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第3話 写真家



 一日の休みを挟んで、次のシフトは日勤だった。朝五時半から夕方五時半までの勤務となる。朝焼けを見ながら駅に向かい、裏の専用出入口から駅員室へと入る。この日の宿泊勤務だった澤木は、眠そうに欠伸をしながら槙永を出迎えた。


「あ、フキに餌をあげないと!」


 澤木が思い出したように声を上げた。槙永は小さく頷く。


 実家で猫を飼っていた事もあり、槙永は何かと猫の駅長の世話をする事が多い。フキも駅員の中では一番、槙永に懐いている節がある。駅員室から外へと出て、槙永はフキの姿を探した。するとシャッターを切る音がした。


 驚いて視線を向けると、カメラを構えている青年の姿があった。一昨日話しかけてきた青年で、自動販売機の隣に座っているフキを撮影している。


「あ、おはよう。新顔さん」

「……おはようございます」

「もう一人も随分と若い新顔さんになっていたな」


 そう述べて快活に笑った青年を見ていると、フキが槙永の足元へとやってきた。


「ええと――槙永くんか」


 制服の胸元の名札を確認し、青年が言った。槙永はフキを抱き上げて、その視線から逃れるように、顔を背ける。居心地が悪く感じる。自分を『個』として認識されると、他者への恐怖が甦るからだ。


「一枚撮らせてもらっても良いか?」

「フキの事なら、撮影して頂いて構いません」

「いいや。槙永くんを。俺は、男前は写真に収めておく主義なんだ」


 からかわれているのだと感じ、槙永は思わず目を眇めた。だが同意するその前に、フキを抱いたままの姿を一枚撮影された。


「うん。笑うともっと魅力的になりそうだな。折角元の素材が美人さんなんだから」


 男を相手に美人と評する事が、一般的なのか否かを、槙永は知らない。けれど風貌をそのように、嘗てゲイバーで表現された事があり、その記憶が脳裏を過ぎった。容姿を揶揄するように褒められる事は、嫌な記憶を想起させられるので、槙永にとって嬉しい事では無かった。もしもこの安寧の地でまで、己の指向が露見したならば。そう考えると指先が震えそうになる。


 結果、無言で踵を返し、駅員室まで戻った。その後になって、きっと感じが悪くなってしまっただろうなと後悔したが、会話をする恐怖の方が勝った以上、どうにも出来ない。


「槙永さん? どうかしました?」

「別に」


 淡々と澤木に対して答えながら、槙永はフキにキャットフードを与えた。食べ始めた猫をじっと眺めながら、なんとか内心を落ち着けようと努力する。きっと青年客にとっては特に意味の無い雑談だったのだろうと理性では分かったから、槙永は臆病な己の内心を呪わずにはいられなかった。


 その後澤木が改札と始発の見送りを行う間、昨日の引継ぎ資料を閲覧しつつ、槙永は何度も溜息を押し殺した。普段同僚の澤木と田辺としか話さない分、ちょっとした雑談でも心が乱される。


 本日の泊まり勤務の田辺が顔を出したのは、午前七時の事だった。既に澤木は退勤後だったので、駅員室で二人と一匹という状態だ。泊まり勤務は午前七時開始で、仮眠を挟んでから、翌朝の七時までとなる。


 初老の田辺は、頬の皴を指で撫でながら、穏やかな微笑を浮かべていた。あと数年で定年退職するそうだ。


 電車は一日に数本と、時折イベントで臨時の運行があるだけなので、始発後の数時間は特に作業が無い。この空き時間で、駅構内の清掃等を行うので、率先して槙永は動いた。片方は電話番として、駅員室に残る事が多い。


 花壇に水をあげながら、今日は少し気温が下がったなと考える。


 その後は窓を拭き、床を清掃し、昼食に備えた。田辺は駅長として、既に深水町に骨を埋める覚悟との事で、この土地の空き家を購入し、奥さんと暮らしている。愛妻弁当を必ず持参する田辺は、いつも多めにおかずを持ってきて、簡単におにぎりを持ってくるだけの槙永にお裾分けをしてくれる。


「槙永くんは、背は高いのに、少々やせ型だねぇ」


 百七十六センチの槙永より、田辺は十センチは背が低い。だが胴回りは、倍はあるだろう。一見すると福の神のような体格だ。


「ちゃんと食べないとダメだよ。体力は何ごとにも必要だ」


 目元の皴を深くしながら、重箱の一段を、槙永の前に田辺が置いた。中には色とりどりの卵焼きや唐揚げが入っている。田辺の妻は料理上手だ。


「そうそう。今年もサツマイモが沢山採れたんだ。昨日ね、息子にも宅配便で送ったんだが、槙永くんも少し貰ってくれない?」

「いつもご馳走様です」


 そんな話をしながら過ごし、終電である五時二十分発着の電車を迎えるまで働いた。五時半までが日勤のシフトではあるが、多くの場合はその後残業をする。改札に立ちながら、深水駅からの乗車客がゼロである事を槙永は確認する。最終の電車で戻ってくる人間も、いつもほとんどいない。それでも電車は毎日発着する。


