文芸部の部室は北校舎の地下二階にある。そこは建築上の関係で渡り廊下を通らないとたどり着けない。その渡り廊下も職員室と校長室を両側に置いた場所に設置されてあるため、誰も進んで通りたがらない。難なく通れるとすれば、自分のような「ザ・優等生」だけだろう。
そんな調子の理衣子だから、まさか職員室の目の前を通った時に学年主任から声をかけられるとは思わなかった。厳しい教育指導で有名な学年主任が理衣子は嫌いではなかったが、なにぶん大人と子どもなので、理衣子はちょっと身構える。
「何でしょうか、
教師は
「佐々
はて? と理衣子は首を傾げる。彼と仲良く話した記憶はない。
「佐々君……ですか?」
「ああ。綾本、同じクラスだろう」
確かに、理衣子と彼は一年一組のクラスメイトである。
「佐々君がどうかしたんですか」
「その髪の色をいい加減もとに戻せと言ってやりたいところなんだが、あいにく俺は雑務が忙しい。おまけに一年一組の担任はあの優しい斉藤先生だ。聞けばお前たちのクラスは授業崩壊を起こしているそうじゃないか」
「ああ……」
理衣子は少し面倒くさい気持ちで主任の言葉に反応した。担任教諭を務める
「首謀者は佐々鈴蘭と聞いた」
学年主任は声の調子を強めた。
理衣子はちょっと考える風に目線を外してみせた。
「佐々君が何を考えているのか、私にはわかりません。斉藤先生の授業はおもしろいし、佐々君、学校の成績はすごくいいのに……。変な人ですよね」
「生徒による先生いじめは言語道断だ。綾本、佐々が中心人物だとみて間違いないか?」
何か、スパイみたいね。
理衣子は胃のあたりが不快感で重たく感じながらも、「ええ」と笑顔を見せた。
「佐々君が斉藤先生いじめの主犯格です。でも先生、私が話したとは言わないでくださいね」
部室には女子生徒たちの誘いから逃れてきた理衣子の友人が、先に場所を陣取っていた。
「私、郡上先生のコマ扱いになりそうだわ」
理衣子は深いため息を落とし、人気のない北校舎の、二人だけの昼の時間を邪魔されたことに苛立ちを示した。
「大体、佐々君なんて赤の他人よ。それも男子。私の知ったことじゃないわよ」
「私はちょっと興味あるけどな」
相手からの発言に、理衣子はきゅっと眉根を寄せる。
「
「わかってるよ。興味があるって言っただけじゃんか。理衣子は嫉妬深いなー」
「あなたが尻軽なのよ」
「ひでぇ」
梗はぷっと吹き出す。実際、
「私も世界でいちばん自分が大好きだから、あなたの相手が務まるのかしらね」
「それ、自分で言うか?」
梗が理衣子の弁当箱に箸を近づけたので、「あげないわよ」と牽制する。
「高校生にもなって授業崩壊とか馬鹿らしい。斉藤先生も意気地がないのよねー。教師に必要なのは絶対的な自信とものを教える側のオーラよ。大人が子どもにビビッてどうするのよ。この一件、佐々君よりも斉藤先生の方が情けない気がするわ」
「おー、手厳しい」
「それでさあ、梗」
「ん?」
理衣子は上目遣いに相手を見つめた。
「私、郡上先生に告げ口したっていう展開になってしまったから、しばらくボディガードをしてくれない? 男子から何かされたくないもん」
「オーケー」
梗は理衣子の頭を軽くなでる。理衣子は彼女の手が好きなので、用がない時にもこうやって梗の手を待つことがある。
綾本理衣子と神崎梗は、「親友コンビ」だ。
この二人の仲を学年中で知らない者はいない。
斉藤高雄は決して悪い教師ではない。ただちょっと、時代遅れの熱血魂がうっとうしい方向へずれてしまったような、困った大人で、今どき教科書を丸め込んで教壇にバシバシ叩きつけ、
