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第12話 出来なかった見送り


 フキの手術が無事に成功し、退院したその日は、青辻が次の仕事へと発つ日だった。


 引き取りに行ったのは田辺夫妻で、快癒するまで暫くの間は、猫の駅長としての仕事はお休みするという事に決まった。


 当日泊まり勤務だった槙永は、車で町を出ていった青辻を見送る事も出来なかった。


 朝焼けの見える時間が、以前よりずっと遅くなっている事に気づきながら、券売機の電源を入れる。


 そしてまだ一人きりの駅員室へと戻り、私物のスマートフォンを鞄から取り出した。

 実を言えば、青辻とは連絡先の交換さえしていない。


 フキの怪我の件で、バタバタしていた為、寝台では口走ったが、好きだと明確に伝える機会すら無かった。


 青辻に会う事の無い朝も、そして終電の時刻も、とても寂しい。


(まるで、夢を見ていた気分だな……良い夢だったな)


 槙永がそんな風に感じるようになった頃、深水の自然は色づき始めた。


 山の木々は紅や黄色に輝いていて、紅葉まっさかりの季節となった。深水の秋は一瞬であるから、十月の風景は貴重だ。十一月の半ばには、雪が降る事も多い。


 寒さが増してきたある日の朝、本日の日勤である田辺がフキを久しぶりに連れてきた。フキが正式に猫の駅長として復職する事に決まったからだ。


 柔らかな猫の頭を撫でながら、槙永は優しい目をする。泊まり勤務だったので、この日は入れ違いに退勤して、一度家へと戻った。


 そしてチーズトーストを噛みながら、青辻の写真サイトを見る。青辻は風景写真が専門のようだが、仕事で頼まれて、近代アート等を撮影する事もあるらしい。


 当初は深水関連の写真を繰り返し見ているだけだった槙永だが、現在は日々更新される他の掲載写真も閲覧するようになった。


 一方的なファンに戻った形だが、それでも写真を見る度に、青辻の存在と気配を思い出せるから、とても幸せだと感じる。


(また、来てくれ日があるかな、深水に。ああ、きっと来てくれるだろうな。そうしたら、今度は勇気を出して連絡先を聞いてみよう)


 そう考えながら、味気ないパンを食べ終え、槙永は眠った。


 翌日は休暇をはさみ、その次は日勤だった。支度を整えて、早朝の駅へと向かう。駅の外に置いてあったバケツの表面には、氷が張っていた。思わず両腕で体を抱きながら、花壇に降りた霜を見る。既に、十一月に近い。


 平穏な生活を祈っていたはずの槙永は、青辻がいない日々の味気無さにも気づきつつあったが、軽くかぶりを振って、そんな思考を追い払った。この土地で、今後も穏やかに、己は生きていきたいと考える。


 泊まり勤務だった澤木と合流し、始発の作業を手伝い、それからは駅の清掃をした。遠くの土手にはススキが見える。


(今日の仕事は、後は終電の発着を待つだけだな)


 槙永は日勤の最後の仕事として、終電を迎えるべくホームに立った。今日は乗車客は誰もいないので、降りてくるかもしれない誰かを待つだけだ。それも、いないかもしれない。車掌以外が無人というのは、決して珍しい事では無い。それが深水駅の日常だ。


 入ってくる電車を見守っていると、気持ちが冷静になる。

 停車した電車のドアが開くと、この日は、一人の青年客が降りてきた。


「元気にしていたか?」


 降りてきた青辻の姿を見て、虚を突かれた槙永が息を呑む。微笑している青辻の姿は、以前と何も変わらない。


「和泉に会いたくて、おかしくなりそうだったよ」


 そう言うと青辻は、切符を槙永に見せた。昨日の掲載写真の事を考えると、現地から電車を乗り継いでやってきたらしい。


 目を丸くしてから、それを確認し、改札へと槙永が視線を向ける。青辻が歩き始めたので、慌てて追いかけて、切符を回収した。


「今日は日勤か?」

「はい」

「待ってる」


 それを聞いて、己の仕事を思い出し、急いで槙永はホームへと戻った。そして中の清掃を手伝い、再び走り出す電車を見送る。


 その後、夢を見ているのではないかと疑いながら待合室へと戻れば、駅員室の小窓の向こうにいる田辺と話している青辻の姿が確かにあった。


「お疲れ様」


 声をかけられて、動揺していると、フキが足元にすり寄ってきた。それを一瞥した青辻が、今度は屈んで柔らかな笑顔を浮かべる。


「元気になって良かったな。お前もまだまだ現役で頼むぞ」


 喉で笑ってから、フキに向かって青辻がカメラを構えた。


 槙永は何とか平静を保とうと努力しながら駅員室へと入る。そして残りの仕事をしながら、胸の動悸に苛まれていた。


 再会したら、どのように、何を話そうかと、何度か考えた事があったはずなのに、何も言葉が出てこない。


 それから泊まり勤務の田辺に仕事を引き継いで、槙永は駅員室から外に出た。すると専用出入口の扉のすぐ外に、青辻が立っていた。


「前に来なかった二年半よりも、今回の約一ヶ月の方が、長く感じたぞ俺は」


 ブラックの缶コーヒーを、青辻が槙永に差し出す。

 それを受け取り、ぎこちなく槙永は頷いた。


「今回はどのくらい滞在なさるんですか?」

「偲の店には一週間くらいだな」


 ならば再び別れが来る。青辻が不在の日々は、当初とても辛かった為、それを思えば苦しいが、再会出来た喜びの方が強い。


「家が決まり次第、一度戻って車や引越しの手配をして、それからはずっといる」

「――え?」


 だが続いて響いた青辻の言葉の意味を上手く咀嚼出来なくて、槙永は首を傾げた。


「俺も、深水町に越してくる事に決めたよ。今後は、この土地の自然を撮る事に専念する」


 青辻は己の分の缶コーヒーを傾けると、それを飲みこんでからじっと槙永を見た。


「いつでも、和泉の隣にいられるように。辛い時も。いいや、それだけじゃなく、隣にいて、俺が幸せにする。約束だ」

「青辻さん……」


 その言葉が嬉しくて、思わず槙永は口元を綻ばせる。


「歩こう。少し話がしたいんだ」


 二人は並んで歩き始めた。雲の輪郭を月が際立たせている。




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