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第二章 社畜、追われる身となる

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 昔、こんな言葉を聞いたことがある。「西空を太陽が暖めている。遅れた旅人が、足を速めている頃だろう――」

 何の引用かもう忘れてしまったけど――暗闇の中、焚き火を前に屈みながらハールは思った。そのタイムアップに間に合わないと、概してこういうことになるワケね。何もない不気味極まりない荒野の中、テントもなく野宿……

 パチ、パチと炎が爆ぜている。さっきからアリエスは寡黙そのものだ。そりゃあね、ハールは上目遣いになりながら思った。あんな目に遭って、急にこんな所に来てしまった訳だし……何と言うか……

目の前に、木の枝に刺されたトカゲが一匹こんがりと火に炙られている。ち、ちょっと待って…という見た目だが、臭いばかりは何故か美味しそうな。な、何てことを……横目で見ながらハールは思った。というかアリエス、こんなワイルドだったかしら…?

「……」黙って焼き上がったトカゲを差し出される。それを見た途端ハールは思わず下がった。「きゃっ!ちょっと!」

 今度こそ一緒に揃って黙り込む。「…………」盛大に、お互い苦しくなりそうなほど、長く黙ってからハールは言った。「お、お前…」

「何者だ?/何者?」声が見事に重複する。また沈黙。ややあってから相手は言った。「……お前は…」

 刹那、ハールは叫んだ。相手が無意識のうちにトカゲの焼き物をこちらに向けたのだ。きゃあっもう!ハールは喚いた。反射的に腕で身体を抱いてしまう。「止めてって言ってるでしょちょっと!!」「糞!」

 途端にアリエスはトカゲを投げ出した。出し抜けに手が伸びる。体術――思った瞬間、身体が覚えているらしく、反射的にハールは相手の腕をすり抜けた。続いて胸倉をつかまれぐるんと視界が回転する。な!?

 脚から着地する。考える間もなく互いに腕で首を絞め合い、「ぐ、えっ!」「貴様…!」

 何者だ!アリエスは今度こそ怒鳴った。お互いチョークスリーパー状態で膠着する。「ぐる、じい!離して!!あんたこそ何者なのよ!ねえ!!」

 言うなり力が弱まった。バッと互いに距離を取り合う。ゲボゲホ言っており、(や、やんの?)出来もしない格闘術の構えを取るハールに相手は叫んだ。「俺は――ハールだ!ハール第三王子、ハール・キルネスト・アルタイル・エステルシュタイン!」

 その瞬間、ふっとハールの頭に認識が来た。ショック――というよりもやっぱり、というような実感が駆け抜ける。ハール――コノカは、相手をじっと見た。やっぱりだ、彼女が、どういう訳か、私の最推しもといハールだった――

「……どう」コノカは呻くように呟いた。相手も当惑してしまっている。だが、その目は限りなく正気で――それがコノカを返って正気づけた。「……あんたが」呟く。「貴方がハール黒太子…」

 相手はじっと黙っている。ハールの――コノカの目の奥を覗くような顔をしており、そっと差し出すように言った。「――そうだ。察するに、貴女はもしやアリエス・ロッド嬢では……」

 違う。ハールは身じろぎした。その顔を彼女はじっと見つめている。ち、がうわ。ハールは首を振った。「違うのか?」俄かに相手が混乱したような顔をする。「アリエスでない?ではお前は一体誰だ!」

 知らないわよ!コノカは叫んだ。再び混乱の高波が押し寄せてくる。知ったことですか!後じさろうとするコノカに「待て!」相手は腕を掴み引き止める。まるっきり別れ話寸前のカップルみたいに。「答えろ!ではお前は何処の誰だ!何故その体に入っている?」

 知ったこっちゃないわよ!ハールは叫んだ。パニックだ。そんなこと知ってたら苦労しないっての!あんたこそ何?一体どうなってんのよ!これ、どう――

 だが、そのとき首に冷たい物がヒタリと当たった。ギクリとアリエスが硬直する。「な……」

 な、に?ハールは動きを止めた。首の冷たさに、それが刃物だとようやく悟る。何?まさか、もう追っ手がここへ――

「……そうだ」〝誰か〟は言った。「そこからまずは整理せねばならんな」

 へっ?ハールは振り向いた。その瞬間鼻先にチャッと何かが突き付けられる。アリエスが立ち上がり、間に割り入ろうした。「止めて、レリオット……」

 な、ん?ハールは動きを止めた。いつの間にか後ろにレリオットが立っている。その腕に例の隼を乗せており――『ぶさ子?』思った瞬間、それはハールを見て不快な声でギャッと鳴いた。