「君たちは! この食糧危機と環境破壊のさなかに生まれた、人類最大の少子化世代であり! この困難な時代を生きなければならない究極のサバイバーで! 僕は何としても君たちの助けになるため勉学を教える身であり!」
などとのたまうものだから、教室の中はしれっとした空気に混じってこらえきれない笑いがどうしても絶えない。
「だからこんな大事な時期にUNOをやってる場合じゃないんだよ! 佐々鈴蘭!」
斉藤は後ろの席で仲間たちとカードゲームに興じている天敵を、名指しで訴えた。
「大体何でUNOなんだよ!? 馴染みないだろ! トランプの方がみんな知ってるだろうに!」
「ごめん、先生。だいぶおもしろい」
佐々鈴蘭は意地悪そうな目つきをさらに細め、ケラケラしている。
「今度はー、ボードゲームしようと思ってるんですよー」
佐々に反省の色は見えない。斉藤の反応をこれ見よがしにうかがい、ワクワクしたようなまなざしさえ浮かべ、冷笑を決める。
理衣子はじっと佐々の行動を観察していた。
(彼は、冷たい人ね)
佐々に友だちは多い。フットワークは意外と軽く、誰かとしゃべることに苦心している様子は、今まで一度も見たことがない。特に暗い側面も見受けられない。
しかし、佐々鈴蘭は冷たいと思う。
冷たい、とは、冷酷の意味をいうのか、冷淡といえばいいのか、理衣子にはまだ判断できないけれど、彼の本質を当てようとするほど、寒々しいオーラが見える気がするのだ。
(このまま授業が進まないのは嫌だな。私の優秀な成績に影響が出てしまう。さて、どうしたものかしら)
いまだ止まない斉藤と佐々鈴蘭のバトルを他人事のように見つめながら、理衣子は授業内容とまったく違うところで頭を抱えていた。
たいした進展もないまま、一日が過ぎた。つまりあっという間に放課後となった。
この際、先生に頼まれたことなど忘れてしまおうかと、理衣子は優等生らしからぬ邪念を働いていた。
帰り道を梗と並んで歩きながら、自分なりに頭を使って作戦を練る。何だか今日は考えてばかりだ。
「あんまり思いつめるとよくないぞ。ジュース奢ってやる」
隣から冷えたペットボトルが贈られる。彼女が先ほど自販機で買ったやつだ。
「梗のお金でしょ。もらえないよ」
「大丈夫だよ。ちゃんと甘えな」
梗は理衣子にジュースを手渡すと、背中をポンと優しく叩いた。見た目がいい上に気遣いまでできる彼女は、完璧なまでにイケメン女子そのものである。
「何だか、あなたと仲良くできてる私って、すごく幸運ね。数多くのライバルに勝って神崎梗の親友ポジを手に入れられたこと、奇跡だと思う」
「いやいや、私のこと買いかぶり過ぎだよ」
梗は照れたように笑い、ふいっと理衣子から顔を背けた。耳がどことなく赤くなっている。心から嬉しかったようだ。理衣子も知らず胸の底が温かくなる。
今日一日の憂うつが吹き飛んでしまうような、居心地のよさだった。
**
観察二日目。さっそく佐々鈴蘭は次の先生いびりを発案したらしい。今度はクラス中を巻き込んで、教室の全座席を教壇から背を向ける形にした。つまり先生から見て、机を後ろに向けたのである。気まずい表情を浮かべるクラスメイトを差し置いて、佐々の一団は意地悪い態度を崩さない。みんな彼らが怖くて注意できないのだ。斉藤の授業の時にだけ佐々たちはこのような行為に出る。理衣子はあきれ半分、疑問半分で彼らを見とがめた。
(どんどんエスカレートしてきてるわね)
さて、佐々鈴蘭は何が目的なのだろう。
もうすぐ一時限目の授業が始まる。朝から一組の教室は不穏なざわめきで満ちていた。
「佐々君」
いつまでも学校の件でウジウジ悩むなど、こちらのプライドが許さない。理衣子は単刀直入、佐々鈴蘭に勝負を仕掛けることにした。
