目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
まとわりつく冷気

 真夏の夜、気温がまだ下がりきらない中、私はマンションの前で乗客を待っていた。風がほとんど吹かず、街灯がほんのりと温かみを帯びている。乗客が到着するのを見て、私はタクシーのドアを開け、女性を迎え入れる。彼女は少し汗ばんだ顔をしていたが、車内の冷房にほっとした様子だった。



「冷房の効き具合はいかがでしょうか」と尋ねると、彼女はリラックスした表情で答えた。「ちょうどいいわ」



その後、私たちはしばらく静かに走行していたが、突然彼女が口を開いた。



「幽霊は冷気をまとうと言うわね」



 その言葉は唐突だった。思わず私は運転席から後ろを振り返り、彼女の顔を見た。



「そうらしいですが、本当かどうか……」と私は無難に返す。



 彼女は真剣な表情で続けた。



「それが……うちのマンション、幽霊がいるに違いないわ。信じられないかもしれないけれど」



 私はその言葉に驚きつつも、冷静に尋ねる。



「何か根拠があるんですか?」



 彼女は少し考え込んでから答えた。



「私の部屋は一階なんだけれど、やけに寒いのよ。冷房は入れていないのに、まるで冷気が漂ってくるみたいで。これを幽霊のせいにする以外に説明がつかないわ」



 その説明には不自然な感じがして、私は眉をひそめた。



「確か先ほど見たとき、上の階からエントランスまで吹抜でしたね」



 彼女はうなずく。



「こういう考えができます」と私は続けた。



「冷たい空気は重いので下にたまりやすいんです。逆に温かい空気は上に上がりやすい。吹抜けがあると、冷たい空気が一階に集まりやすく、コールドドラフトと呼ばれる現象が起こるんです」



「なるほど、科学的に説明がつくのね」と彼女はほっとした様子で答えた。



「安心されましたか?」と私は聞いた。



「ええ」彼女はそう言うと、少し気を取り直したようだった。



 タクシーが目的地に到着し、私は後部座席を振り返った。しかし、そこには彼女の姿はもうなかった。まるで最初から存在していなかったかのように、シートがひときわ静かだった。



 私は驚きと共に、運転席に戻りながら、今の出来事を頭の中で整理していた。幽霊の話は科学で説明できるとしても、彼女が突然消えてしまったことには説明がつかなかった。冷たい空気の影響か、それとも別の何かか、未だに謎は解けないままだった。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?