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後編


 詩織と言葉を交わさなくなってから、数週間が経つ。


 チームメイトが、心配して教室まで顔を覗かせに来てくれたけれど、適当な理由をつけて「部活をしばらく休むことにした」とだけ伝えた。


「顔、やつれてるよ。具合悪いの?」とメンバーの一人が気遣ってくれる。彼女に近づかれても何も不安な気持ちなどないのに、詩織だとダメだ。全身が緊張して、冷や汗が垂れてきて、何も言えなくなってしまう。いつもの私じゃなくなってしまう。


 その日は結局早退した。


 周りが気を回してくれるのが申し訳なくて、ただちに学校を出てしまいたかった。家に直帰して、自室にこもり、学生リュックを床に放り投げてベッドに突っ伏す。


 何も楽しみなどない。好きなテレビも、ネットも、本も、もう私を癒す道具ではなくなってしまった。


 いつからこんなにダンスに打ち込んでいたのだろう。


 踊ることが私の一部になったのは、いつ頃?


 動けない自分は、かっこ悪くて、柄じゃなくて、どうしようもない。


 じっとしている状態に耐えられなくなり、部屋の中で軽い準備運動をした。ボックスという足の動きを確認して、部屋に飾ってもらった姿見に自分を映す。今のところ、体型はまだ維持できているようだ。ずいぶん前にしなくなった振りつけを思い起こして、ポージングを確認する。感覚は忘れていなかったらしく、とりあえず見られる形ではあった。


 あの子は、今、何を思っているのだろう。


 あの子の瞳を見るのが怖い。


 あれ以来、詩織に自分の踊りを見られると思うと、委縮して体がこわばった。思う通りに動かせていた指先が、腕のしなりの一つ一つが、脳の司令塔が壊れたみたいに言うことを聞かなくなっていた。


「何、これ」


 自宅の部屋で、私は中央に突っ立ったまま、悪態をついた。こんなのは自分じゃない。詩織の何にそれほど怯えているというのか。心に問いかけてみても、まっとうな回答は返ってこない。頭と体がバラバラになってしまったかのようだ。


 目を閉じると、あの時の、彼女の冷たい声が残像のように蘇る。


 本条詩織のことを考えたくない。


 あの子は、どうしてあんな目で、私を見つめたのか。


 あんな——熱に浮かされているような。


 まさか、そんなはずはないのだ。


 けれど、否定すればするほど、もしかしてそうではないのかという疑念が、頭にこびりついて離れない。根拠などない。直感で、思うだけなのに。それが真実ではないかと、誰かが告げ口するような口調で私にけしかける。


 頭に鳴り響いている警告は、何だろう。


 しんとした部屋に、私の息遣いだけが聞こえる。


 音楽でもかけようかと、スマホを取り出してアプリを起動しかけた時、インターホンが鳴った。


 心臓が跳ね上がるほどびくついた。思わずスマホを落としてしまう。


 違う人だったらいい、と反射的に思っていた。


 祈るような気持ちでインターホンを覗き、そこに映る彼女の長い黒髪と、表情を失くした黒い瞳が視界に入った途端、私は泣きそうになった。


 居留守を使うことができただろうか。


 彼女は全身で私に訴えていたのだ。


 行かないで。


 美結、行かないで、と。


 震える足で玄関に向かい、ドアを開ける。


 詩織はすぐ近くに立っていた。


 私は挨拶もできず、硬直した。情けないほどに、かける言葉が出てこなかった。


「おっす」


 詩織は軽いニュアンスの挨拶をした。私は、頭だけを下げた。


 この後は、どうすればいいのか。


 胃がキリキリと痛み、空気の淀みを敏感に察知してしまう。


 何もできず、黙り続けていると、


「美結」


 懐かしい声が降ってきた。


 はっとして顔を上げてしまった私は、今世紀最大のバカな十代だったと思う。


 詩織は笑っていなかった。


「ダンス部、来ようよ」


 詩織は声の調子とは正反対に、氷のような表情をしていた。絶対零度の怒り。いつの間にかフェードアウトしていった他の子たちには怒りの一切も見せていなかったというのに、私に対しては、棘よりも痛い視線を向ける。