 槙永はホームへと移動した。この日最終電車から降りてきた客は、一名だった。


「あ」


 すると降車客が声を出した。つられて見れば、それは朝冗談を言った青年客だった。フワフワの少し癖がある髪を、照れくさそうに搔きながら、青年は微苦笑した。


「朝は気を悪くさせたか?」

「……いえ」

「そうか? それなら良かった。ずっと気になっていたんだよ。今日の泊まりは、田辺さん?」

「個人情報はお答えできません」

「真面目だな」


 早く会話を打ち切りたくなって、会釈してから槙永は、車掌と合流した。そして電車内の点検と簡単な清掃を手伝った後、乗車客が一人もいない終電がホームから去っていくのを見送った。


 そして駅構内へと戻り、券売機の電源を落とす。これで本日の仕事は終了だ。駅のシャッターを閉めるのは、泊まり勤務の人間の作業である。そう考えながら駅員室へと戻り、槙永は思わず息を呑んだ。駅員用の出入口の扉が開いている。その先の外には、しゃがんでフキを撫でている先程の青年の姿があった。部外者立ち入り禁止の駅員室だが、ギリギリの所で中には入っていない。見守っている駅長の田辺も笑顔だ。


「ああ、槙永くん。そうだ、紹介するよ」

「……はい」

「こちらは、青辻泰孝くんと言ってね、高名な写真家さんなんだ」


 それを聞いて、槙永は硬直した。するとフキから手を放して、青年が立ち上がった。槙永よりも長身で、百八十センチ台半ばくらいの背丈だ。肩幅も広く胸板も厚い。


「高名なんて恐縮ですよ、田辺さん」

「でも、海外でまで個展をしたりしているというのは凄いよ」

「元々あちらで暮らしていた経験が長くて、知人がギャラリーを貸してくれただけです」

「それにかかりっきりだったんだろう?」

「ええ、まぁ……その関連ですね。そうじゃなければ、二年半も深水に来ないなんて事は無いな。この土地は俺にとって、第二の故郷ですからね」


 明るい声で語る青辻と、両頬を持ち上げている楽しそうな田辺を見て、槙永は言葉を探した。一方的にではあるが、命の恩人だとすら感じていた写真家がそこにいると知り、体が震えそうになる。瞠目した槙永は、冷や汗すらかきながら、じっと青辻に顔を向ける。


「こちらの槙永くんはね、その間に深水駅へと希望配属でやってきたんだよ。真面目でね、仕事ぶりもしっかりしていてねぇ。次の駅長の大候補なんだよ」

「希望配属? それはまた珍しいな。まだ若いのに」

「青辻くんは、今年いくつだっけ?」

「二十八歳です」

「槙永くんは二十七歳だから、私から見ると同じようなものだけどねぇ」


 何も言えないままで、己について雑談している二人を、じっと槙永は見ていた。


 朝夕共に、苦手意識から恐怖すら覚えた他人である青辻が、不意に特別な存在に思えてしまって、困惑が強くなる。青辻泰孝という写真家が、どのような人物なのか考える事は過去にもあったし、いつか一生に一度で良いから話してみたいと感じた事もあった。だが不意にそれが叶っても、夢想していたような言葉は何も出てこない。たった一言、ファンだとすら口に出来ない。身に巣喰う他者への恐怖が根付かせた怯えと緊張の方が前面に出てしまう。


「まだまだ田辺さんは現役だろう? そんな事ばっかり言っていないで。さて、俺はそろそろ帰ります。また明日。田辺さんと話せて良かったよ。それに槙永くんも、また」


 結局槙永は一言も発する事が出来なかったのだが、気を悪くした様子も無く、青辻は笑顔で帰っていった。呆然とそれを見送っていた槙永は、田辺が咳払いした時になって、漸く我に返った。


「やっぱり、若い子は写真とかには興味が無いかい?」

「い、いえ……写真集も持っています」

「おお、そうだったのかぁ。それなら、話してみると良いよ。暫くは滞在すると言っていたからねぇ。今日もお疲れ様」


 その後田辺に見送られながら退勤作業をした槙永だが、頭の中は青辻のこと一色となってしまい、自分がどのようにして帰宅したのか上手く思い出せなかった。


 家に入ってすぐ、鍵を閉めて玄関で座りこんだ。動悸が酷い。何度か深呼吸してから室内に入り、本棚へと一直線に向かう。そして青辻泰孝と記載されている写真集の背表紙を何度も見た。何とか動揺を鎮めようと思いながらノートパソコンを起動して、そちらでも写真サイトを閲覧する。そこには新しい写真が掲載されていた。深水駅周辺の写真だった。他にも、初めて会った日に撮影していたと思しき、駅構内の朝方の写真や、今朝撮影していた自動販売機横に佇むフキの写真も投稿されていた。信じられない思いで、唖然としたまま、槙永は暫しの間新しい写真群を見据えていた。


 気づけば、再び体が震えそうになっていた。今度はその理由が異なる。感動していたからだ。緊張からではない。


(あの人が、俺を救ってくれた人だったのか……)


 目頭が熱くなり、思わず槙永は双眸を伏せた。




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