「……た」
声が聞こえる。控えめな声だ。酷く焦っているような――誰かがコノカの頬を叩きながら懸命に呼びかけている。
「もし、あなた!」
引っこ抜かれたように、コノカは目を覚ました。正確には「目を開けた」だ。頭のコードがまだ繋がっていない。誰かがこちらを覗き込んでいる。「ああ」ほっとしたように息を吐き出し、言った。「お目覚めになられましたわね!」
バタバタと足音が聞こえてくる。若い女の足音だ。お嬢様!アリエスお嬢様!叫んでおり、「お目覚めになられましたわ――殿方が。早く!」
アリエス・ロッド。コノカは思った。ハールの恋人だ。というより、後々恋人になるはずのご令嬢。確か、戦で敗れてしまい、倒れていたハールを見付けて救った良家の娘。羨ましいこと限りなくて、でも確かにお似合いの――完璧な二人。でも何でそんな夢を?「あなた…?」
金色の髪の娘が、覗き込んでくる。まだまどろんでいらっしゃいます、誰かが囁き、娘が手を触れた。コノカの額にだ。泉みたいな紺碧の瞳がおっかなびっくりこちらを覗き込む。「お身体は…?」
視界の隅に、何かが見えている。刃物みたいな鈍く光るもの。その瞬間コノカは起き上がった。
きゃあ!悲鳴が響いた。カシャーンと音がして何かが床に落ちる。半円形の銀の皿だ。上に絞った手拭が乗っている。「お嬢様!」
叫び声がして誰かがとっさに娘の前に割り入る。下女のメリンダ。焦げ茶色の髪を丁寧に束ねて、頭の後ろで団子にしている。「お下がり下さい!この――」
「待ってメリンダ」娘は言った。目を見開き、こちらの様子を窺っている。頭がフラフラする。身体が、重い――何だかいつもの倍くらいに…?
片腕をつき損ね、コノカは倒れた。お話の再現だ、頭の中でそう思う。そう、確か、ハールは彼女に助けられて、暫く屋敷に世話になるんだった。余りに口数が少ないせいで最初口が利けないと思われて。この後は、確か、
「……大丈夫?」娘はそう訊いてきた。慎重そうに、コノカの様子を窺っている。「つ、掴まって。無理はいけません。まだ横に――」
そのときコノカは鏡を見た。足元に大きな姿見が置かれている。女性用の大きな鏡で、見事な金淵細工のもの。部屋の様子が映っている。どこかの瀟洒な室内に、金髪の娘。そして――
彼女に支えられる男の姿。
コノカは鏡を見た。ややあってから自分を見る。大きな手。どう見ても、男の手だ。そして、
「……傷は、治しましたよ」相手はそっと言った。冷や汗をかくような顔をしている。コノカの様子を見て怯えているのだ。「千切れかけの腕も――」
何だって?コノカは目を見開いた。生憎それ所ではなかったのだ。ペた、と胸に触れる。鍛え抜かれた体。筋肉。そして袈裟懸けに伸びる大きな傷。
(む、胸は?ていうか身体が堅い?大きい?あと何か股に)
布団を捲る。その瞬間、ブツッ、頭の中で何かが切れ、今度こそコノカはこれ以上ないほど大きな声で(ぎ―――ゃあああああ―――――!!!)ありったけの悲鳴を上げ卒倒した。
世の中何が起きるかは分からないものだけど――
一週間後、街を歩きながらコノカはそんなことを反芻していた。しみじみと、噛み締めるほどにそう思う。傍らでアリエスが子供と戯れている。ようやく傷の癒えた彼を、彼女が町に連れ出したのだ。ろくに受け応え出来ない、そんな彼を「口が利けない」と今や誰もが誤解している。
「……最初は気味が悪いと思ったが」御者が街の人間と話しているのが聞こえてきた。剣を携えるコノカを――いやハールを見て笑っている。「あれで意外と良い人だよ。穏やかで」
「………」コノカは思った。そう――でしょうとも……アリエスは笑顔で子供の頭を撫でている。良家の娘らしくない、施療院で働く女のような格好に、大きな籐の籠を持ちながら。こちらを見ると、微笑んだ。「ねえ、手伝って下さる?」
籠を代わりに持ってやる。ついでに腕を貸すと、彼女はまごついた。「お、お優しいのね。ハール…?」
う……コノカは思った。とっさに泣き出しそうになってしまい慌てて堪える。
あれから知ったのだ。コノカはそっと頭を巡らせた。とんだ事態が起きたことを。夜中にこっそり起きて、散々確かめたのだから間違いない。胸に袈裟掛けになって伸びた傷、呪文を詠唱すると微かに赤く光る瞳。剣に刻まれた紋章。
烏の濡れ羽のような黒髪。長身。そして、鍛え抜かれた体躯。
信じられないけど、そうらしい。気付いて絶句してしまう。
ち……彼女は叫んだ。しゃがみ込み膝をつく。違う~~~!!違うの――――!!!思わず内心泣き叫んでしまう。そうじゃないのよ!!一番近いってのは、そういう意味じゃなくて!!
