一心不乱に走っているうちに、イーサンはいつの間にかカイリーの家にやってきていた。カイリーは出掛けたりせず家にいたのでよかったが、彼女の家族も皆在宅だった。
ジーンズにタンクトップとカーディガンという恰好だったカイリーは、ちょっと待っててと云ってデニムジャケットを羽織ってきた。イーサンの様子がどことなくおかしいことに気づいたらしい。公園にでも行って話しましょうと、カイリーはイーサンの腕に手をかけた。
広い舗道を歩く途中、なんだか今日は寒いね、とカイリーが絡めている腕に力を込めた。イーサンは空を見上げた。遠くの空を、黒く厚い雲が覆っているのが見える。雨になるかもしれないと思いながら、イーサンは何度となく歩いた、慣れ親しんだ道を進んだ。
やがて公園に辿り着き、カイリーと並んでベンチに腰を下ろすと――ようやくイーサンは「実は……親が、ニューヨークに行くことになったんだ」と、父の転勤について話し始めた。
「ニューヨーク?」
「うん……、マンハッタンのアッパーイーストサイドにあるアパートメントだってさ。冗談じゃないよな、そんなところじゃオレオが可哀想だろ。だから俺だけ残ろうと思ってるんだ」
そう云って、イーサンは熱い眼差しでカイリーを見つめた。「……もちろん、カイリーもいるし」
しかし、彼女の反応は想像したものと違っていた。
途惑ったような、少し困ったような彼女の表情に、イーサンは訝しげに眉根を寄せた。
「カイリー?」
「イーサン……私も、話があったの。ちょっと前から云わなくちゃ、云わなくちゃって思ってたんだけど……」
そんなことを云いだしたカイリーに、イーサンはベンチの背凭れに手をかけ、向き合うように坐り直した。
「話って?」
「……留学するの」
「え?」
「私、ずっと夢だったの。日本に行きたい、日本で暮らしたいって……やっとパパを説得できて、来年の春から東京の学校に行けることになったの。日本は四月スタートだから……」
留学? 日本? 東京?
わかりたくない言葉が頭の中をぐるぐると回っている。イーサンは、出来の悪いジョークでも聞いたかのように、唇を歪めて笑った。
「日本だって? そんなこと、今まで一度も云わなかったじゃないか」
しかし、カイリーの表情は真剣だった。イーサンの表情から、無理に作った笑みがすぅと消える。
「私が日本のアニメを好きなのは知ってるでしょ? 秋葉原とか原宿とか、ずっと行きたいって思ってた。でもパパが厳しいから、無理だって諦めてたけど……やっと認めてもらえたの。でね、
「ホリデイブレイクって……なんでだよ? 留学って、学校は四月からなんだろ? どうして十二月からなんて」
「学校が始まる前に、日本語学校で言葉や日本独特の習慣なんかを勉強しておきたいの。今までも日本人の友達とチャットしたり、アニメを視て独学で覚えたから、少しはわかるけど……。ママも一緒に、新学期の始まる四月まで生活してみるのよ。それがパパの出した条件だったから」
「で? 四月になったら独り暮らし?」
「ううん、学校の寮に入るの。これもパパの条件。学校も女子校よ」
――ばかな。ありえない、とイーサンはカイリーから目を逸らし、
オレオのことももちろんあるが、自分がニューヨークに行かず残ろうと考えたいちばんの理由はカイリーだ。カイリーと離れるなんて考えられなくて残るつもりだったのに、カイリーは日本に行ってしまうだなんて――そんなこと、これっぽっちだって話してくれたことはなかったのに。
「……俺とは? どうするつもりだったんだよ。ビデオチャットでデートするのか? こっちに帰ってくるのは一年後? 二年後?」
イーサンはカイリーの表情の変化を微塵も見逃すまいとするかのように、じっと見つめた。
やや俯き気味に、カイリーは言葉を押しだした。
「……ごめんなさい、イーサン。でも、私たちまだ十六歳よ。勉強にも集中しなくちゃいけないし、これからもっといろんな人と出逢って人生経験だって積まなくちゃ。……イーサンも、オレオは可哀想かもしれないけど、ニューヨークで暮らせるなんてそんなチャンスを逃したらもったいないわ。考え直すべきだと思う……」
「はっきり云えよ。終わりなんだな? 私はトーキョー、あなたはニューヨーク、じゃあお別れね、って?」
イーサンは立ちあがり、吐き棄てるように云った。「あっさりしたもんだな。そんな簡単に切り棄てられるくらいにしか想われてなかったなんて、がっかりだよ。バイバイ、カイリー。さよならだ」
「イーサン……」
自分を憐れむような声が背後から聞こえたが、イーサンは振り向かなかった。振り向けなかったのだ。
ぽつん、と額に落ちた雨粒に空を仰ぎ、大きく溜息をつく。
「別に、怒ってやしないよ……よかったよ。たいして想われてもいない女のためにひとりで残ることにならなくて。雨降ってきたぞ、カイリーもさっさと帰れよ」
一息にそれだけ云うと、イーサンは着ていたウインドブレイカーを脱いで後ろ手に放り、走りだした。イーサン待ってと声が聞こえたが、もう話すべきことなどなかった。
自分と違い、カイリーは自ら望んで日本へ行くのだ。自分との付き合いよりも、日本に留学することのほうが彼女にとっては大事なのだ。なにを云ったって、どうしたって無駄なことだ。
ばらばらと降りだした雨が、駆けていくイーサンの頬を濡らした。