ。だが、稀にそういうこともある。ごく稀にね。これがことの次第だろう」
「………」ハールは――コノカは、流石にあっけにとられてしまっていた。だが老婆はそ知らぬ顔をしている。「ま、待った」レリオットが口を挟んだ。「では、つまりアリエス殿は――彼女の、この女性の身体で何処かで生きていると言うのか?」
「そうだよ」老婆はまた不機嫌そうに答えた。どうやらレリオットが嫌いらしい。「でなきゃ計算が狂ってアリエスの魂が間違って魔術に食われたかだ。こればっかりは見ないと判らないがね!」
言うなり立ち上がる。奥に歩いていくと、浅めの素焼きの壷を持ってきてドン!とテーブルに置いた。流石は魔術師だ。わあ、目を輝かせるハールの前で手早く窓辺に並んだ薬瓶を何種か掴み出してくる。お茶を水代わりに注いでしまい、瓶の中身を垂らすと何やら囁いた。『詠唱』だ。聞いたこともない世界の聞いたこともない言葉。「――あ!」
刹那、ボッと水面が燃え上がった。緑色の炎が立ち上がる。きゃ、あ!ハールが顔を庇うのと、アリエスが覗くのは同時だった。途端に色鮮やかに、ぱあっと水面に映像が浮かび上がり――
『きゃはははは!!』
その瞬間、ハールは固まった。ハールだけじゃない――レリオットも、アリエスも固まる。そこには誰かも判らない、髪を思いきり金に染めた女が映っていたからだ。茶髪なんてもんじゃない、モーレツゴールド。しかも厚化粧でどこのキャバ嬢だよと思わせるようなピチピチの衣服を身に着けており、
(やだ―――!!またやるんですかぁシャンパンタワー!飽きちゃったあ!)
な、なっ………ハールは絶句した。そこにはどう見てもホストらしい男が何十人と映っている。キャキャキャキャキャ、品も知性もない笑いが飛び交い、しかも胸の谷間全開。だ、誰よ!!
ちょっとおおお!!!ハールは叫んだ。これ、私!?思わず絶叫してしまう。コノカちゃんに乾杯―――!!騒ぎ声が反響した。いやーんもう社長さんたら~~~!!おさわり禁止~~!!
途端に水面が静かになる。どうやら転職でもしたらしく、長い間があってから老婆が言った。「……楽しくやってるようだね、随分………」
沈黙が訪れた。気が付くと、青ざめた顔で二人がこちらを見ている。何だか――何だか哀れむような、これ以上無く気の毒なものを見るような顔で目の下に陰まで作っており「わ、私じゃない!」ハールは叫んだ。「私こんなのじゃないから!!」
「……まあ」流石に哀れんだのか老婆が言った。「これで次第は知れたね。あのお嬢さんは、生きてる。つまりやっぱり睨んだ通りニアミスだよ。まあ元に戻せなくもないから、気落ちせず…」
戻れね―――――よ!!コノカは叫んだ。ていうか戻れないわよ!!あんだけ生き恥晒して帰れるかぁあ!!むせび泣く。あの野郎―――――!!!「ま、まあ落ち着いて……」
とんだ食わせ物だった。ハールは思った。歯がみまでして悶絶する。本物のアリエスは。清純で従順でおしとやかで、ハールを支えるはずの女性。なのに、何あれ……!!
結局魔女の家に泊めてもらうことになる。自棄を起こして、夜通し約束の『報酬のイケボ集』を手伝い、翌朝ほとんど眠れぬ状態でハールたちは家を後にすることになった。
「……まあ」アリエスは呟いた。次第は分かった……腑抜けたように独りごちる。「よほどこの世が嫌だったらしいな……ご令嬢にも痛み入る…」
それよりあたしに痛み入ってよ……ハールは嘆いた。魔女に別れを告げた途端、地鳴りがして元の円形闘技場のような場所に投げ出されたのだ。「人は見かけによらないな…」レリオットも呻いた。「長年見てきた彼女の姿……あれば全部外面か…」
ま、まあ。ハールは無理矢理頭を切り替えた。ともあれいくつか打開策が見えてきたわけだし?そう言い拳を打つ。原因は分かった、それだけで大進歩よ。それに」
魔女が言ってたじゃない?ハールは目を上げた。帰り際、アリエスが訊いたのだ。こればかりは彼があるものを対価にして。正直賛成出来なかったけど……「もう一度、入れ替わる方法がある。せめてハールは元の体に、私は女の体に戻れる方法があるって。相当危険はあるけれど…」
ハール様……レリオットが囁いた。対価に収めたものを気にしているのだ。構うな、アリエスは笑った。「俺とて同じだ。この世にそう未練もない」
不本意だが分かる気もする、そう続けた。空を仰ぎながら。「アリエスの想いも――」
…そんなこと言わないでよ。『ハール』は呟いた。こんな形でも、ハールに――貴方に会えて嬉しかったんだから?その声にアリエスが顔を向ける。本来なら決して話も出来ない相手。触れることも、会うことも叶わない貴方に会えたんだから――
「……」ふっとアリエスが笑った。そのとき、ハールは――コノカは、その顔に確かに他でもないハール自身の顔を見た気がした。不器用で、仏頂面で。けれども誠実なハール黒太子の顔。
「そうだな」そう言い目を閉じた。「君に言うべき言葉でなかった。見知らぬ俺を、そこまで気にかけてくれていたのだから」
え?ハールは目をしばたいた。レリオットも不本意ながらそこには同意する、というような顔をしている。魔法のニアミス――それを起こしたのは彼女だった。それは他でもない『奇跡』なんだろうけど。
(死の瞬間、ハールを強く想ったんだろう。普通は恋人や妻だったり子供だったりするんだが)
え、えっ。ハールは口篭った。二人は歩き出している。元の荒野に向かって。ま、待って、その……
ち、違うわよ?ハールは言った。思わず泡を食ってしまう。何がだ?アリエスは目をしばたいており、レリオットは白目でこちらを見ている。「別段そんなのじゃ!」「そんなのって何だ」「うるさい!ヘタレ護国卿」
ギャーギャーやり合う。アリエスは軽く笑っており、その背に追いつきながらハールは思った。
これからだ。ここから先がいよいよ本番なのだけど――
それでも一つ分かった事がある。こんな目に遭っても、これでも、どうも私嬉しいみたいだ。彼の役に立ててることに――
「行くか」アリエスが振り向いた。「〝コノカ〟」
ぱあっと世界が明るくなる。そんな気がした。それは錯覚だけど、彼が手を差し伸べてくれたみたいな。コノカは頷いた。
「――はい!」
筋書き通りじゃない。全く。だがそれも人生なのかも――ふいにそう思いながら、ハールはその背にぱっと駆け出した。