僕は白い息を吐きながら目当ての家を探していた。以前知り合ったときに住所を教えてもらっている。閑静な住宅街の表札を注意深く見ながら歩く。
ほどなくして、目当ての家を見つけた。表札には「大島」と書かれている。インターフォンを押すと少し間をおいて応答があった。
「おお、諫早殿。久しぶりじゃのう」
懐かしい声が聞こえてくる。
「ご無沙汰しています。喜八郎さんにお話を伺いたくて来ました。アポなしですみません」
「旧知の仲じゃ、気にするでない。今、鍵を開ける。少々待たれよ」
ガチャリと音が聞こえ、目の前の扉が開かれる。小柄で杖をついた老人が現れた。喜八郎さんだ。
「さあ、中に入るのじゃ。最近は寒くてかなわん」
喜八郎さんは体を震わせながら言う。
「さあ、そこの椅子にかけるがよい」
喜八郎さんのすすめで座る。品の良いブラウン色をしており、部屋の調度とマッチしていた。ひじ掛けが絶妙な高さで座り心地がいい。やはり、喜八郎さんの家は落ち着いた雰囲気だった。
「風の噂によると、諫早殿は小説家になったらしいのう。夢がかなったわけじゃ。ほれ、ここに一冊ある」
喜八郎さんが手元に持った本の表紙を見せてきた。そこにはこう書かれていた。「諫早周平著」と。
嬉しいと同時に恥ずかしくもあった。彼には卓越した推理力がある。僕が書いたミステリーのトリックなんてすぐに見破ったに違いない。
「まあ、なんとか生活できるくらいには。これもあなたの教えがあってこそです。昔よりは先入観を持たずに物事を見れますし、観察力もあがったと思います」
「さて、今日はなんの用で来たのかのう」
「それが……最近行き詰ってまして。俗に言うスランプです。そのとき思ったんです。喜八郎さんと話せばなんとかなるんじゃないかと」
「ほう、どういうことじゃ?」
「あなたには豊富な知識と物事の本質を見抜く力があります。僕の陥っている状況を話すことで、的確なアドバイスをもらえると思って」
「ふむ、嬉しい言葉じゃ。素直に誉め言葉として受け取るかの。して、そこにある袋はなんじゃ?」
彼は僕の足元にある袋を指して言った。
「これは手土産です。この前、取材で島根に行く機会があって」そう言いながら袋を渡す。
「ほう、これは嬉しいのう。しかし、東京から島根とは、かなり距離があるの。新幹線で行くには缶詰状態で辛かったろうに」
「それがそうでもないんです。時間にも余裕があったので、『サンライズ出雲』で行きましたから」
「寝台列車か。最近は『サンライズ』のみになってしまったからのう」
喜八郎さんはため息をつく。
「そうじゃ、諫早殿はスランプを抜け出したいとのことじゃったな。そのまま小説にされてはかなわんが、知的好奇心をそそる話がある」
「本当ですか!」
「まあ、あまり期待され過ぎても困る。なにしろ昔の話じゃ。さすがに細かいところは忘れておる。さて、どこから話したもんかのう。うむ、先ほど話題に出た寝台列車に関連する話じゃ。今から二十年ほど前になるかの。わしも寝台列車に乗ったのじゃ。『北斗星』は知っておるかの」
「ええ、名前だけは」
「そこで起きた血生臭い事件の話じゃ」
僕は椅子から身を乗り出す。きっと面白い話に違いない。
「わしが『北斗星』に乗っておったときのことじゃ。偶然にも同じ車両の個室で殺人事件があったのじゃ。まあ、犯人はすぐに捕まったがの」
「それはつまり、あの島での事件のように喜八郎さんが持ち前の推理力で解決したんですね?」目を輝かせてたずねる。
「いや、わしの出る幕はなかった。犯人はあっさり警察に捕まったわい」
予想外の展開で少しがっかりした。これでは新聞に載っているような事件とかわりがなさそうだ。
「今、『そんな話か』と思ったじゃろ。諫早殿は隠し事が下手じゃからの。まあ、そう早く結論を出すでない。あれは今と同じように厳しい冬のことじゃった。わしは旅行で北海道の名所を巡った。小樽や札幌などじゃ」
