「すみません、ここまでお願いします」
女性の声に振り返ると、後部座席に座る客がバッグを足元に置いている。小柄な女性で、目元に少し疲れが見えるが、微笑んでいる。その表情に私も軽く微笑みを返し、メーターをリセットして走り出す。
私はエンジン音に耳を傾けながらハンドルを握る。午後の日差しが強く、街中を走るタクシーの窓ガラス越しに、熱気が外から伝わってくる。運転中、ふと後部座席の女性が窓の外を見つめ、ため息をついているのが視界に入る。
「何かお疲れのご様子ですね」
私は、少しリラックスしてもらおうと思い、軽く声をかけてみた。
「ああ、そうなんですよ。今日は色々あって……。その話をしてもいいですか?」
「もちろんです。どうぞ」
女性は少し身を乗り出しながら、ため息交じりに話し始める。
「実は、私、料理研究家なんです。最近はよく友人と一緒に料理をするんですけど、今日はそのことでちょっとモヤモヤしてて……」
料理研究家という肩書に少し驚きつつも、私はそのまま話を聞くことにした。
「今日、男友達と一緒に料理を作ったんです。特に腕を競うわけでもなく、普通に楽しみながら料理してたんですけどね。ちょっとしたことがきっかけでケンカしちゃって……」
「ケンカ、ですか?」
「ええ。胡椒を使う料理を作ってたんですけど、友人の作ったものがやけにしょっぱかったんです。どうも塩と胡椒を間違えたみたいで。でも、友人はそんなことしていないって言い張るんです。それでお互い、意地になっちゃって……」
女性は苦笑しながら続ける。
「彼は頑固だから、一度自分が正しいと思うと、なかなか認めないんです。私も少しムキになっちゃって……。結局、料理は美味しかったんですけど、なんだかモヤモヤが残っちゃって」
私はしばらく考え込み、信号待ちで車を止めた。目の前の信号が赤に変わり、タクシーのエンジン音が静かになる。
「まあ、そういうこともありますよね」
私は無難な返事をしてみる。誰だってミスはあるし、料理中の勘違いなんて日常茶飯事だ。
すると、後部座席から女性の声がふいに響いた。
「あ、青になりましたよ」
私はその言葉にハッとし、すぐに車を再発進させた。運転に集中しながら、さっきの会話が頭をよぎる。胡椒と塩を間違えるなんて、普通ならすぐ気づくはずだ。でも、彼は自分のミスを認めなかった。何か他の理由があるのかもしれない。
ふと思いついた可能性が頭の中をよぎる。
「もしかしてですけど、塩と胡椒のビン、蓋が緑と赤になっていませんか?」私は運転しながら、さりげなく尋ねてみる。
後ろから驚いた声が返ってきた。
「そうです! どうして分かったんですか?」
私は少し微笑みながら、さらに話を進める。
「もしかすると、その男友達、色盲かもしれませんね。緑と赤の区別がつかないことがあるんです」
「えっ、色盲……?」
女性は驚きながら、その可能性を考え始めた様子だ。私は言葉を続ける。
「色盲の人は、赤と緑の区別が難しいことがあります。だから、塩と胡椒のビンを見たときに、彼にはどちらがどちらか分からなかったのかもしれません。それで、彼自身は間違えたとは思っていないんじゃないでしょうか」
「なるほど…そういうことですか……」
女性は納得したように、小さくうなずいている。私はさらにアドバイスを加えた。
「今度から、ラベルを貼ってあげたらどうでしょう。『塩』とか『胡椒』とか、文字で区別できるようにすれば、きっと間違えることはなくなるはずです。ただ、彼が色盲だと知られたくないかもしれないので、さりげなく配慮するのがいいかもしれませんね」
女性はしばらく考え込んでいたが、やがて微笑みを浮かべた。
「確かに、それが一番良さそうですね。彼、そういうことを気にしそうですし……。ありがとうございます。そうします」
「お役に立てたなら何よりです」私は軽く笑いながら答えた。
女性は気持ちが少し軽くなったのか、窓の外を眺めながら穏やかな表情をしている。目的地まであと少し。車内には心地よい静けさが流れていた。
やがてタクシーが目的地に到着すると、女性は財布からお金を取り出して私に手渡した。
「本当にありがとうございました。気持ちがスッキリしました」
「いえ、こちらこそ。さりげなく配慮してあげてくださいね」私はそう言って、タクシーのドアを開けた。
女性がタクシーを降りると、私は再びハンドルを握り、次の乗客を迎えるためにタクシーをゆっくりと動かし始めた。車内に残る微かな温もりが、さっきの会話の余韻を感じさせる。日常の中で、小さな謎が解けた瞬間の静かな満足感が胸に残っていた。