 私はかろうじて低い声を出した。


「もう、行かないんだ」


「何で?」


 詩織が被せるように返す。私の返事など待たないというように、圧をかけて委縮させてくる。彼女のこんな一面は初めて見た。


「理由を言って」


 言っても納得しないだろう、と言いかけた言葉は飲み込んだ。今の詩織は怖い。他には出さない態度を私にだけ出している。


 この子にとって、私とは、何なのだ。


 突然、意味不明な思考回路が頭をめぐる。


 品川美結という人間は、特に目立たない女子生徒で、ダンス部に入部して今までがんばっていたのも、特に感慨がわかないままの学生生活から抜け出したい、ほんのささやかな抵抗があったからで、動機といえばそんなものだった。


 それを詩織に伝えたところで、私の気持ちのほんのわずかでも伝わるとは思えなかったから、私は結局、黙った。


 詩織はますますイライラしていた。不機嫌さを隠そうともしないように、片足を地面にしきりに叩きつけている。中年男性以外にこんな行為をする人を初めて見た。


「何がいけなかったの?」


 詩織が口を開いた。


 思わず顔を上げる。その瞬間、激しい後悔が襲った。


 詩織の目が赤く潤んでいた。深く傷ついている瞳。こちらを非難する態度の奥底に、私への失望と、繊細な切なさが入り乱れて揺れているのを感じ取ってしまった。


「詩織」


 思わず名前を呼んだ。


 彼女は反応しない。


「私は」


 自分の声も情けないほどに上ずっていた。


 何を言えばいいのかわからない。


 首筋にナイフを突きつけられているかのように、何か言うのが怖い。


 視線をそらした。


 私に、あなたと向き合う勇気はない。


 感情は、相手に伝わったようだった。


「美結のバカ!」


 詩織は一言そう叫ぶと、うつむいたまま足早に立ち去って行った。


 後ろ姿がどんどん遠ざかっても、胸を裂くような後悔が襲っても、その場を微動だにできなかった私は、きっと何かの罰を待っているのだろうと思った。






 文化祭が始まる季節となった。


 私は主にクラスの出し物に協力的に参加し、部活には顔を出さなかった。メンバーも何も聞かず、糸の切れた関係は徐々に自然消滅しつつあった。


 二年生は学年の中心だ。必然的に、クラスは最後の文化祭に気合を見せていた。来年になれば有志だけでの参加になるし、学生生活も終わりを告げる。


 私はみんなに合わせながら、時折ちらりと、中庭にある簡易ステージの準備の光景を見つめていた。毎年ダンス部が催すライブがあり、お客さんはそこそこ入ってくれる。顔見知りの生徒たち、初めて来る一般参加の人たち。客席から見上げてくるみんなの視線が私たちに集中するその瞬間、パフォーマーとしての快感が全身に走るのを、毎年感じていた。


 楽しい時間だった。


 あの中に、私はもういないけれど。


 校内放送が入り、文化祭の始まりのお知らせが来る。


 お客さんが続々と学校に入場してくる。


 生徒のみんなは自然と拍手をして迎え入れた。


 私たちのクラスは喫茶店を出す。クラスTシャツにはお洒落なカフェをイメージしたお菓子類や飲み物のデザインが施され、背中の裏側には教室のみんなのデフォルメされた笑顔が全員分印刷されている。端から見て、いいクラスだと思う。今ここに流れている雰囲気も、賑やかで、明るくて、居心地がいい。


 私はここにいれて幸せだ。


 窓から見える中庭のステージは、見ないふりをした。


 三十分ほどして、私たちの出店は回り始めた。早めの昼食を取りに来た人と、クラスを応援しに来た家族たちでテーブルは埋まり、スタッフに扮した私たちはあわただしく動いた。