「わしは札幌での観光を終えると『北斗星』に乗り込んだ。わしは一人旅じゃったから、一人用個室を利用したのじゃ。その晩のことじゃった。函館を出て少ししてからのことじゃ。突然、悲鳴が車両中に響き渡った。当然、皆何事かと部屋から出てくる。何が悲鳴の原因かは明白じゃった。ある個室の前にうら若き女性が立ちつくしておっての。その個室の扉が開いておって中をのぞくと――血まみれになった老人が倒れておった。つまり、殺人事件が起こったわけじゃ」
今のところ、喜八郎さんの言うことは普通の事件と同じだ。
「でも、その事件の犯人は警察が捕まえたんでしょう? 僕にはどこが興味をそそる話なのかまるっきり分からないです」
「そう決めつけるには早すぎじゃ。最後まで聞いてから判断しても遅くはなかろう」
「殺人事件が起こったから当然、途中の駅で緊急停止したのじゃ。連絡を受けていた警察がすぐに乗り込んできての。わしと同じ車両じゃったから、もちろん事情聴取を受けた。被害者はナイフで胸を一突きされておったと刑事が言った。まあ、その後の流れは諫早殿も知ってのとおりじゃ。身体検査に手荷物チェックに周辺の聞き込み。聞き込みの結果、ある人物が犯人として浮上したのじゃ。容疑者は若い男じゃった」
当時のことを思い出すかのように、喜八郎さんは目をつむって上を向く。きっと、まぶたの中で当時の状況を思い起こしているのだろう。
「なぜ、その男が犯人として浮上したかは明白じゃった。事件直後から挙動不審だったからじゃ。警察が問い詰めると男はあっさり自白した」
まだ、どこが変わった事件なのか見当がつかない。
「問題は犯人の男が叫んだ台詞じゃ。違う車両におっても、よく聞こえたわい。『俺は殺す相手を間違えた』と。犯人はちょうど列車の真ん中の寝台を利用しておっての。警察が身柄を拘束して駅のホームに連れ出すとみな興味津々じゃった」
彼の言葉から当時の情景を思い浮かべる。深々とした夜、駅のホームには警察。多数の見物人。
「わしは犯人の言った言葉が気になったのじゃ。そこで、現場の光景をもう一度思い出した。被害者の老人は部屋の入口すぐに倒れておった。犯人が扉をノックして出てきたところをグサリとやったに違いない。ここまではいたって普通じゃ。諫早殿の言うとおりじゃ。ここからが興味深くてのう」
喜八郎さんの眼鏡の奥に見える瞳が輝いていた。
「わしは考えた。なにが犯人の計画を狂わせたのか。そこで事件の起きた時間を思い出してみた。函館を出てしばらくしてから犯行は起きた。して、諫早殿。スイッチバックは知っておるかの?」
「ええ。列車が駅に停車して前後を逆にして運転する、で間違ってませんよね?」
「うむ、そのとおりじゃ。スイッチバックは今まで先頭車両だったものが、今度は最後尾の車両になるわけじゃ。急こう配の斜面を登る列車に採用されておる。さて、ここまで言えば賢い貴殿のことじゃ。察しがついたのではないかの?」
あの島での一件以降、考える力はあがったものの今回に関してはお手上げだった。
「その表情を見るにまだピンときてないようじゃ。スイッチバックこそが事件の鍵じゃ。実はの、『北斗星』にもスイッチバックが採用されておっての。それは
「まさか……」
「そのまさか、じゃ。わしはそれに気づくと事件現場とは反対側の車両に向かった。そして、とある個室の扉をノックしたのじゃ。部屋の主が出てきての、わしが連行されていった犯人の特徴について話すとこう言ったのじゃ。『それは私が金を貸している男に違いない!』と。ここまでくれば、事件の全貌が見えてこよう。こういうことじゃ。犯人はある人物を殺すために『北斗星』に乗った。しかし、うたた寝したのか他の事情があるのか、ともかく犯人は
「どうじゃ、興味深い事件じゃったと思う。さて、本題のスランプ脱出の件じゃ。貴殿の状況を聞かせてもらおうかの」
僕は自分の置かれた状況を説明した。その晩は議論が白熱し、帰宅したのは深夜のことだった。