「あの、このお札使えますよね?」
乗客が差し出したのは、夏目漱石の肖像が描かれた旧札の1000円札だった。手のひらに載せられたその札は、折り目がほとんどなく、まるで新品のように見える。私はすかさず札の真偽を確認し、「もちろん使えますよ」と答えると、乗客の顔に安堵の色が広がった。
だが、この旧札には一つ引っかかる点があった。一昔前の旧札ではなく、さらにその前の旧札とは非常に珍しい。前は野口英世。そして、その前が夏目漱石だ。さっきちらりと見たときは、すかしもしっかり入っていたし、偽札の可能性は低いだろう。
それにもかかわらず、なぜこのような古いお札がここにあるのか、謎が私の好奇心を刺激した。年配の男が持つこの旧札には、きっと何か特別な事情があるに違いない。私は探偵のような好奇心を持って、気になる事柄に注意を向けることにした。
直接的に質問するのは失礼かもしれない。そこで、何気ない会話の中から情報を引き出すしかないと考えた。
「そういえば、ついこの間お札が変わりましたね。新札は北里柴三郎ですが、まだまだ見慣れないですね」
私の言葉に乗客は、同意を示すように頷きながら、「まったくです」と返事をした。その反応から察するに、乗客は新札に対してはまだあまり馴染みがないようだ。
しかし、旧札に対する感覚はどうやらかなりのものらしい。これだけ折り目が少ないお札を持っているということは、何か特別な理由があるのではないかと考えた。
「旧札なら記念に取っておくこともあるが、それをあえて使うのはなぜだろう」と、心の中で疑問が浮かんだ。もしかすると、何かしらの特別な事情があるのではないか。ふと、ひらめいた考えがあった。
「もしかして、お客様のお仕事は骨董品の鑑定か何かですか?」
私の言葉に、ミラー越しに乗客の微妙な表情の変化が見えた。何か予想外のことを言われたようだ。
「いや、旧札に折り目が少ないのは記念に取っておかない理由があるのではないかと考えました。そこで、骨董品などを取り扱っていれば、旧札を持ち込む客もいるのではないかと思ったのです。折り目がないお札は珍しいですから、その価値を評価されなかったお客が、その場で骨董品を買うのに使うのかと推測しました」
私の推理に対し、乗客は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに微笑んで答えた。「見事な推理です。でも、一つ間違いがあります」
「間違い?」
私の心に疑念が沸いた。どこで推理が外れたのか、私には全く分からなかった。
「私がお札を持ち込んだ側なのです。この年ですから、旧札に未練はなくてね」
「持ち込んだ側だったのか」と、私は内心で驚いた。いい線を行っていたと思ったのに、推理が外れたことに少し悔しい気分が込み上げてきた。
外れたのは久しぶりのことだ。あの名探偵シャーロック・ホームズでさえ、時には推理が外れることがあるのだから、こうした瞬間もあるのだろうと自分を納得させるのだった。