 なかなかに繁盛したお昼過ぎ、集客のピークが落ち着いた頃、私は休憩時間を与えられ、教室を出て他のお店を見物しに行った。


「美結、ずっと働いてたじゃん。えらいよ」と友人たちが励まし、私を快く送り出してくれた。彼女らとはタイムテーブルがずれてしまったので、一人で校内を散策する。


 模擬店があったり、アトラクション系を謳った出し物があったり、バラエティに富んだ教室は色とりどりの別世界のように映えている。普段は狭い教室に押し込められた自分たちの小ささを感じるのに、文化祭という異次元ワールドの時間では、この場所は幾重にも広い多重世界を構築しているような万能さがある。文化祭は不思議だ。そもそも、学校という場所そのものが、不思議な世界なんだ。閉じているくせに、その空間こそが、十代という私たちのリアルさを濃厚にさせている。学校がなかったら、私たちはこんなにも、自分たちが十代であるという事実を強烈に意識できただろうか。


 これが最後の文化祭なのだと、唐突に強く思った。


 やっぱり、行こうか。


 見に行ってみようか。


 避けていた場所を、回れ右して私は急いだ。


 本当は急ぐ必要なんかない。私はもう部外者で、青春はあの日に終わったはずで、後悔はありつつも時間をかけて納得はしたはずで。


 中庭に続く大広間の扉を、キイ、と開けた。


 外に出た瞬間、音楽が——ずっと耳に沁み込んでいた私たちの音楽が、激流のように流れ込んできた。


 ダンサンブルナンバーだ。


 洋楽アーティストのMVからインスパイアを受けたメンバーが、振りつけを考えて私たちに教えてくれて、自分たちで作り上げた、あの一曲だ。


 全米チャートで上位に食い込んだ若手アーティストのその曲は、耳になじみやすく、曲調もドラマチックで盛り上がりに長けた良曲であり、私も踊りやすかった。単純に、踊っていて楽しいと感じた。


 何より、本条詩織と並んで踊れた曲だった。


 前列で、私たち二人が向かい合って、または背中合わせで、交互に位置移動をくり返しながら自由に踊ってやったんだ。


 一瞬にして、今までの思い出が頭の中をかき回す。


 忘れられるはずがない。


 忘れようと思ったことが間違いだった。


 私は、何をやっていたんだろう。


 軽はずみに現場に居合わせたことを後悔した。


 目の前にある舞台は、ただの学校の出し物ではなかった。そこにはストーリーがあった。私たちが今までここで過ごした歳月、費やした時間、捧げた努力を、これ以上ないほど見せつける本条詩織がいた。


 踊っていた。彼女が、私の知らない表情で自分自身を表現していた。


 それは怖いようで、尊いようで、腹立たしいようで、美しかった。


 言葉にできないほどわけのわからない激情が私の中にあふれ、噴出して、弾けた。


 気づけば私は泣いていた。何かが自分の中をせめぎ合っていた。馬鹿野郎、なぜ私はあのメンバーの中にいないんだ。あの時勇気を出して彼女のそばに並ばなかったんだ。


 私は、あの未来を選ばなかった。


 本条詩織から、ずっと離れたかった。


 私はあの子のそばに近寄りたくなかったのだ。


 だってそうしたら、元の私には戻れないから。青春を謳歌しているようで、まったく乗り気になっていない「冷めたクールな私」を捨てなければならないから。そんな選択はできなかった。あの子にすべてを預けることはできなかった。


 熱いキャラじゃないから。


 私はあの子にそう言った。


 表現することを恐れていた。


 世界は残酷で、退廃的で、けれど時々ものすごく美しくて、それは一瞬にして過ぎ去る切ない事象なのだということを、私は知っていたはずなのに。


 窮屈だった。何もかもが。


 思い通りにいかない世の中のあれやこれやも、同じ机を並べて同じ年の私たちが同じ場所にぎゅう詰めにされている現実も、すべて吹き飛ばして、今この瞬間だけが本当の私たちなのだと、声高に叫びたかった。


