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果てしなくディープブルー

「運転手さん、この前、深海探査船が捉えた映像を見ましたか?」



 後部座席から女性の声が響いた。低くもないが、やや落ち着きが感じられるトーンだ。バックミラー越しに視線を向けると、彼女は窓の外を眺めながら、ふとした思い出に浸っているような表情をしていた。私は軽くうなずきながら答える。



「ええ、見ました。深海の映像はいつ見ても圧倒されますね。あの未知の世界には何か特別な魅力があります」



「そうですよね!」と彼女は勢いよく答えた。その声には興奮がこもっている。「そこでね、私、深海を題材にして小説を書こうと思うんです。あ、もちろんアマチュア小説ですけどね」



 彼女の表情がわずかに明るくなり、その小さな身体に秘められた情熱が伝わってくる。アマチュア小説家か――。乗客がこんな話を持ち出すのは珍しいことだが、私は興味を引かれた。言葉を選びながら、自然に話題を引き出す。



「それは面白いですね。深海を題材にするなんて、何か特別なきっかけがあったんですか?」



 彼女は一瞬、考えるように視線を空に向けたが、すぐにまた口を開いた。



「特に深い理由があったわけじゃないんですけど、あの映像を見た瞬間に何か感じたんです。深海にはまだ解明されていない謎がたくさんあるでしょう? それがとてもロマンチックだなって思ったんです」



 私はその言葉に頷きながら、ハンドルをゆっくりと回し、次の角を曲がる。彼女の情熱がひしひしと伝わり、話を聞いているだけでもこちらまでインスピレーションを刺激されるようだった。しかし、彼女の声色が突然少し沈んだ。



「でも……」彼女は言葉を切り、小さなため息を漏らす。「当然、資料を求めて書店に行ったり、ネットで色々調べたりしているんですが……」



 先ほどまでの勢いが急に失われ、言葉が小さくなっていく。まるでその思いが自分の中で渦巻いているかのようだった。私はその変化に気付き、どうしたものかと思いながら、視線を彼女に向ける。



「どうされましたか?」私は慎重に問いかける。彼女の沈んだ様子が何か深刻な問題を抱えているのかもしれないと感じた。



「タイトルに『ディープブルー』を入れようと思っているんです。深海にぴったりだと思って……。でも、先行作品を見ると、『ディープブルー』という単語が入った本や映画がいくつもあって。パクリだって思われないか、心配で……」



 彼女の言葉は徐々に不安に満ちていく。まるで、自分の考えが他者の評価に押しつぶされることを恐れているかのようだ。私はしばし考え込んだ。いくら深海について調べているとはいえ、やたらと「ディープブルー」に出くわすのは奇妙に感じた。



 信号が赤から青に変わる瞬間、ある考えが浮かんだ。それは心理的な現象――彼女の不安を解消するための鍵かもしれない。



「カラーバス効果ってご存知ですか?」



 彼女は怪訝そうに顔を上げた。「ガラパゴス効果?」と、少しトンチンカンな答えが返ってくる。



「いえ、カラーバス、です」と私は笑いながら言い直す。



「それが今回の話とどうつながるんですか?」



 彼女の疑念を解くため、私は説明を始めた。



「例えば、あなたがディープブルーという単語を作品のタイトルにしようと思っているとしましょう。すると、その単語に無意識に反応してしまうんです。人間は、一度何かを意識すると、それに関連する情報が自然と目につくようになる。これが『カラーバス効果』と呼ばれる現象です」



「なるほど……。つまり、深海のことを調べているつもりが、無意識のうちに『ディープブルー』という単語に反応していたってことですか?」



 彼女はようやく腑に落ちたようだ。私は軽くうなずきながら、続けた。



「そうです。あなたが特にディープブルーを意識しているからこそ、あちこちで目に入るようになってしまっているんです。ですから、気にする必要はありませんよ。多くの人がディープブルーという単語を使っていても、それはただ単にあなたがそれに敏感になっているだけのことです」



 彼女はしばらく考え込んだ後、ほっと息をついた。そして、笑顔が浮かび上がる。



「運転手さんの話を聞いて、不安がどこかに飛んで行きましたよ。なんだか肩の荷が下りた感じです」



「それは良かったです。素敵な作品ができるといいですね」と私は軽く微笑んだ。



 彼女は明るい表情で窓の外を眺め、車内には再び穏やかな静けさが戻った。海のように深く、そして青い世界――そんな静かな満足感が、タクシーの中を包み込んでいた。

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