愛されたかったの!!膝をついた。ドサリと地面にそのまま突っ伏し嘆く。(好かれたかったのよハールに―――!!!)
だ、大丈夫かい……?御者が聞いた。わ、分からない……アリエスが呻いている。何かの発作かしら……密かに怪訝そうな顔をしている。目覚めて以来度々こうなるコノカを(いや、ハールを)見て周りの人間は持病の癪か何かと勘違いしている。「だ、大丈夫?ハール、もう帰る…?」
まさか自分が彼になるなんて―――!!
うわぁぁあん!!むせび泣く。ドン引きしている街の人間と、い、一体……フリーズしているアリエスの横で、ハールはひたすら突っ伏し続けた。
世界とは概して計算違いと予測不能で溢れている。
齢二十三才にして、コノカはその事実を悟ったのだった。山積みのパレットが突然崩れてきて、(恐らく)ぺしゃんこ。確かめる術はないけれど、彼女がここにいる辺り、大方そうなのだろう。俗に言う「転生」というやつで……
にしたって、ねえ……?薄く笑う。どうよ。いくらなんでも男なんかに……
ハール黒太子。コノカは頭の中で反芻した。生憎最終巻は読めなかったけど、おおよそ現在自分がどの時点に居るかは把握できている。おおよそ一巻の真ん中ぐらいで、そう、話とすればこの辺りのもの。
戦に破れ、姿を眩ましたハール。死んだと思われていた祖国では、その頃騒動が起きていた。それは、かねてから彼に(ハールにだ)冷たいことで知られていた王がむせび泣いたことで……
〝我が唯一の跡取りよ〟。この言葉から、二人居る兄たちは真相を知った。それは、自分たちの誰もが
そして第四王子を幽閉してしまうのだ。唯一ハールを慕っていた弟、ユリジェス。知らせを受けハールは絶望する。それを支えたのが令嬢アリエスで――
(今からでも間に合います)そう言うのだ。弟君を――あなたの国を、救わねば!
そして盟友の力を借り祖国へ舞い戻る。そこから後が、情報不足で……
今頃あっちじゃ大騒ぎよね……コノカは、ぼんやりしながら思った。気の毒にエルメンガルド王の遺骸が城壁に逆さ吊りにして曝されるんだもの。で、「あんまりです兄上!」と飛び出したユリジェスが捕らえられてしまい…
投獄されてしまう。母親譲りの少し紫がかった髪の毛に、銀色の目の美少年が……!
あの子は体が弱いのだ。確か獄中で病に倒れたはず。下手すれば死んでしまうかもしれなくて、とにかくそれだけは回避せねば!!
こうなっては仕方がない。コノカは目を据えた。お話がどんな形で完結するかは分からないけど、今言えることは三つある。それは、ハールの〝イケメン無口な黒太子のイメージ〟を頑として損なわないこと。次にハールの使命を全うすること。最後に、原作改悪でも何でもいい、この際残された推しだけは守り抜くことで……!!
この見た目じゃ報われないけど。涙ぐんだ。仮に弟を救ったとして、
妙なオーラを漂わせる。アリエスが(な、何なの……)僅かに引いており、(やらねば)コノカは目を光らせた。私がやり遂げねば……
何がどうあっても、こればかりは成し遂げねば…!