 彼女が、今まさに、それをやっていた。


 本条詩織の、鬼気迫る顔。


 今までに見たことのない真剣な表情で、私の知らない本条詩織が、踊っていた。彼女にとって、ダンスだけが自分の手段なのだと、痛いくらいに伝わるほど、いっそ目を背けたいほど、真摯なパフォーマンスだった。


 本条詩織は、怒っている。


 直感的にそう思った。


 詩織が、私に怒っている。臆病な私に。一緒の道を選ばなかった私に。これはひどい裏切り行為だと、詩織は私に訴えていた。


 だって。


 言いかけた言葉はうまく舌に乗らず、上滑りして消えた。


 私は唇を噛んだまま、拳を固く握りしめていた。


 だって、あんただって、知ってたじゃない。


 私はダンスができないんだって。


 もう、いいんだって。


 何で今さら、そんな顔で踊るんだ。覚悟を決めたように手足を伸ばして完璧なポージングを決めるんだ。


 一挙手一投足、詩織が動くたびに、会場中が息をのんでいた。誰を見渡しても私語をしている者などいない。みんなが呆然と詩織に見とれていた。目を奪われていた。いっそ気圧されているほど、引いているほど、誰も彼もが身動き一つできていなかった。


 その瞬間、わかった。


 本条詩織はプロになる。


 プロの世界へ行くんだ。


 もうずっと前から決意していたのだろう。毎日私とだべって、ふざけ合って、気晴らしに誰かの悪口や噂話をしていた時でさえ、すでに詩織は決めていたのだ。表現の道を進むと。そして、立ち止まった私を、責めている。


 食っていけるかどうかも、わからない道なのに。


 それでも、詩織は行くんだ。


 出来るなら、私と一緒に行きたかったんだ。


 喉元を熱い感情が込み上げてきた。


 何と名前をつけていいのかわからない。さっきからずっと発作のように暴れている心臓が痛い。お腹の辺りがギリギリ軋んで、自分が何に痛みを感じているのか、うまく処理できなかった。


 私は、足を踏み出していた。


 観客のみんなが固まって動けない中、私はゆっくりとステージに向かって歩み寄った。


 一緒に踊っていた時の思い出が、残像となって私の瞼の裏に焼きついていた。


 思い出は、燃え上がった。


 何も残すものなどない。


 私は舞台によじ登った。


 みんながぎょっとしたのがわかる。


 詩織のダンスのプログラムは、かつて二人で組んだフォーメーションのままだった。細かい振りなどは多少変えて、詩織は一人センターの位置でそれを披露した。私への当てつけであると、気づいていた。


 詩織の馬鹿。


 あんたなんか大嫌い。


 逃げる私を追いかけるあんたが嫌い。往生際の悪いあんたが嫌い。何をどうしても、私を忘れてくれないあんたが、死ぬほど嫌い。


 涙はかっこ悪いほどにあふれ出て、ぐしゃぐしゃになった顔のまま、私は無我夢中で踊った。


 客席のみんなが唖然とした表情で私たち二人を見上げている。


 やがて誰かが何らかの声を発し、次第にそれは声の代わりに手拍子へと移り、パラパラと打ち始めたリズムはどんどん大きくなって一体感が出来上がり、一つの集団のコールレスポンスに変わった。


 アグレッシブな音楽が、私と詩織を突き動かす。きっともうこれ以上夢中になれるものなどない。私は逃げて、詩織は進んで、二人の共同体は崩壊した。これが高校生活最後の日なんだ。唐突に実感した。制服を着るのも、時間割に文句を言うのも、周りと同調したり喧嘩したりするのも、今日で終わりなんだ。それは寂しいようで、嬉しいようで、でも何かが解放されて、またがんじがらめになった。私たちは一生、日常から逃げることはできなくて、でも必死に何かを訴えたいから、何かしらの仕事をして、表現をして、年を重ねていくんだ。


