翌日、夜明けと共にレリオットは視察と称してこの街にやってきた。格好ばかりは手配書を持っている。「皆に告ぐ!」広場で大声で呼ばわり、書簡を街の中央にある石板に貼り付けながら言った。「この者はハール、隣国の後継者にして我が国ソマールの令嬢を浚い消えた大罪人である!この者を見た者は即刻我が国へ伝達を寄越せ!」
来た――ハールはそっと布の下で身を固くして思った。やだ、怖いわね……周りで女性がヒソヒソ耳打ちし合っている。「女を浚ったですって?」「魔物のようだこと!」
「怖いわねー」隣に居た女性が話しかけてくる。年若で、おそらくアリエスと同い年くらいだ。「は、はあ…」アリエスは困っており、「ねー!」ハールは急いで言った。「女浚うとかどーゆー神経してんのホント」「それね!最低!」
急いで宿に戻る。レリオットは、馬の蹄鉄が外れた、という名目で、一晩宿を借りたいと同じ宿にやってきた。男前は女と接近するのが速くても怪しまれないものだ。そこの殿方、一緒に一杯いかが?こちらの口にした偽の誘いに難なく乗る。「光栄だ。ご一緒しよう」
部屋に滑り込むなり、レリオットはサッと膝をついた。「ハール殿!」下官のように格式ばったお辞儀をする。「いい、顔を上げてくれ、レリオット」アリエスはさっと遮った。音消しと目暗ましの魔法を紡ぎ向き直る。「どうだった?アリエス嬢は――」
「率直に言って、異様さしか感じられません」レリオットはまだ膝をつきながら切り出した。端正な顔に険しい色が浮かんでいる。「手紙にも述べましたが、ルスティカとムーメラルダ」
あの二人は、有色の民の姉妹でした。そう言いマントを肩から降ろす。有色って?尋ねるハールにアリエスが「肌の色が赤褐色の民のことだ」答えて素早く頷く。「裕福な家がそのような民を雇うのは珍しくないな。で?」
「あれを雇ったのはアリエスです」レリオットは言った。「三年前、施療院で働いていたアリエスが、門前に仕事を探してやってきた姉妹を拾ったと。当初感謝していたようですが……」
それから半年後、奇妙なことが起こり始めた。
「姉のルスティカが、酷く怯えるようになって」レリオットは顔を顰めた。「屋敷を辞めて去りたいと。侍女は昔からメリンダが長ですが、ルスティカはたまに令嬢の部屋に入り掃除することも許されており――ある日を境に彼女の部屋に入るのを嫌がるようになったそうです。それも、執拗に」
姉さんどうしたの――妹は、そう聞いたという。妹は幸か不幸洗い場の仕事に回されている。最も厳しく辛い仕事だが、流石はマクスェル邸、賃金も高く使用人の待遇も良い。だから当初そう深刻に捉えなかった。姉が「ここに居ては駄目」と繰り返し言うのも一つのホームシックみたいに考えていたのだ。ある日を迎えるまでは。
その日、二年前のある日、ムーメラルダはいつも通り仕事をしていた。何の変哲もない朝、いつも通りの日常だ。だがそのとき彼女は――いや家じゅうの人間が物音を聞いた。それも尋常なものではない、誰かが、思いきり高所から音を立てて地面に叩きつけられたような物音を。
そのとき彼女は中に居た。屋敷の食堂で掃き掃除をしていたのだ。皿洗いでも、仕事が済めば別の仕事が任される。いいなあ、姉さん。私も背がもう少し高くなれば侍女になれるかな――そう思っていた矢先だったのだ。音がして、ゾッとして部屋を飛び出した。何があったのは即座に分かった。ドアを出るや否や鋭く制される。「ムーメラルダ!」
来ては駄目!誰かが怒鳴った。それで気付いた。屋敷の大階段――以前、アリエスが同じく転んだ階段で、その下に何かが長くなって倒れていたのを。悲鳴が上がり、足が見えた。全身の骨が砕けたみたいに女性が長くなっており、「ルスティカ!」
階段から足を滑らせて……!誰かが叫んだ。ひと目見て分かる凄惨さだ。巨人に掴まれ思いっきり叩きつけられでもしたような。「ああ、誰か、早くお医者様を…!」
だがそのときルスティカはまだ喋れていた。半死半生で、うわごとのように呟いていたのだ。お許しを、と。喋りません、喋らないから…
医師が来て、彼女を見た。魔法が長けた世の中だ。大概の怪我は治せる。ただ一つ、頸椎を損傷した場合を除いては――
ルスティカは頚の骨が折れていた。