「これの後を追えばお会いできると思っておりました。ハール黒太子殿――」

 言うなり相手は膝をつき地面に跪いた。アリエスの前に片膝をつき頭を垂れる。コノカは――ハールはあっけにとられてそれを見ていた。何だろう?これじゃまるでようやく筋書き通りみたいな…

「貴殿が屋敷を出る頃に」レリオットは言った。「私も遠巻きに、窺っておりました。今朝から街におかしな動きが有りましたので……」

 マ、ジ?ハールはあっけにとられた。アリエスは事態が飲み込めず、目を微かに見開いている。「レリオット、君は……」

「まだストーカーやってたの?」ハールは思わず呆れた。途端にレリオットが叫ぶ。「失敬な!!ストーカーではない!立派な警邏の一環だ!」「人んちの前をウロついてたんでしょ?それをストーカーって言うの」「な……!」

「我が君」レリオットは、ハールを無視すると続けた。「ご存知無いでしょうが、貴殿のお父上、亡きエルメンガルド王は我が恩人です。家も財も無い孤児の私に、先王は全てを与えて下さった。その恩に報いられぬままあのようなことに……」

 だよね…ハールはちょっぴり頷いた。だからレリオットはハールの手助けをするのだ。隣国であれ、元は祖国。その忘れ形見を蔑ろには出来ないと。

「ご存知の通り、アルタイルは今や地獄と化しています」レリオットは言った。「貴殿の兄上によって恐ろしい政治が敷かれていると。ハール殿、貴方はもしや、それを止めに行かれるのでは…?」

 そーよ。ハールは言った。黙ってろ!思いっきり口調も顔も変えてレリオットがツッコむ。「仔細は判りかねますがこのレリオット、貴殿のお役に立てればと…」

「何でよ?」ハールは訊いた。「だから!」レリオットが再び口調を変えて突っかかる。「彼の父は私の恩人だと…!」

「……」ふいにアリエスがふっと目を伏せ笑った。それは他でもない、まごうかたなきハール本人の笑い方だ。「…気持ちは嬉しいが」そう言うとポン、と彼の首を素手で叩いた。それは王族のみがする行為、何かに捕らわれている者に『自由になれ』というサインだ。「今の俺にその力は無い。せいぜい弟を救うが関の山だ」

「しかし…!」

「この体を見ろ、レリオット」そう言いハールは自嘲気味に笑った。「女だ。どういう訳か、こうなってしまってはな。それにこれでは俺がハールと信じる者は居まい――兄を倒し、民を救おうにも、これでは」

?」

 途端にハールはピクリとなった。アリエスがこちらを見る。それをジロリと睨むとハールは低く言った。「…今何て言ったの?」

「……は?」

「この体を見ろ、ですって?」ズイ、と詰め寄ってやる。流石に気圧されし、アリエスが黙った。レリオットが庇おうとしている。「バカにしてる?まさか女だから、男と同じ働きは出来ないですって?」

「いや別にそういう訳じゃ……」

 あのね。顎を反らしハールは言った。初めて半眼になり相手を見下ろしてやる。高身長万歳、何て快感なのかしら?要らん考えを脇に押しやりハールは続けた。「全く、男はすぐこれだから……言っとくけど、あんたら男より女性は遥かに底力が有んのよ?」

 アリエスは引いた。レリオットも一緒になって後じさる。「体力賛美の男根主義ね、そんなのだから未だに差別なんてものが消えないのよ。女はお茶酌みしてコピー取って、年を取る前に結婚して寿退社するのがお定まり?だから育てる必要も無いし投資する必要性も無い?ふざけるんじゃないわよ。世の中にはね、あんたらみたいな勢いだけが売りみたいな脳筋よりも遥かに有能で使える女が大勢居るの。男女の力は平等よ」

「え、はあ……」

「二度と言わないで」ハールは睨んだ。「ついでに、弱音も無しよ。貴方はレリオットの言う通り祖国に行って――ユリジェスちゃんを助ける役目を果たすの。ついでに私が国を再建する芝居を打ってあげるから、そこから先はどうとでもすんのよ。いい?それは貴方にしか出来ないことなんだから」

「………」

 レリオットが目を見開いている。細い眉の下で目がまあるくなってしまっており、困惑も露に、アリエスは訊いた。「君は、一体……?」

「…アリエス嬢?」レリオットがハールに目配せしながらコノカを指す。「違うわ」その言葉に、これまでになくふんぞり返りながら、ハールは――コノカは胸を反らすと言い切った。

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