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第8話 キス

 脱衣所には音量を大きくしたスマートフォンを置き、いつもよりずっと早く髪や体を洗う。駅員の制服は予備の品がロッカーにある。仮眠時用のラフなシャツ等もいくつかストックがあった。シャワーを出てから、髪を乾かして、槙永は着脱しやすい服に着替える。そして持参していたおにぎりを見てから、溜息をついた。携帯食があると青辻は語っていたが、本当に大丈夫だろうかと、不安になる。


 無理をさせていないだろうか、過ごしにくくは無いだろうか。グルグルとそう考えたのは、恋心からというよりは、槙永が真面目な駅員だからだ。


 その後、夜の十一時まで、青辻の心配をしながら、槙永は駅員室に待機していた。しかし追加連絡も無く、今宵は終了となり、仮眠の時刻となった。槙永は冷えたおにぎりを鞄に入れたまま、それを手に二階へと向かった。


 そして静かにノックすると、青辻の返答があった。起こしてしまっただろうかと不安に思いながらも中に入ると、そこにあるテレビの電源をつけて見ていた様子の青辻が、槙永に振り返る。


「今夜が一番酷くて、朝にはやむらしいな」

「ええ。眞山営業所からも、田辺さんからも、あまり心配はいらないだろうと言われています。青辻さんもご安心下さい」


 努めて冷静に、落ち着かせるような声音を心掛けて、槙永は述べた。自分だったら、そう言われたいという想いもあった。


「ああ。有難う。心配は特に無い。この辺りでは、珍しいと言えるほどの雨量では無いからな。木が倒れたとさえ聞いていなければ、車を走らせた自信がある」

「それは危険だと思います」

「――それと……槙永くんを一人にさせるのが不安だったというのもある」

「俺は頼りになりませんか?」

「いいや? 田辺さんより頼りになるように見えるぞ」


 真面目に聞いた槙永に対し、青辻は笑顔で首を振る。


「単純に俺が心配だったと言うだけだよ」

「心配なのは、頼りにならないからでは?」

「頼りになる、ならないは、関係ないな。心配をする事に、理由がいるか? まぁ、座ってくれ。俺が言うのもなんだが」


 青辻はそう言って微笑すると、仮眠室のソファを視線で示した。二人掛けのソファで、その位置は青辻の横である。少し戸惑ってから、小さく頷き、槙永は移動した。そして座ってから後悔した。思いのほか、距離が近い。これならば、空いている二つのベッドの片方に座る方がマシだった。ただでさえ他者に対して緊張するのに、至近距離に恋する相手がいたら、なおさらだ。


「きちんと夕食はとったか?」

「……青辻さんこそ」

「俺の鞄は、基本的に着替えと食べ物と撮影に使うものしか入っていない」


 その言葉にゴミ箱を見れば、確かに食べ物の空袋が見えた。頷いてから、おずおずと槙永が切り出す。


「宜しければ、ただの塩のおにぎりならあります」

「槙永くんの手作りか?」

「まぁ」

「それは魅力的だが、槙永くんは何を食べたんだ?」

「……ええと」

「食べていないと見た」

「っ……一食くらい、何も食べなくたって、俺は平気です」

「だからそんなに細いんだな。抱き心地が悪そうだ」

「は?」


 抱き心地なんていう言葉が飛び出したものだから、不意打ちされた気分になり、槙永は露骨に赤面してしまった。すると青辻が呆れたように笑う。そして視線をテレビへと戻した。


「槙永くん、気をつけろよ。俺は男もイける口だからな」

「えっ」

「バイなんだよ、俺は。好きになると、性別を問わないタイプだ」


 驚愕して、槙永は目を見開いた。しかしテレビを見たままの青辻は、それには気づいた様子も無く、つらつらと続ける。


「去年まで付き合ってたのも男だ」

「……」

「槙永くんみたいな男前の美人は、俺にとってドストライクだから、本当に気をつけろよ。ま、無理強いは趣味じゃないが、隙だらけの姿を見ると、押し倒したくなるというのは本音だ。そのTシャツ、ちょっと大きすぎるんじゃないか? いつもきっちりした制服だし、この前の撮影の時だってそこそこ洒落たシャツだったのに、今見える鎖骨は目に毒だ」


 なんでもない事のように、青辻が述べた。唖然とした槙永は、それからゆっくりと二度、大きく瞬きをした。


「……本当に、バイなんですか?」

「おう。気持ち悪いか?」

「いえ……」

「そりゃあ良かった。槙永くんに嫌われたら悲しいからな」

「嫌ったりしません。そういうのは、個人の個性で自由で、その……」

「フォローして欲しいわけでもないぞ?」

「本当に違うんです。そうじゃなく……」


 己も同じであるからと言いかけて、槙永は口を噤んだ。青辻の言葉が、ただの冗談でない保証は無い。青辻が無駄な嘘をつくような人間には思えなかったが、自分の性癖を公言する事は、槙永にとっては恐怖だった。


