私は、ナビに表示された目的地へ向かいながら、牧田町という静かなエリアにある介護施設を目指していた。「お客様からお電話がありました。牧田町に急行してください」と無線で指示を受けたからだ。
施設に到着すると、エントランスの前に一人の壮年の男性が立っていた。背筋が少し曲がっていて、着ているスーツも若干くたびれた感じがするが、その表情にはどこか知的なものを感じさせる。恐らく、彼が今回の客だろう。
「折山様でしょうか?」
私は声をかけた。彼はすぐにこちらを振り向き、少し驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「ええ、そうです。思ったより早かったですね。前回は結構待たされたので少し心配していましたが……。あ、あなたの会社ではありませんよ。他のタクシー会社の話です」
彼は慌てて付け加えながら、タクシーに乗り込んできた。その動作には、どこか余裕が感じられる。どうやら話し好きなタイプのようだ。すぐに、彼は自分のことを話し始めた。父親がこの施設に入居していること、今日はその父親を訪れてきたこと、そして彼自身が中学校で教鞭をとっている教師であることを。教師という職業柄か、言葉は丁寧で説明がわかりやすい。
しかし、話が学校の話題に移った途端、彼のトーンが少し変わった。声に沈黙が混じり、先ほどまでの勢いが消えてしまった。何か気にかかることがあるのだろうか。私は彼の話をじっくりと聞きながらも、運転に集中する。
彼はしばらくの間、言葉を選ぶように黙っていたが、やがてゆっくりとした口調でこう言った。
「優等生が急に凡人になったといったら、あなたは信じますか?」
私は少し考えてから答えた。
「もちろんです。誰だって、ずっと同じ調子でいられるわけではありませんから。優秀だった子が急に成績を落とすことも、特に珍しいことではないでしょう」
その答えに、彼は軽く頷いた。しかし、表情からはまだ何か言いたげな様子が見て取れる。
「それが、少し事情が違うんです」
彼は再び口を開いた。
「どういうことですか?」
私は少し身を乗り出し、興味を示した。彼の話の展開に、単なる成績の問題ではない何かが隠されているように感じたからだ。
「彼女は双子なんです。片方は優等生、片方は普通の子。しかし、ここ最近、その優等生だった方の成績が急に悪くなったんです」
私は首をかしげた。それだけであれば、家庭環境や体調の問題も考えられる。それに、子供は成長過程でさまざまな変化を経験するものだ。何が問題なのだろう?
「成績が下がった……それだけなら、まあ理解できます。では、運動テストの結果まで悪化したとしたら、どう思いますか?」
私は一瞬言葉に詰まった。運動能力の低下は、体調や怪我の影響かもしれない。しかし、彼の言い方には何か他の問題があるように思えた。
「その日の体調次第ということもありますから……」
私の答えに、彼は静かに頷いた。
「確かに、それも一理ありますね。では、次の質問です。もし、その子が私からの大切なお願いを忘れてしまったら?」
「お願いですか?」
私は驚いた。成績の低下や運動能力の変化とは違い、精神的な側面に関わる問題だ。彼は少し笑いながら続けた。
「そんなに大げさなことではありませんよ。来週の陸上大会で、学校代表として出場してほしいと頼んだんです。それを、その子はすっかり忘れてしまったんです」
「それは……確かに不思議ですね。そんな名誉あるお願いを忘れるとは、普通では考えにくいことです」
私の答えに、彼はようやく満足したような表情を見せた。
「そうでしょう? 誰かに話しても、あまり信じてもらえないことが多かったので、あなたが同じ意見で安心しましたよ」
車内は再び静かになり、私はアクセルを踏みながら目的地へと向かう。彼の話はどこか引っかかるものがあった。優等生だった子供が急に変わってしまった理由は一体何なのだろう? 彼はまだ何か話してくれるかもしれないが、無理に話を引き出そうとはしなかった。お客との間合いを大切にしながら、私は彼が自然と口を開くのを待つことにした。
男性の言葉が途切れた車内は、一瞬だけ静寂に包まれた。しかし、その沈黙はすぐに破られた。
「もう一つ、不思議なことがあるんです」
彼は低い声で続けた。その口調には、何か重いものを抱えているかのような、慎重さが感じられた。
「何でしょうか?」
私は自然と姿勢を正し、彼の次の言葉を待った。
「双子のもう一人が、同じころから学校に来なくなったんですよ。どうやら酷い風邪をひいているようでして……」
彼は窓の外を見つめ、少し遠い目をしていた。
「今年の冬は例年より寒いですから、風邪をひく生徒も多いでしょう。それだけなら、特に気にしませんが……」
私もこの季節の厳しさを実感していた。今年は特に冷え込みが厳しく、街中でもマスクをした人が目立っていた。
「ええ。それだけなら、確かに特別なことではないでしょう。しかし、この双子に関しては、話が少し違うんです」
彼は静かにため息をついた後、私の方を見て語りかけた。
「どういう意味でしょうか?」
「彼女たちは、一卵性双生児なんです。それを考えると、私はどうしてもある考えが頭から離れなくてね……。もしかしたら、二人が入れ替わっているのではないか、そう思うんです」
その言葉に、私は一瞬息を飲んだ。双子が入れ替わるというのは、確かに聞いたことがある話だが、それが今回の状況に本当に当てはまるのだろうか?