泣きながら、妹は故郷に手紙を書いた。慈悲深いお館様は、侍女の災難に深く心を傷めてくれた。それはお嬢様もだ。施療院の恰好をして姉を看てくれる。暫くはここに居て良い、と。だが、ある日彼女は偶然気付いてしまった。
些細なことだった。ルスティカの使用着を、メリンダが処分したのだ。血に汚れておりもう使えないわ、と。だが妹は嫌だった。あれを着ていた姉は、彼女にとって憧れだったから。だから――
血の付いた制服を、彼女は拾ったのだ。古布を集めに来た商人に話しかけ引き取って。「これはまだ手元に残させて」と。案の定商人はあっさり承知した。血の付いた衣類なんて気味悪かったのだろう。
そして妹はそれを洗った。いつも使っている、下層使用人の洗い場で。そして気付いた。すっかり血の落ちた姉の衣類の首元に、あるものが浮いていたのを――
それは
ムーメラルダは訝った。それは、黒い使用着に黒インクで染められている。いびつな形にひしゃげ、だが明らかに人為的に書かれたもの。刹那、気が付いた。これは誰かがしでかしたこと。姉を意図的に、ああするためにやったもの――
(ここに居ては駄目)思い出した。姉の声を。駄目よムーメラルダ――
姉は日に日に悪くなっていた。お医者様の話では、少しはよくなるはずだったのに。だが、容態が思わしくなく、とうとう数日後姉が口も利けなくなってしまったとき、彼女は気付いた。犯人が一体誰だったかを。
ある日のことだった。使用人ばかりが出入りするはずれの庭――そこに通じる扉が、開いていたのだ。姉のことで頭が一杯で、放心したように迷い出た。一人になりたくて。だが庭に彼女が出ると、
女性が立っていた。この屋敷の令嬢、アリエスが。
彼女は干してある洗濯物の下に立っていた。そしてそのうちの一枚に手を伸ばし、下ろしていたのだ。異様な光景。いくら令嬢でも、こんな場所に立ち入るなんて。だが、
そのとき彼女はこう言った。ふいに、何百メートルと離れている場所を見るような目をして。
「こんなもの拾っては駄目よ…」
そう言い、衣類を一枚取る。姉の使用着を。そしてそのまま、ムーメラルダの横を通り抜け去ったのだ。何の動揺も、乱れも感じさせずに。
そうしてそれきりだった。
一連のことがきっかけで、彼女は姉にこんな仕打ちをしたのが他でもないアリエスなのだと知った。そして、気付いた。アリエスは姉を看病していた。甲斐甲斐しく。だが実際は姉は更に呪いを幾重にもかけられていて、
とうとうああなってしまったのだ。口も利けなくなるくらいに。
その夜、ムーメラルダは斬りかかった。寝室に入るところだったアリエスに。だが騒ぎを聞きつけた使用人に見付かって、その日を境に解雇された。お館様は容赦なかった。最愛の一人娘を殺そうとしたのだ。だが、
姉妹の先行きを思ってだろう。一切を伏せて、次の仕事先への紹介状を書いてくれた。だが妹はそれを面前で破り捨てた――
「あれは、悪魔よ」ムーメラルダは言ったという。うわごとで繋ぎ合わせた姉の言葉を聞かせながら、涙で震えて。「レリオット様、あれは鬼です。魔物よ――」
ハールは身震いした。何……それ。思わず囁いてしまう。レリオットも険しい顔をしており、アリエスがじっと黙って目を伏せた。やはりか……
獣の匂いは消えないものだ。そう、呟いた。え?聞き返す間もなくアリエスが訊ねる。「レリオット、その呪詛は?」
「出所ははっきりしませんが」レリオットは懐をまさぐった。呪いを極力無効化させる紙に書かれている。気を付けて――差し出すと、指さした。「この国のものではないようです。これは」
アリエスが紙を広げる。横から覗き、途端にガンと思いきり頭の中を殴られたような鈍痛が走りハールは悲鳴を上げた。「あっ!」
「見るな!」アリエスが制する。素早く握りつぶし、蝋燭の火にくべてしまうと、アリエスは言った。「これは――」
大丈夫か、レリオットがハールに尋ねる。な……ハールは身を竦めた。何なの?今の。途方もなく忌まわしくておぞましい何かだということは分かる。絶対に、触っちゃ駄目な類のもの。アリエスが言った。
「やはりな。これは……イドリシアの秘術だ。イドリシアは異端崇拝の黒魔術。これで彼女の正体を難なく暴ける」