 その為言葉を探していると、青辻がテレビの画面から槙永へと視線を向けた。そして短く息を呑んだ。


「顔、真っ赤だぞ。ひかれるかもしれないとは思ったが、意識されるとは思わなかった」

「べ、別に俺は――」

「意外と槙永くんは、無表情に見えて顔に出るんだな」


 指摘され、より一層槙永は赤面してしまった。上気した頬が熱い。自分自身でもそれが分かるほどで、思わず俯く。青辻がそっと槙永の肩に触れたのは、その時だった。


「そんなに緊張するな。傷つくだろ。別に取って食おうとしているわけじゃ――拒まれ方次第では、無いぞ。俺に触られるのは嫌か?」

「な、何を言って……」

「気持ち悪いか?」

「気持ち悪くないです。嫌じゃないです!」


 自分が仮に拒絶されたら、絶対に傷つくからと、そう思って大きな声で槙永は反論してしまった。すると青辻が喉で笑う。


「ふぅん。槙永くんは、男もイけるのか?」

「……っ」 

「その沈黙は肯定と取る。今、恋人は?」

「いません」

「それは事実みたいだな。田辺さんと澤木くんにもリサーチ済みだから根拠もある」

「はい?」

「キスしたい。俺にキスされるのは嫌か?」

「何を言って――……ッ」


 ソファの端まで逃げた槙永の後頭部に手をまわし、青辻が掠め取るように唇を奪った。驚いて反射的に槙永が目を閉じる。すると一度唇を離してから、青辻が再び啄むようにキスをした。槙永は唇に力を込めて、その感触に怯えていた。


 誰かと、このように口づけをしたのは、まだ周囲に同性愛者だと露見する前が最後だ。四年は前の話だった。だから決して経験が無いというわけではなかったが、緊張と怯えの方が強い。


「槙永くん、口、開けて?」


 青辻の言葉に、目を閉じたままで、逆にギュッと槙永は唇を引き結んだ。すると、青辻が槙永の下唇を舌でなぞりはじめる。そうされる内に、体がフワフワとしだした。


 思わず目と唇を薄っすらと開けると、真正面にあった青辻の顔がより近づいてきて、迷いなく深々と槙永の唇を奪った。逃げようとする槙永の舌を、青辻は追い詰める。


 歯列をなぞられ、濃厚なキスで舌をひきずりだされ、甘く噛まれた瞬間、槙永の背筋を甘い快楽が駆け抜けた。


「ん、ンふ」


 しかし青辻は腰を引こうとした槙永を許さず、Tシャツの下に手を差し入れて、胸の突起を探り出し、敏感な乳頭を刺激しながら、角度を変えてキスを続ける。


「っ……ッ、ン……は」


 漸く唇が離れた時、槙永はTシャツを開けられていた。


「勃ってる」

「!」


 その言葉に、槙永は蒼褪めそうになった。これでは、同性愛に嫌悪が無い事はおろか――体が青辻を欲しているのだと、露見してしまう。


「ち、違うんです、これは……違……」

「何がどう違うんだ? 教えてくれ」

「違うんです、だ、だから……止め、止めてくれ」

「――俺が怖いか?」

「青辻さんは怖くない、でも……みんなが怖い」


 快楽と恐怖の狭間で、思わず槙永は本音を口走った。すると、ピクリと青辻の動きが止まった。


「みんな?」

「変に……変に思われる……それが怖くて……だから……」


 気づけば槙永は涙ぐんでいた。普段のどこか凛々しくさえある、内心とは乖離した無表情のかんばせが、今は紅潮し、どこか怯えた草食獣のようにさえ見える有り様だ。怯えたように震えるその姿を一瞥した青辻が、手を放して優しく槙永の髪を撫でる。


「変な事なんか無い。が――この世界に、偏見がないとも俺は言わない。ただな、槙永くん。俺は、酷い事はしないよ。大丈夫だから」

「……」

「泣かないでくれ。そんな顔をさせたかったわけじゃないんだ。あー、俺はダメだな。気になる麗人と二人きりで、気を良くしていた」


 微苦笑した青辻は、そう述べると槙永を抱き起し、正面から両腕を回す。


「男だから嫌なわけじゃなさそうだな」

「……っ、その……」

「何があった? 聞かせてくれないか?」


 耳元で青辻に囁かれ、思わず槙永は目を閉じる。槙永の眦から零れた涙を、青辻が指先で拭う。その優しい温度に絆され、槙永は思わず過去を口にした。





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