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後日譚 容疑者 諫早周平

「あなたが犯行時間に何をしていたのか、話してもらえますか」



 マンションの管理室。僕はそこで刑事に事情聴取を受けていた。



「僕は自室にこもって、小説を書いていました」



「つまり、アリバイはないわけだ」



 刑事が鋭い目つきでにらんでくる。アリバイがない以上、容疑者となってしまう。仕方がないことだが、隣室で殺人があったがために貴重な執筆時間が削られていく。そんなことを考えていると、ノックの音がした。



「あの、諫早さんに来客がありまして……」

 管理人が部屋に入るなり言う。



「今は事件の調査中だ。事情を伝えて帰ってもらえ」



「待ってください。今回の事件に関係する人です」

 嘘だ。現時点では事件と何も関係がない。しかし、今回の事件を解決してくれるであろう人物だ。


「ちょっと失礼」

 断りを入れると杖をついた老人が入ってくる。



「おい、許可なく入ってくるな!」



「待ってました!」



「ふむ、諫早殿はどうやら事件を呼ぶ何かを持っておるようじゃ」

 入口に立っていたのは、僕の救世主・喜八郎さんだった。



「で、この老人は事件のどこに関係があるんだ?」

 なんとかして刑事を説得しなくては。あの島での事件はあまりにも変わっていたので、警察内で知らない人はいないはずだ。



「警察は今回の事件で、犯人の特定に困っているんじゃありませんか? この方は以前、とある島での事件を解決しました」

 僕はその時の事件について、かいつまんで説明した。刑事は疑った目で喜八郎さんを見る。半信半疑に違いない。



「『百聞は一見に如かず』ですから、まずは現場を見せてはいかがでしょうか」



「あの事件のことは知ってるが、今回は解決できるとは思えん。しょうがない、現場を見せてやる。尻尾を巻いて逃げるのがオチだろうがな」

 刑事は嘲笑しつつ、事件の起きた現場へと僕たちを案内した。



「さて、現場に着いたわけじゃが、どういう状況じゃ?」

 刑事を見るが、説明を始める気配はない。どうやら僕から話すしかなさそうだ。



「簡単に言うとフランス人の女性が僕の隣室で殺されたんです。鋭利な刃物で刺されたようです。凶器は現場から持ち去られ、遺体のそばに被害者が書いた血文字がありました。『mer』と書かれています。ほら、あそこです」

 遺体のそばの鮮血で書かれた文字を指し示す。見るだけでめまいがしそうな光景だ。



「第一発見者は彼女の母です。ほら、あそこにいるでしょう? それから、被害者には恋人がいて、これまた被害者の隣室に住んでいます。事件当時、エレベーターは点検中で、作業員によると階段を使った人物はいないとのことです。唯一の出入り口は突き当りにある螺旋階段です。外に通じています」

 一息にしゃべると喜八郎さんの様子を見る。



「つまり、容疑者は僕と母親、恋人の三人です」



「ふん、警察がこれだけ時間をかけても分らんのだ。その老人に解けるとは思えんが」



 沈黙が続く。もしかしてこの事件は喜八郎さんにも解けないのだろうか。

「一つ質問じゃが、恋人の名前に『海』という字は入っておるかの?」



「いいえ。それがどうかしましたか」と僕。



「『mer』はフランス語で『海』という意味じゃ。犯人に分らぬように、フランス語で書いたと考えたのじゃが。ふむ、この線は考える必要はなさそうじゃ」



「それみたことか。散々考えた挙句、出てきた考えはそれだけか?」

 あきらかにこの刑事は喜八郎さんを小馬鹿にしている。事情聴取の時といい腹が立つしゃべり方だ。



「むむ、この血文字『r』の字が変わった形をしておるのう」

 血文字は筆記体で書かれており、「r」の字の終わりで被害者の指は止まっているのだが、変に上へ伸びている。



「この血文字、『r』の続きを書こうとしたのではなかろうか。先ほど、第一発見者は母君だと言ったの。第一発見者を疑うのが鉄則じゃ。そして『mer』の続きに『e』を足すと違う意味になるのじゃ。『母』じゃよ」

 その場に衝撃が走った。



「なるほど、さすがです!」



「だがねぇ、母親が犯人だとして凶器はどこへ消えたんだ? 証拠がなけりゃ、たとえ母親が犯人でも連行できんのだが」

 冷たく刑事が言う。確かにそうだ。その問題が残っている。



「あの螺旋階段を見てみたいのう。何か新たな発見があるやもしれん」



「先に言っておくが、あの螺旋階段を使った形跡はない。今日は雨だ。もし、螺旋階段を降りて凶器を捨てにいけば、濡れた足跡があるはずだ」



「ふむ、確かに足跡は見当たらんの。もしかして、被害者の部屋には傘がなかったのではないかの?」



「変なことを聞く爺さんだ。すぐ確認してくるから、待ってろ」

 刑事が事件現場に向かうと、僕は小声で聞いた。



「あの、僕が巻き込んでおいてなんですけれど、この事件解けそうですか?」



「むろんじゃ。まあ、傘の有無にかかっておるがのう」



 しばらくすると刑事が戻ってきた。

「確かに傘はなかったが、それがどうしたというんだ」



「問題おおありじゃよ。傘がなくては雨の日に困るじゃろう。今日のように土砂降りではなおさらじゃ」

 外はバケツをひっくり返したような大雨だ。自室にこもって執筆していたのもそれが一因だ。こんな日に取材には行きたくない。



「で、それがどうしたんだ」



「さて、刑事殿は螺旋階段の下を捜索されたかの?」



「してない。そもそも、誰も螺旋階段を使った形跡がないんだ。不要だろう」



「ふむ、『先入観は判断を誤らせる』じゃよ。調べておれば、わしの出る幕はなかったろうに。さて、凶器の刃物と傘が消えた。ここから導きだされる結論はこうじゃ」



 喜八郎さんは杖の曲がった部分を螺旋階段の欄干にひっかけると、手を放す。当然、杖は下へ下へと滑っていく。

「さて、螺旋階段の下を調べれば、折りたたまれた傘の中に刃物が包まれておるんじゃなかろうか」



 それからはあっという間だった。凶器が見つかったことで事件は一件落着、母親が犯行を認めた。



「あなたの言うとおりだった。俺の考えが間違っていた。詫びさせて欲しい」



「気にすることではなかろう。これを機に成長すればよいのじゃ。諫早殿、刑事殿との用はなくなったの。ここまで来たのじゃ、せっかくじゃからお邪魔するかの」



 部屋で歓談していると、喜八郎さんが何か思いついたようだった。



「フランス語の『mer』は海。『mere』は母じゃ。海という漢字の中には母という字が含まれておる。海と母は切っても切れない関係じゃ。『海は生命の母』、まさにそのとおりじゃな」

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