「入れ替わりですか……。もしそうなら、これまでの謎の説明にはなりますね。ですが、どうしてそんなことを?」
私は相手の言葉を受け止めながらも、疑問を抱かざるを得なかった。双子が入れ替わる動機とは一体何なのだろう?
「差し支えなければ、双子のお話をもう少し伺えますか? 私も、非常に興味が湧いてきました」
彼は頷き、深く息を吸ってから語り始めた。
「姉の方は、文武両道で、体調管理も完璧な模範生です。学校でも誰もが彼女を称賛し、彼女もその期待に応えるように努力していました。一方で妹の方は、いたって普通。成績も運動能力もごく平均的で、特に目立つことはありません。唯一、妹が姉に対して抱いているのは、強い尊敬心……いや、それ以上の、崇拝に近い感情です」
姉を尊敬する妹。しかし、入れ替わりの話が本当だとすると、その尊敬心はどのように影響しているのだろうか?
「では、妹さんは姉を本当に崇拝しているとしたら、何かを頼まれればそれを全力で叶えようとするのではないでしょうか?」
折山さんは軽く頷き、私の考えを肯定するように応じた。
「そうでしょうね。彼女なら、どんなことでも姉のためにやり遂げるはずです」
私はそこでふと気づいたことがあった。姉が完璧ならば、どうして風邪をひいたのか。彼女の体調管理の徹底ぶりを考えると、それは想像しにくい。だが、もし姉が風邪をひいていたらどうだろう? 妹が姉の代わりに登校している理由が見えてくるかもしれない。
「ちょっと思いついたんですが、こういうことは考えられないでしょうか。姉は皆勤賞を欲しがっていて、だからこそ妹に頼んで、入れ替わって学校に通わせているのでは?」
私の言葉に、折山さんは驚いた表情を見せた。
「皆勤賞……ですか?」
「ええ。姉は、完璧主義者でしょう? 彼女が風邪をひいたら、学校での評価が下がるのを恐れて、どうにかしてその状況を回避しようと考えるかもしれません。それに、皆勤賞というのは一度逃せばもう二度と手に入らないものですから」
その考えが彼の中で形になったのか、折山さんはゆっくりと頷き始めた。
「なるほど……。確かに、それならば辻褄が合いますね。姉の完璧さに対する執着が、妹にその代役を頼む理由になる……」
「そうです。もちろんこれは一つの推測に過ぎませんが。姉の風邪が治れば、いずれまた元の彼女に戻るのではないでしょうか」
折山さんは、しばし黙考していたが、やがて笑顔を見せた。
「いやぁ、あなたは柔軟な考え方をお持ちですね。限りなく真実に近いと思いますよ。あ、あそこが自宅です」
目的地が見え、私も少しホッとした。仮説とはいえ、満足のいく推理ができたことで、胸の中に達成感が広がる。
折山さんが降りる際、振り向いてこう言った。
「そうだ、あなたの連絡先を教えてください。双子に真相を確かめたら、結果をお知らせしますから」
数日してから、私の携帯に折山さんからのメッセージが届いた。
「あなたの推理、見事的中しましたよ。妹が姉のために入れ替わっていたようです。あなたの指摘通り、彼女は皆勤賞をどうしても諦めたくなかったみたいです」
私は携帯を閉じ、助手席に視線を落とした。推理が当たったことに特別な感慨はなかったが、少しばかりの安堵感が胸に広がる。双子に関する謎は解けた。だが、思うことは一つ。人は、なぜそこまで「完璧」にこだわるのか。
タクシーのメーターをリセットしながら、ふと考えた。姉妹のように、誰かのために自分を犠牲にすることもあれば、逆に誰かのために力を借りることもある。それが人間関係の複雑さだ。だが、そこにはいつも「見栄」や「期待」が付きまとう。そういったものが時に、人を追い詰めるのかもしれない。
エンジンを再びかけ、次の目的地へ向けて走り出す。何事もなく日々が進むのか、それともまた次の「謎」が待ち構えているのかは分からない。だが、今日一日を終えた今、このタクシーには、少しばかりの満足感が漂っていた。
「次のお客さんは、どんな話を聞かせてくれるだろうか……」
バックミラー越しに、自分自身の姿を見つめながら、私はアクセルを踏み込んだ。