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第4話 缶コーヒー


 ――今日も、青辻は来るのだろうか。


 泊まり勤務の準備を整え、駅へと向かいながら、槙永はそんな事を考えていた。来たからと言って、話が出来るわけではない。他者と話すのは相変わらず恐怖だ。事務的な会話、義務的な話題、それらをかろうじてこなすだけでも、槙永には精一杯だ。


(だけど少しで良いから、話したい)


 ただそうした思いがあって、駅についてすぐ、シャッターが開いている出入口を見てしまった。裏手に回り、専用口から駅員室へと入ると、田辺が緑茶を飲んでいた。


「おはよう、槙永くん」


 挨拶を返しながら小窓から駅の待合室を見て、そこに青辻の姿をみとめた槙永は、自然と鼓動が早くなったのを自覚していた。それだけ槙永にとって、青辻泰孝という存在は大きい。なお始発の対応は田辺が行ったので、この朝、槙永が青辻と話す機会は無かった。本日の日勤は澤木なので、終電の対応は彼だ。


(……姿を見られただけで、十分か)


 槙永はそう感じつつも、普段より気もそぞろに仕事をしてしまった。


 だがいつも以上に乗車客が少なかった事もあり、何の問題も起きなかった。澤木が駅の清掃に出ている間、めったに鳴らない電話の番をしながら、膝の上にフキをのせて、ぼんやりとしていたのだが。


 澤木と二人の場合の昼食では、澤木の母親がおかずを多めに作ってくれる。なので槙永はおにぎりの他に、美味なエビフライを食しながら、何度も何度もホーム側の窓を見てしまった。しかし青辻が日中に、電車を降りてくる事は無かった。


 その夜は、仮眠室でスマートフォンを操作し、写真サイトを閲覧した。

 この日も新しい写真が掲載されていたので、青辻がまだこの土地にいる事が分かる。


(田辺さんは、暫く青辻さんが滞在するようだと話していたけど、一体いつまでいるんだろう?)


 漠然とそう考えながら、槙永は微睡んだ。そして四時に起床し、シャワー室で汗を流してから、駅のシャッターを上げ、出入口の鍵を開けた。券売機の電源が入っている事を確認し、自動販売機の前に立つ。扉が開く音がしたのは、丁度その時だった。


「ああ、おはよう。槙永くん」


 見れば青辻が立っていた。いつも始発で出かけるようだったから、会えるのではないかと期待していたが、いざそれが叶っても、やはり言葉は見つからない。


「おはようございます」


 必死で挨拶を返したが、かたい声音になってしまった。


「おごるよ。前に気を悪くさせてしまったお詫びだ」

「……本当に、平気ですので」


 内心で狼狽えながら槙永が答える前で、さっさと青辻は小銭を自動販売機に投入してしまった。


「どれが好きだ?」

「……その」

「じゃあこれだな。ホットだろう?」


 槙永が口ごもっていると、青辻が缶コーヒーのブラックを選んだ。そして出てきた品を、槙永に差し出す。


「最初の日、これを飲んでいたよな?」

「……はい」


 まだ名前も知らなかった頃の事を、よく覚えているなと槙永は思った。温かい缶を反射的に受け取った槙永は、一度視線を下げてから、勇気を出して顔を上げた。青辻の方が背が高いので、自然と少し見上げる形になる。


「有難うございます」

「いいや。受け取ってくれて、こちらこそお礼を言いたい気分だ」


 柔らかく笑った青辻の精悍な表情を目にし、槙永は再び言葉に窮した。


 幼少時から会話が苦手だったわけではない。けれど今は、慣れないと話が出来なくなってしまった。それが悔やまれてならない。


「都会から来たと、田辺さんに聞いた。ああこれも、個人情報だな。悪い。ただ、興味があってな。どうしてまた、深水駅に希望配属を?」


 青辻は二本目のブラックコーヒーの缶を購入しながら、明るい声音で槙永に問いかけた。缶を握ったままで、槙永は必死に思考を巡らせる。


「……風景に惹かれたんです」


 嘘ではない。槙永はそう内心で繰り返し考えながらも、『逃げてきた』とは言わなかった。言えなかった。そうである以上、青辻の写真に救われたという説明も、口を衝いては出てこない。


「俺と同じだな。俺も深水の大自然に魅了されている。中でも、眞山鉄道の沿線は、表情が豊かだ。何度目にしても、ずっと見ていられるよ」


 青辻が吐息に笑みをのせてから、両頬を持ち上げた。そして缶をあける。その仕草を見ていた槙永は、ギュッと缶を握る手に力を込めた。


「分かります」


 とても小さな声音だったが、槙永なりに勇気を出して、会話を返した。きっと傍から見ていたならば、何という事もない無難な応答、ただの雑談なのだろうが、槙永は声が震えてしまいそうになっていた。自発的に他者と話したいと明確に思ったのは、久方ぶりの事だった。


「澤木くんは『田舎だ、田舎』だと嘆いていたけどな、俺からすれば、この土地に実家があるなんて羨ましい限りだ。槙永くんは、この土地で暮らしてみて、どうだ? 確かに交通の便は悪いだろう? 駅員さんに言うのは失礼かもしれないけどな」

「あまり出かけませんので」

「そうか。じゃあ、休みの日は何をしてるんだ?」


 基本的には寝ている。趣味はといえば、それこそ青辻のサイトを眺める事くらいだ。だから槙永は、返事に困ってしまう。


「これも個人情報だったか?」

「あ、いえ……その……」


 また感じの悪い対応をしてしまっただろうと槙永は悔やんだ。だが青辻が微笑したままだったので、その表情に少しだけ安堵した。青辻はそのまま穏やかな目で、槙永の言葉を待っていてくれた。なので動揺を制し、槙永は続けて口を開く事が出来た。


「……あまり、話すのが得意ではないんです。申し訳ありません」

「うん。そうみたいだな。俺は、槙永くんみたいな人、嫌いじゃないけどな」

「え?」

「得意じゃないだけで、感受性は誰よりも強かったりする。そして槙永くんの場合、深水の自然が好きだという感性が俺と同じだ。俺達は、仲良くなれる気がするぞ。ブラックが好きで、ホット派だという共通点もある」


 どこか楽しげな声で、青辻が断言した。その言葉を耳にして、槙永は思わず赤面しそうになった。


「……フキに餌をあげてきます」

「お。照れたな? 意外と可愛い人なんだな、槙永くんは」


 冗談めかした青辻の声に、思わず顔を背けてから、槙永は歩き始めた。


 次に顔を合わせたのは始発の改札時だったが、この時は特に話をしなかった。だが早朝に言葉を交わせた事が嬉しくて、もうそれだけで槙永にとっては十分だった。胸を躍らせながら帰宅し、槙永は朝食を用意する。冷凍しておいた白米を解凍して、インスタントのお茶漬けを作った。流し込むようにそれを食べてから、シャワーを浴びて、そして改めてノートパソコンの前に陣取る。昨日、泊まり勤務の間に掲載された写真を、改めてパソコンで表示した。スマートフォンでは閲覧済みだったが、何度でも見たいと感じさせられる。


 深水町周辺の大自然もそうだが、青辻という写真家の撮影した作品もまた、繰り返し目にしたいと感じさせる魅力がある。頬杖をつきながら、じっくりと槙永は写真を見ていた。

 明日は休日だ。だが、青辻にも話した通り、槙永にはこれといった予定は無い。


(この景色は、次の次の無人駅の辺りかもしれないな。見に行ってみようか)


 ぼんやりとそう考えた槙永は、その後暫く写真を見た後、ベッドに入った。





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