休み時間、彼は仲間のもとから離れ、一人になる時があるのだ。しばらく見張っていてわかったが、どうやら図書室に寄っているらしい。あの見た目で読書が好きとは、人は一見しただけでは判断できないものである。
西校舎の一階へ続く渡り廊下に差しかかり、生徒がまばらになった時を見計らって、理衣子は前を歩く背中に一声かけた。
ふっと、彼が振り向く。
その瞳が意外そうに見開かれる。
「……綾本?」
きょとんとした顔が意外にも可愛らしくて、ほんの少しばかり乙女心が刺激された理衣子は、さっきよりも声の強さを柔らかくした。
「ほとんど話したことないのに、名前を覚えてもらっていて光栄だわ」
コホンと一つ咳払い。佐々鈴蘭は注意深くこちらの動向をうかがっている。
「私が、ほぼすべての教科で成績優秀であり、授業も真面目に受けて、さらには学級委員長であることもご存じね?」
「はあ、まあ」
「直近の定期テストでは学年の三位。文句なしの結果を残したわ」
「はあ……。おめでとう」
「それで、手短に伝えます。あなたのせいで授業が成り立たないわ。私の輝かしい学生生活に傷がつくから、迷惑行為はやめてちょうだい」
この手の者には下手に出てはいけないのだ。きっちり、はっきりと、嫌なものは嫌だと宣言しなければ反省しない。
佐々はぽかんとしている。言われている意味がわからないほど鈍感ではないはずだ。もう一度宣言しようかと、理衣子が口を開きかけた時、思わぬ一言が相手の方から漏れた。
「それは好きな人のため?」
(…………はい?)
今度は理衣子が唖然とする番だった。この男は何を素っ頓狂なことを口走っているのだ。
「……何言ってるの。私は大人なんて興味ないわよ」
「いや、そっちじゃなくて」
佐々は理衣子の発言を訂正した。
「斉藤はどうでもよくて。綾本、お前、好きな人いるだろ」
断定したように言われ、少しムッとした。(あなたが私の何を知ってるのよ)と胸中で相手に毒づく。佐々は様子をうかがうように視線を送っている。何となく気まずい思いがして、理衣子は顔を背けた。
「……私の話は今は必要ないでしょ。こっちは授業崩壊をやめろと言ってるだけなんだから」
「何でやめてほしいの?」
「……あのねえ」
あきれてため息をつく。毎日を平穏に過ごしたいのは全人類の学生たちが願う最優先事項ではないか。
「あなたの行為に、困っている人は多いという意味よ。私は学級委員長だから代表して注意してるだけ。佐々君、世界はあなた中心に動いてなんかいません。今すぐ心を改めて、真面目に授業を受けなさい」
佐々はふっと笑うと、「気が強いね」とからかうように理衣子を見た。
理衣子も負けじと見つめ返した。昔から、気の強さには自信がある。口喧嘩で男子に負けたことなどなかったし、小学生の頃には泣かせた経験もある。自分に敵などいない。
双方の膠着状態がしばし続き、次に佐々が言葉を発した時には、軽く数分が過ぎていた。
「斉藤はつまらない男だよ。綾本がフォローしてやる価値もない」
「ずいぶん辛辣なのねえ」
「そりゃあね。俺はあいつに一矢報いなければいけないからさ」
彼がそう言った瞬間、周りに冷たい空気が流れた気がした。声に怒りの色が含まれているのを感じ取った理衣子は、不思議に思って尋ねる。
「……どうして?」
「綾本には教えない」
意地悪そうに佐々は微笑む。これ以上深入りするのを拒絶する笑みだった。それを察した理衣子は、とりあえず今日のところはあきらめることにした。
「忠告はしたからね。肝に銘じておいて」
「善処するよ」
理衣子は教室に戻り、佐々はそのまま西校舎の図書室に進んでいった。
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