 音楽がもうすぐ終わる。私たちの決闘が終わる。


 手を懸命に空に向かって伸ばす。春先だというのに暑い日光が、私の体をあぶり出す。


 実際、踊った時間は数分にも満たなかった。


 激しい息を切らして踊り切った私たちに、拍手の音響が響いた。


 私と詩織は、互いに目を合わせることなく、下に向かって手を振り続けていた。






「まさか乱入するとは思わなかったけど」


 詩織はふっとニヒルに笑って、ペットボトルの飲み物を飲む。こういう表情は私の前でしかしない。詩織はいつだって時と場によるTPOがうまいのだ。


「楽しそうだったじゃん」


 ニヤニヤしている彼女の頭を小突きたい衝動にかられたが、詩織の方も存外楽しそうにこの状況を見ているため、私は結局いつもと同じように、しらを切った。


「まあね」


 詩織はじっとこちらを見ている。うかがうように、飲みかけのペットボトルを無言で差し出す。


 手を伸ばし、飲みかけのお茶を受け取って静かに口に運ぶ私を、詩織は何を言うでもなくただ見つめている。


 文化祭の終わり、ダンス部のメンバーは私を入れて、部室で最後のミーティングを行った。後輩たちが花束と色紙を送り、部費で買ってきたジュースを開けて宴会のように騒いだ。私たち二年生も一緒に馬鹿笑いをし、よそから見たら青春そのものの笑顔を振りまいて、みんなで泣いた。先輩、お疲れさまでした。こちらこそ、今までありがとう。互いに幸せな日々だったと、確かに思えた。それを口に出して伝えて、会はお開きとなった。この後数人がカラオケでまた騒ぐ予定だ。それが終わると、本当にダンス部は代替わりとなる。私たちの、別れの時間だった。


「カラオケ、行く?」


 詩織が聞く。


「……うん、行こうかな」


 私はうなずいた。


「みんな、受け入れてくれて嬉しかった」


「本当だよ。仲間の懐の深さに感謝しな」


「いや、おっしゃる通りです」


 ありがとう、と私は伝えた。


 一緒に踊ったメンバーと、何よりも、今ここにいる彼女に。


 部室には私たちの二人しかいなかった。踊っている時はあんなにもまぶしいと感じた日射しが、今は雲に隠れて、花曇りのような涼しい空気を運んでいる。窓を開けているせいで、外の風がよく吹いた。


 いい風だな。


 誰に聞かせるわけでもなく、私は心の中でつぶやく。


「詩織」


 顔を彼女の方に向ける。


 別れの時刻が近づいてくる。


「何で、許してくれたの? 私が逃げたこと」


 愚問だというように、詩織は少し口の端を意地悪に曲げた。彼女はこんな風に、私の前でだけ素の自分を見せる。


「あんたも、苦しんでたから。お互い様だよ」


 さっぱりと快活に詩織は答える。いつだってこの人は迷いのない答えを示してくれる。


 甘えていたのは、支えてもらっていたのは、私だ。


 何か言おうとして、でも何を言ったらいいのか迷っているうちに、詩織は私の近くに来ていた。


 頭に手が置かれ、そっと撫でられる。


「最後に踊れてよかった」


 決め台詞も、彼女が言うのだ。


 私が言えないことを、先回りして代わりに告げてくれるのだ。


「詩織。あのね、私」


 影が下りる。


「黙って」


 気づくと、詩織の顔が目の前にあった。


 彼女の瞳に映り込んだ私の表情は、泣き笑いのような情けない少女になっていた。小さな頃の、無力な私のまま、何もまとっていないありのままの私が、彼女の前に差し出されている。


 唇に熱い感触がふれた。


 やっぱり、そうなんじゃん。


 私がずっと抱えていたものを、詩織も抱えていたというのか。


 滑稽だ。何という喜劇だろう。


 笑いたくなるような、でもやっぱり泣きたいような、説明のつかない気持ちが押し出される。


 誰も見ていないなら、世界に二人きりなら、怖いものなど何もない。


 私は手を伸ばし、震えている詩織の体を目いっぱい抱きしめた。


 ——明日、世界が死んでもいい。



   了




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